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第18章 おじさんとじいさん
第229話
夜半過ぎ。森の奥を撫でる風の音が、やけに緊張を含んでいた。
俺はその気配に、コーヒーミルの手を止めた。
焙煎の残り香がまだ店内に漂っている。だが、その空気のどこかが微かに違う。
静かすぎる。虫の羽音すら、消えていた。
玄関から一歩、外に出る。月は雲に隠れ、村の灯りはとっくに消えている。
しかし──空気が張っていた。確実に何かが、村に紛れ込んでいる。
俺は何も言わず、扉を閉めてカウンターに戻った。
珈琲豆を一つ、指先に挟み、静かに潰す。指の腹に伝わる感触だけで、熱と力を集める。
カウンターの向こうに、じいさんがいた。
すでに椅子に腰かけ、手の中で煙草を回していた。
「……来たかの」
「さあな。だが、空気が臭い」
「南の風じゃ。あの国の魔法使いは、香を纏う癖がある。殺気に甘さを混ぜれば、気取られぬと思うたのかもしれんが……」
じいさんは火をつけた煙草をくゆらせ、ぼそりと呟いた。
「鼻が利くやつがいるとも知らずに」
俺は棚からもう一本、煙草を取り出した。
いつもより重く、香りを濃く調合した特製だ。
火をつけると、煙は空中で輪を描き、ふわりと漂いながら店内を包み込んでいく。
この煙には仕掛けがある。魔力を帯びた気配を掴み取り、拡散させずに凝縮する結界だ。仕込んだのは俺だが、狙ったものは自然とそこに絡まる。
「コーヒーも頼む」
「準備してある」
俺はポットに手を伸ばし、極濃に淹れた豆を火にかけた。湯気が立ち上がると同時に、香ばしい苦味が漂い、それが煙の輪と混ざり合う。
コーヒーと煙草。静かだが強烈な香りの層が、店内を包み始める。
音が消えた。
誰かが、店の前に立っている。
足音はない。だが、空気が拒絶している。
じいさんは煙を吐きながら、杖を床に立てた。
「三人。正面、脇の窓、そして裏手。迷うことなく、殺しに来たな」
「わざわざ村までご苦労なこった」
「わしが無防備に老いたと思ってのう」
「そう思わせる外見だからな」
じいさんは口元をゆがめて笑い、立ち上がった。
「では、迎えてやるか。何の罪もない村を、騒がせた報いは──高くつくぞ」
扉が、そっと開いた。
入ってきたのは、黒い装束に身を包んだ男だった。顔は布で覆われ、手には刃と呪符が握られている。明らかに、迷いもない殺意。
しかし──その一歩が、煙の輪を踏み抜いた瞬間、動きが止まった。
まるで、重力が変わったかのように。煙が絡みつき、珈琲の香が思考を鈍らせる。
そこへ、じいさんの声が落ちた。
「──“時封の言霊”」
静かだった。だが、それだけで十分だった。
男の体が、瞬間、止まった。
時間が滞ったように、刀を振るう腕も、叫びかけた口も、凍りついたように硬直する。
そして──じいさんの杖が、ゆるやかに振り下ろされた。
「去ね」
その一言で、男は後ろへ弾け飛び、壁に叩きつけられた。
同時に、裏手と窓の影からも気配が殺到する。
だが、煙の結界が先に応える。
店の隅から噴き出した濃密な煙が、二人目の刺客を包み込み、その場で咳き込ませた。
俺はカウンター越しに、そいつの背後に手を伸ばし、指先ひとつで、空間を閉じた。
空気が圧縮し、逃げ場のない泡に変わる。
「閉じた空間では、呼吸も魔法も通じない」
そのまま、そいつは昏倒した。
三人目──屋根を滑ってきた影に、じいさんが振り返ることなく杖を向けた。
「火精、目覚めよ」
ぱしん、と空気が弾ける音。
屋根の上で閃光が爆ぜ、悲鳴ひとつなく、気配が消えた。
沈黙が戻る。
俺とじいさんだけが、煙の中に立っていた。
外には誰も気づかず、村は静けさを保ったままだった。
「……こんな夜に、よくもまあご苦労なことだ」
「情報が漏れたな。わしの居所が」
「そいつら、どうする」
「放っておいても、目覚めたときにはすべて忘れておる。わしの魔法は、“記憶”の根から封じる」
「徹底してるな」
「それでも、生きていればまた来る。だから、動くしかあるまい」
じいさんは杖をつき、椅子に腰を下ろした。
俺は煙草の火をもみ消し、新しい一本に火をつけた。
「……迷惑かけたのう」
「別に。煙と珈琲の香りが、少し濃くなっただけだ」
「ふっ、それなら結構」
店の中に、再び静けさが戻る。
その香りの中には、戦いの痕跡も、血の匂いもない。
ただ、濃密な苦味と、安らぎだけが残っていた。
俺はその気配に、コーヒーミルの手を止めた。
焙煎の残り香がまだ店内に漂っている。だが、その空気のどこかが微かに違う。
静かすぎる。虫の羽音すら、消えていた。
玄関から一歩、外に出る。月は雲に隠れ、村の灯りはとっくに消えている。
しかし──空気が張っていた。確実に何かが、村に紛れ込んでいる。
俺は何も言わず、扉を閉めてカウンターに戻った。
珈琲豆を一つ、指先に挟み、静かに潰す。指の腹に伝わる感触だけで、熱と力を集める。
カウンターの向こうに、じいさんがいた。
すでに椅子に腰かけ、手の中で煙草を回していた。
「……来たかの」
「さあな。だが、空気が臭い」
「南の風じゃ。あの国の魔法使いは、香を纏う癖がある。殺気に甘さを混ぜれば、気取られぬと思うたのかもしれんが……」
じいさんは火をつけた煙草をくゆらせ、ぼそりと呟いた。
「鼻が利くやつがいるとも知らずに」
俺は棚からもう一本、煙草を取り出した。
いつもより重く、香りを濃く調合した特製だ。
火をつけると、煙は空中で輪を描き、ふわりと漂いながら店内を包み込んでいく。
この煙には仕掛けがある。魔力を帯びた気配を掴み取り、拡散させずに凝縮する結界だ。仕込んだのは俺だが、狙ったものは自然とそこに絡まる。
「コーヒーも頼む」
「準備してある」
俺はポットに手を伸ばし、極濃に淹れた豆を火にかけた。湯気が立ち上がると同時に、香ばしい苦味が漂い、それが煙の輪と混ざり合う。
コーヒーと煙草。静かだが強烈な香りの層が、店内を包み始める。
音が消えた。
誰かが、店の前に立っている。
足音はない。だが、空気が拒絶している。
じいさんは煙を吐きながら、杖を床に立てた。
「三人。正面、脇の窓、そして裏手。迷うことなく、殺しに来たな」
「わざわざ村までご苦労なこった」
「わしが無防備に老いたと思ってのう」
「そう思わせる外見だからな」
じいさんは口元をゆがめて笑い、立ち上がった。
「では、迎えてやるか。何の罪もない村を、騒がせた報いは──高くつくぞ」
扉が、そっと開いた。
入ってきたのは、黒い装束に身を包んだ男だった。顔は布で覆われ、手には刃と呪符が握られている。明らかに、迷いもない殺意。
しかし──その一歩が、煙の輪を踏み抜いた瞬間、動きが止まった。
まるで、重力が変わったかのように。煙が絡みつき、珈琲の香が思考を鈍らせる。
そこへ、じいさんの声が落ちた。
「──“時封の言霊”」
静かだった。だが、それだけで十分だった。
男の体が、瞬間、止まった。
時間が滞ったように、刀を振るう腕も、叫びかけた口も、凍りついたように硬直する。
そして──じいさんの杖が、ゆるやかに振り下ろされた。
「去ね」
その一言で、男は後ろへ弾け飛び、壁に叩きつけられた。
同時に、裏手と窓の影からも気配が殺到する。
だが、煙の結界が先に応える。
店の隅から噴き出した濃密な煙が、二人目の刺客を包み込み、その場で咳き込ませた。
俺はカウンター越しに、そいつの背後に手を伸ばし、指先ひとつで、空間を閉じた。
空気が圧縮し、逃げ場のない泡に変わる。
「閉じた空間では、呼吸も魔法も通じない」
そのまま、そいつは昏倒した。
三人目──屋根を滑ってきた影に、じいさんが振り返ることなく杖を向けた。
「火精、目覚めよ」
ぱしん、と空気が弾ける音。
屋根の上で閃光が爆ぜ、悲鳴ひとつなく、気配が消えた。
沈黙が戻る。
俺とじいさんだけが、煙の中に立っていた。
外には誰も気づかず、村は静けさを保ったままだった。
「……こんな夜に、よくもまあご苦労なことだ」
「情報が漏れたな。わしの居所が」
「そいつら、どうする」
「放っておいても、目覚めたときにはすべて忘れておる。わしの魔法は、“記憶”の根から封じる」
「徹底してるな」
「それでも、生きていればまた来る。だから、動くしかあるまい」
じいさんは杖をつき、椅子に腰を下ろした。
俺は煙草の火をもみ消し、新しい一本に火をつけた。
「……迷惑かけたのう」
「別に。煙と珈琲の香りが、少し濃くなっただけだ」
「ふっ、それなら結構」
店の中に、再び静けさが戻る。
その香りの中には、戦いの痕跡も、血の匂いもない。
ただ、濃密な苦味と、安らぎだけが残っていた。
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