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最終話
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夏が本格的に町を包み込み始めていた。日差しは強くなり、潮の香りは一層濃くなる。僕のアパートの窓辺で、風鈴がちりん、と涼やかな音を立てた。
町はささやかな夏祭りの準備で、少し浮き足立っている。商店街には手作りの提灯が飾られ、子供たちは浴衣を着る約束をしてはしゃいでいた。
そんなある日のことだ。月詠堂に香月先生が、一枚の町の広報紙を持ってきた。
「海斗さん、これ、ご存じかしら?」
広報紙には『海辺の町の小さな文化祭』という見出しが踊っていた。夏祭りの夜に浜辺の特設ステージで、町の有志が歌や踊りや楽器の演奏などを披露する、毎年恒例のイベントらしい。
「この発表者募集の欄にね、新しく『詩や物語の朗読』という部門ができたそうですの」
先生はそう言って、僕の顔をじっと見た。その瞳が何を言わんとしているか、僕にはすぐに分かってしまった。
「先生……まさか僕に、これをやれと?」
「あら、どうしてかしら。私、まだ何も申し上げていないのに」
先生は優雅に微笑む。その笑顔は、有無を言わさぬ不思議な圧力を持っていた。
冗談じゃない。僕が人前で自分の書いたものを読む? あのデビュー作のサイン会を思い出す。たった数人しか来なかった、あのがらんとした会場。緊張で声が震え、何を話したか全く覚えていない、惨めな時間。あれは僕にとって最大のトラウマの一つだった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「無理です! 僕にはできません!」
僕は即座に、強く首を横に振った。
「そうですか。残念ですわね」
先生は意外なほど、あっさりと引き下がった。
「あなたの、あの言葉のスケッチ。この町の人たちが聞いたらきっと喜びますのに。自分の住む町がこんなにも美しいのだと、改めて気づくことができますのに」
彼女はそう独り言のようにつぶやくと、お茶を一杯飲んで静かに帰っていった。
だが、話はそれで終わりではなかった。香月先生はどうやら、僕以外の全員にこの話をしていたらしい。その日の夕方、月詠堂に集まったそらちゃん、ユキちゃん、ケンタくん、そしてリョウくんに、僕は完全に包囲されることになった。
「海斗さんのお話、聞きたい!」
そらちゃんが僕の袖を引っ張る。
「うん。あの海の絵のお話。みんなにも聞かせてあげたい」
ユキちゃんが静かに、でも力強く頷く。
「海斗さんの文章って、なんか設計図みたいっすよ。町のいいところがちゃんと見える」
リョウくんまでそんなことを言う。みんなのその、曇りのない真っ直ぐな期待。それが僕には何よりも重かった。嬉しいのに、苦しい。応えたいのに、怖い。
僕は何も言えずに俯いてしまった。
「……無理にとは言わんよ」
それまで黙って様子を見ていた志筑さんが、静かに口を開いた。
「だがな、海斗さん。君が東京からこの町に来て何が変わったか。それを試してみる、いい機会じゃないのかね」
彼は僕の目を見て言った。
「君はもう、一人じゃないだろう」
その言葉が、僕の心に深く突き刺さった。
そうだ。僕はもう、一人じゃない。もしまたあの日のように声が震えても、頭が真っ白になっても、目の前には僕を笑わないで、見守ってくれる人たちがいる。僕の言葉を信じてくれる人たちがいる。
「……やります」
僕の口から、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
「僕、読みます。この町で書いた、僕の言葉を」
それを聞いた子供たちはわっと歓声を上げ、志筑さんは満足そうに深く頷いた。僕の人生で一番、勇気のいる決断だったかもしれない。
夏祭りの日。夕暮れが空と海を、優しいグラデーションに染めていた。浜辺に作られたささやかなステージの周りには、たくさんの町の人たちが集まっている。浴衣姿の子供たち。ビールを片手に談笑する大人たち。その温かくて少し緩んだ空気の中で、僕は自分の出番を待っていた。
心臓は今にも口から飛び出しそうだった。手にした原稿が汗で湿っていく。やがて司会の人に名前を呼ばれた。僕は深呼吸を一つして、ステージに上がる。
スポットライトが眩しい。マイクの前に立つと、客席が見えた。
一番前の列に、僕の応援団が勢揃いしていた。そらちゃんたちが小さな手で「がんばれ」と書いた手作りのうちわを振っている。志筑さんと香月先生が、優しい眼差しで頷いている。ホシマルまでちゃっかり志筑さんの膝の上に乗って、こちらを見ていた。
僕はマイクにそっと口を近づけた。
震えるな、僕の声。
僕は原稿に目を落とした。それは僕の失敗したデビュー作ではない。この町に来て僕が、僕自身のために書き綴った言葉のスケッチ。
「……『潮風のスケッチ』」
僕はタイトルを告げた。そして、最初の一文を読み上げる。
「月詠堂の、風鈴の音。それは、夏の訪れを告げる、小さな、銀色の鈴の音だ。ちりん、と鳴るたびに、古いインクの匂いが風に乗り、僕の心を、少しだけ、軽くする……」
初めは少し震えていた声が、読んでいくうちにだんだん落ち着いていく。目の前の聴衆の顔は見ない。僕はただ、僕の言葉が描く風景だけを見つめた。僕が愛するこの町の、何気なくて愛おしい風景を。
言葉がメロディーのように、僕の口から紡がれていく。
読み終えた時、浜辺は一瞬、静寂に包まれた。失敗しただろうか。やっぱり僕の言葉は誰にも届かなかったのだろうか。不安が胸をよぎった、その瞬間。
パチパチパチ、と温かい拍手が波のように押し寄せてきた。それは熱狂的な喝采ではない。でも、一人一人の心のこもった、優しい優しい拍手だった。
僕の言葉が、この町の人たちの心に確かに届いたのだ。
僕はステージの上で、何度も何度も頭を下げた。顔を上げると、そらちゃんたちが満面の笑みで手を振っていた。僕は泣きそうになるのを必死でこらえた。
ステージを降りると、志筑さんがよく冷えたラムネを一本差し出してくれた。
「お疲れさん。立派だったよ、作家先生」
その言葉が僕の胸にじんわりと染みた。
僕はラムネの瓶を傾けながら、夜空を見上げた。空には満天の星がまたたいている。祭りの灯りが海にキラキラと反射している。
僕は作家として挫折した。でも今、この町で僕は、もう一度物書きとして生まれたのかもしれない。声を見つけた。居場所を見つけた。そして、僕の言葉を待ってくれる人たちを見つけた。
僕の本当の物語は、ここから始まる。
そう確信できる、夏の夜だった。
町はささやかな夏祭りの準備で、少し浮き足立っている。商店街には手作りの提灯が飾られ、子供たちは浴衣を着る約束をしてはしゃいでいた。
そんなある日のことだ。月詠堂に香月先生が、一枚の町の広報紙を持ってきた。
「海斗さん、これ、ご存じかしら?」
広報紙には『海辺の町の小さな文化祭』という見出しが踊っていた。夏祭りの夜に浜辺の特設ステージで、町の有志が歌や踊りや楽器の演奏などを披露する、毎年恒例のイベントらしい。
「この発表者募集の欄にね、新しく『詩や物語の朗読』という部門ができたそうですの」
先生はそう言って、僕の顔をじっと見た。その瞳が何を言わんとしているか、僕にはすぐに分かってしまった。
「先生……まさか僕に、これをやれと?」
「あら、どうしてかしら。私、まだ何も申し上げていないのに」
先生は優雅に微笑む。その笑顔は、有無を言わさぬ不思議な圧力を持っていた。
冗談じゃない。僕が人前で自分の書いたものを読む? あのデビュー作のサイン会を思い出す。たった数人しか来なかった、あのがらんとした会場。緊張で声が震え、何を話したか全く覚えていない、惨めな時間。あれは僕にとって最大のトラウマの一つだった。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「無理です! 僕にはできません!」
僕は即座に、強く首を横に振った。
「そうですか。残念ですわね」
先生は意外なほど、あっさりと引き下がった。
「あなたの、あの言葉のスケッチ。この町の人たちが聞いたらきっと喜びますのに。自分の住む町がこんなにも美しいのだと、改めて気づくことができますのに」
彼女はそう独り言のようにつぶやくと、お茶を一杯飲んで静かに帰っていった。
だが、話はそれで終わりではなかった。香月先生はどうやら、僕以外の全員にこの話をしていたらしい。その日の夕方、月詠堂に集まったそらちゃん、ユキちゃん、ケンタくん、そしてリョウくんに、僕は完全に包囲されることになった。
「海斗さんのお話、聞きたい!」
そらちゃんが僕の袖を引っ張る。
「うん。あの海の絵のお話。みんなにも聞かせてあげたい」
ユキちゃんが静かに、でも力強く頷く。
「海斗さんの文章って、なんか設計図みたいっすよ。町のいいところがちゃんと見える」
リョウくんまでそんなことを言う。みんなのその、曇りのない真っ直ぐな期待。それが僕には何よりも重かった。嬉しいのに、苦しい。応えたいのに、怖い。
僕は何も言えずに俯いてしまった。
「……無理にとは言わんよ」
それまで黙って様子を見ていた志筑さんが、静かに口を開いた。
「だがな、海斗さん。君が東京からこの町に来て何が変わったか。それを試してみる、いい機会じゃないのかね」
彼は僕の目を見て言った。
「君はもう、一人じゃないだろう」
その言葉が、僕の心に深く突き刺さった。
そうだ。僕はもう、一人じゃない。もしまたあの日のように声が震えても、頭が真っ白になっても、目の前には僕を笑わないで、見守ってくれる人たちがいる。僕の言葉を信じてくれる人たちがいる。
「……やります」
僕の口から、自分でも驚くほどはっきりとした声が出た。
「僕、読みます。この町で書いた、僕の言葉を」
それを聞いた子供たちはわっと歓声を上げ、志筑さんは満足そうに深く頷いた。僕の人生で一番、勇気のいる決断だったかもしれない。
夏祭りの日。夕暮れが空と海を、優しいグラデーションに染めていた。浜辺に作られたささやかなステージの周りには、たくさんの町の人たちが集まっている。浴衣姿の子供たち。ビールを片手に談笑する大人たち。その温かくて少し緩んだ空気の中で、僕は自分の出番を待っていた。
心臓は今にも口から飛び出しそうだった。手にした原稿が汗で湿っていく。やがて司会の人に名前を呼ばれた。僕は深呼吸を一つして、ステージに上がる。
スポットライトが眩しい。マイクの前に立つと、客席が見えた。
一番前の列に、僕の応援団が勢揃いしていた。そらちゃんたちが小さな手で「がんばれ」と書いた手作りのうちわを振っている。志筑さんと香月先生が、優しい眼差しで頷いている。ホシマルまでちゃっかり志筑さんの膝の上に乗って、こちらを見ていた。
僕はマイクにそっと口を近づけた。
震えるな、僕の声。
僕は原稿に目を落とした。それは僕の失敗したデビュー作ではない。この町に来て僕が、僕自身のために書き綴った言葉のスケッチ。
「……『潮風のスケッチ』」
僕はタイトルを告げた。そして、最初の一文を読み上げる。
「月詠堂の、風鈴の音。それは、夏の訪れを告げる、小さな、銀色の鈴の音だ。ちりん、と鳴るたびに、古いインクの匂いが風に乗り、僕の心を、少しだけ、軽くする……」
初めは少し震えていた声が、読んでいくうちにだんだん落ち着いていく。目の前の聴衆の顔は見ない。僕はただ、僕の言葉が描く風景だけを見つめた。僕が愛するこの町の、何気なくて愛おしい風景を。
言葉がメロディーのように、僕の口から紡がれていく。
読み終えた時、浜辺は一瞬、静寂に包まれた。失敗しただろうか。やっぱり僕の言葉は誰にも届かなかったのだろうか。不安が胸をよぎった、その瞬間。
パチパチパチ、と温かい拍手が波のように押し寄せてきた。それは熱狂的な喝采ではない。でも、一人一人の心のこもった、優しい優しい拍手だった。
僕の言葉が、この町の人たちの心に確かに届いたのだ。
僕はステージの上で、何度も何度も頭を下げた。顔を上げると、そらちゃんたちが満面の笑みで手を振っていた。僕は泣きそうになるのを必死でこらえた。
ステージを降りると、志筑さんがよく冷えたラムネを一本差し出してくれた。
「お疲れさん。立派だったよ、作家先生」
その言葉が僕の胸にじんわりと染みた。
僕はラムネの瓶を傾けながら、夜空を見上げた。空には満天の星がまたたいている。祭りの灯りが海にキラキラと反射している。
僕は作家として挫折した。でも今、この町で僕は、もう一度物書きとして生まれたのかもしれない。声を見つけた。居場所を見つけた。そして、僕の言葉を待ってくれる人たちを見つけた。
僕の本当の物語は、ここから始まる。
そう確信できる、夏の夜だった。
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