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「まだ火、起きてないの?」
のれんをくぐって顔を出したのは、深川火消し組の若い衆、弥之助。薄汚れた裃に水の染みが浮き、顔には薄く煤がついていた。
「弥之助さん。……ずいぶん早いのね。火事?」
私が手を止めると、彼は大きくうなずいた。
「向島の裏手で火が出た。いまはもう落ち着いたが、朝からずっと水くみやら後始末で、腹が減ってどうにもならん」
「釜はもうすぐ上がります。椀を出しますね」
「ありがてぇ。おし乃さんの飯が、何よりの手当だ」
火を強めた炭の音が、ぱちりと跳ねた。私は湯気を纏いながら、米の炊け具合を指先で確かめる。芯は残さず、けれど柔らかすぎない。湯気の香りに、朝の静けさがほんの少し緩む。
「今日は何があるんだ?」
「鯛のあら炊きに、芋がらと干し椎茸の含め煮。あとは、蕪と油揚げの味噌汁」
「……豪勢だな。火事のあとの朝飯にゃ、もったいねぇくらいだ」
「その火事のあとだからこそ、です」
言いながら私は、そっと鍋の蓋を開ける。ふわりと立ち上る湯気。鯛の目がこちらを見ていた。崩れる寸前の身を箸で崩し、そっと小鉢へと移す。
「さあ、冷めないうちに」
弥之助は手を合わせてから、豪快に飯をかき込んだ。途端、眉間のしわがほぐれる。
「……はぁ、体に染みる」
「もう少し、ゆっくり噛んで食べた方が……」
「無理だ。腹が空きすぎて、口が勝手に動く」
「なら、せめて味噌汁だけは熱いから気をつけて」
「へいへい」
彼が椀に口をつけるのを見届けてから、私はふと振り返る。もう一人、店に入ってきた気配がした。
「おはようございます、おし乃さん」
その声を聞くだけで、背筋が自然と伸びた。
「……金四郎さん。ずいぶんと地味な格好ですね」
「たまには庶民の空気も吸わないと。今日は巡回が早く済んでね。どうしても、ここの飯が食べたくなった」
「では、弥之助さんと並んでどうぞ。あら炊きは残り一人前ですが」
「譲るよ。俺は含め煮があれば満足だ」
「さすが、お奉行様」
「ちがう。ただの町人だ」
「でも、箸の持ち方は武士のそれですね」
「……バレるか」
私が微笑むと、彼は少しだけ照れたように視線を落とした。だが、手は迷いなく小鉢に伸びる。丁寧に椎茸をつまみ、噛みしめるように味わう。
「うん……これは、じんわりくるな。子どもの頃、風邪をひいたときに母が作ってくれた味を思い出す」
「芋がらと椎茸の煮物なんて、地味な献立ですけれどね」
「いや、これがいいんだ。派手さはいらない。ただ、温かくて、真面目で、うまい」
「評価が過ぎますよ」
「そうか? 俺は正直なだけさ」
ふたりの間に、ひとときの静けさがあった。店の奥では湯がぽこぽこと音を立て、外では雀が瓦の上で朝日を浴びている。
「おし乃さん、今日は……何か考えごとをしてたろ?」
「……どうしてそう思われたのです?」
「箸の並べ方が、いつもより半寸左に寄ってた」
「気づく方がどうかしてます」
「いや、あんたの整った所作は、ある意味で俺の基準だからな。崩れるとすぐわかる」
「今日は、米が難しかったんです。炊き始めに戸口から冷たい風が入って。火が乱れました」
「そっちの話か。てっきり心の話かと」
「……心も、火と同じです。急かせば荒れるし、油断すれば消える」
「深いな」
「浅いです」
また湯気が流れた。私は炊き場へ戻り、もう一釜、米を研ぐ。朝は、まだ始まったばかりだ。
のれんをくぐって顔を出したのは、深川火消し組の若い衆、弥之助。薄汚れた裃に水の染みが浮き、顔には薄く煤がついていた。
「弥之助さん。……ずいぶん早いのね。火事?」
私が手を止めると、彼は大きくうなずいた。
「向島の裏手で火が出た。いまはもう落ち着いたが、朝からずっと水くみやら後始末で、腹が減ってどうにもならん」
「釜はもうすぐ上がります。椀を出しますね」
「ありがてぇ。おし乃さんの飯が、何よりの手当だ」
火を強めた炭の音が、ぱちりと跳ねた。私は湯気を纏いながら、米の炊け具合を指先で確かめる。芯は残さず、けれど柔らかすぎない。湯気の香りに、朝の静けさがほんの少し緩む。
「今日は何があるんだ?」
「鯛のあら炊きに、芋がらと干し椎茸の含め煮。あとは、蕪と油揚げの味噌汁」
「……豪勢だな。火事のあとの朝飯にゃ、もったいねぇくらいだ」
「その火事のあとだからこそ、です」
言いながら私は、そっと鍋の蓋を開ける。ふわりと立ち上る湯気。鯛の目がこちらを見ていた。崩れる寸前の身を箸で崩し、そっと小鉢へと移す。
「さあ、冷めないうちに」
弥之助は手を合わせてから、豪快に飯をかき込んだ。途端、眉間のしわがほぐれる。
「……はぁ、体に染みる」
「もう少し、ゆっくり噛んで食べた方が……」
「無理だ。腹が空きすぎて、口が勝手に動く」
「なら、せめて味噌汁だけは熱いから気をつけて」
「へいへい」
彼が椀に口をつけるのを見届けてから、私はふと振り返る。もう一人、店に入ってきた気配がした。
「おはようございます、おし乃さん」
その声を聞くだけで、背筋が自然と伸びた。
「……金四郎さん。ずいぶんと地味な格好ですね」
「たまには庶民の空気も吸わないと。今日は巡回が早く済んでね。どうしても、ここの飯が食べたくなった」
「では、弥之助さんと並んでどうぞ。あら炊きは残り一人前ですが」
「譲るよ。俺は含め煮があれば満足だ」
「さすが、お奉行様」
「ちがう。ただの町人だ」
「でも、箸の持ち方は武士のそれですね」
「……バレるか」
私が微笑むと、彼は少しだけ照れたように視線を落とした。だが、手は迷いなく小鉢に伸びる。丁寧に椎茸をつまみ、噛みしめるように味わう。
「うん……これは、じんわりくるな。子どもの頃、風邪をひいたときに母が作ってくれた味を思い出す」
「芋がらと椎茸の煮物なんて、地味な献立ですけれどね」
「いや、これがいいんだ。派手さはいらない。ただ、温かくて、真面目で、うまい」
「評価が過ぎますよ」
「そうか? 俺は正直なだけさ」
ふたりの間に、ひとときの静けさがあった。店の奥では湯がぽこぽこと音を立て、外では雀が瓦の上で朝日を浴びている。
「おし乃さん、今日は……何か考えごとをしてたろ?」
「……どうしてそう思われたのです?」
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「気づく方がどうかしてます」
「いや、あんたの整った所作は、ある意味で俺の基準だからな。崩れるとすぐわかる」
「今日は、米が難しかったんです。炊き始めに戸口から冷たい風が入って。火が乱れました」
「そっちの話か。てっきり心の話かと」
「……心も、火と同じです。急かせば荒れるし、油断すれば消える」
「深いな」
「浅いです」
また湯気が流れた。私は炊き場へ戻り、もう一釜、米を研ぐ。朝は、まだ始まったばかりだ。
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