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私は米を研ぎながら、店の奥に目をやった。湯気が立ちこめる中、弥之助が器を手放したのを見て、少しほっとした。あれほどの勢いで食べれば、さぞ腹も落ち着いたことだろう。
「おし乃さん、次に来る釜、もう少し水加減を見た方がいいかもしれねぇ」
弥之助がぽつりと呟いた。私は手を止める。
「芯、残ってましたか?」
「いや、逆だ。ちと柔らかすぎた。……けど、それがまた沁みた。火事のあとの朝には、ちょうどよかったかもしれん」
彼の口ぶりは軽いが、含んでいる。私はその裏を読もうとはせず、ただ一礼した。
「承知しました。次は、もう少し張りを出します」
「さすが。……あ、もう一杯、いいか?」
「もちろん」
湯気を立てながら炊き上がった二釜目の飯を、しゃもじで丁寧にほぐす。ひと混ぜ、ふた混ぜ。手首の返しは滑らかに、米粒を潰さぬように。飯の匂いがさらに濃くなる。
「これで、まだ半日は持ちますな」
金四郎が言った。含め煮の小鉢はほとんど空になっている。箸を静かに置くその所作に、武家の血筋が透けて見えた。
「もう一椀、いかがですか?」
「うん……もらおうかな。今朝は冷えたから、どうにも内から温めたい気分でね」
「お味噌汁も、あたため直します」
鍋を火にかける。木蓋をずらして見れば、蕪が透き通るように煮えている。油揚げの香ばしい匂いが広がり、店の空気がまた一段と柔らかくなる。
「町の方は、何か変わりは?」
金四郎に問うと、彼は湯気の向こうで首をかしげた。
「昨日、永代橋のたもとで、ひと悶着あったらしい。商人同士のいざこざでね。いくらか、手打ちにはなったが」
「それで、どちらかが損をした?」
「両方とも、だな。片や大声で騒ぎ、片や手を出してしまった。……どちらも道理が通らなかったという話だ」
「そんな時は、どう裁かれるのです?」
「まず、証文を見る。次に、周囲の者の証言。それから……最後に、顔を見る」
「顔?」
「そう。怒りの後の顔と、謝るときの顔。それを見て、心がどこを向いているかを測るのさ」
「……飯を食べる時の顔と、少し似ていますね」
「ふふ。そうかもしれない」
私は椀に味噌汁を注ぎ、そっと差し出した。金四郎は黙って受け取り、口をつけた。
その瞬間、店の戸ががらりと開いた。強い風が吹き込み、暖かい空気が一瞬で流れた。
「……いけない、炭が」
急いで囲炉裏の蓋を押さえる。炭火が風に煽られ、火の粉が一つ跳ねた。
「す、すいません!」
入ってきたのは、どこか怯えた様子の若い男だった。年の頃は十七、八。着物は汚れており、足元の草履も片方が擦り切れている。
「どうぞ、お入りなさい。戸は、きちんと閉めて」
「は、はい……すみません……」
男はうつむいたまま戸を閉め、恐る恐る店内を見回した。
弥之助と金四郎、ふたりの視線が自然とその男に向く。空気が、少しだけ緊張を帯びた。
「どうされました?」
私が声をかけると、男は唇をかすかに噛んだまま、答えなかった。
「……腹、減ってるんじゃねぇのか?」
弥之助が立ち上がり、空になった椀を男に差し出す。
「おし乃さんの飯は、誰にでも効く。……俺が保証する」
男はそれを受け取り、ようやく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
私は炊き上がった飯をよそい、あら炊きの残り汁で、崩れかけた身を一つ、椀に添えた。味噌汁も一緒に差し出すと、男の手が震えているのが見えた。
「……冷えてたんですね」
「す、すみません。ほんとに、もう……三日、ろくに……」
その声はか細く、けれど必死だった。椀を口に運ぶたびに、頬が紅潮していく。私はその様子を見ながら、そっと囲炉裏に手を伸ばす。火は、まだ温かい。
「名前は?」
金四郎が問う。だが、男は答えない。
「……言えない事情があるのか、それとも……」
「言えません。すみません。でも、悪いことをしてここに来たんじゃないんです。ただ、どうしても……」
「飯が、食べたかったのか?」
「はい……それだけです……」
その言葉に、店内の空気がすうっと静かになった。誰も責めなかった。ただ、椀の中の湯気が、また一つ舞い上がった。
「……おし乃さん、もう一膳」
金四郎の声が、低く、穏やかだった。
私はうなずき、飯を盛る。何も言わずに、ただ黙々と。
それが、この店のやり方だからだ。
「おし乃さん、次に来る釜、もう少し水加減を見た方がいいかもしれねぇ」
弥之助がぽつりと呟いた。私は手を止める。
「芯、残ってましたか?」
「いや、逆だ。ちと柔らかすぎた。……けど、それがまた沁みた。火事のあとの朝には、ちょうどよかったかもしれん」
彼の口ぶりは軽いが、含んでいる。私はその裏を読もうとはせず、ただ一礼した。
「承知しました。次は、もう少し張りを出します」
「さすが。……あ、もう一杯、いいか?」
「もちろん」
湯気を立てながら炊き上がった二釜目の飯を、しゃもじで丁寧にほぐす。ひと混ぜ、ふた混ぜ。手首の返しは滑らかに、米粒を潰さぬように。飯の匂いがさらに濃くなる。
「これで、まだ半日は持ちますな」
金四郎が言った。含め煮の小鉢はほとんど空になっている。箸を静かに置くその所作に、武家の血筋が透けて見えた。
「もう一椀、いかがですか?」
「うん……もらおうかな。今朝は冷えたから、どうにも内から温めたい気分でね」
「お味噌汁も、あたため直します」
鍋を火にかける。木蓋をずらして見れば、蕪が透き通るように煮えている。油揚げの香ばしい匂いが広がり、店の空気がまた一段と柔らかくなる。
「町の方は、何か変わりは?」
金四郎に問うと、彼は湯気の向こうで首をかしげた。
「昨日、永代橋のたもとで、ひと悶着あったらしい。商人同士のいざこざでね。いくらか、手打ちにはなったが」
「それで、どちらかが損をした?」
「両方とも、だな。片や大声で騒ぎ、片や手を出してしまった。……どちらも道理が通らなかったという話だ」
「そんな時は、どう裁かれるのです?」
「まず、証文を見る。次に、周囲の者の証言。それから……最後に、顔を見る」
「顔?」
「そう。怒りの後の顔と、謝るときの顔。それを見て、心がどこを向いているかを測るのさ」
「……飯を食べる時の顔と、少し似ていますね」
「ふふ。そうかもしれない」
私は椀に味噌汁を注ぎ、そっと差し出した。金四郎は黙って受け取り、口をつけた。
その瞬間、店の戸ががらりと開いた。強い風が吹き込み、暖かい空気が一瞬で流れた。
「……いけない、炭が」
急いで囲炉裏の蓋を押さえる。炭火が風に煽られ、火の粉が一つ跳ねた。
「す、すいません!」
入ってきたのは、どこか怯えた様子の若い男だった。年の頃は十七、八。着物は汚れており、足元の草履も片方が擦り切れている。
「どうぞ、お入りなさい。戸は、きちんと閉めて」
「は、はい……すみません……」
男はうつむいたまま戸を閉め、恐る恐る店内を見回した。
弥之助と金四郎、ふたりの視線が自然とその男に向く。空気が、少しだけ緊張を帯びた。
「どうされました?」
私が声をかけると、男は唇をかすかに噛んだまま、答えなかった。
「……腹、減ってるんじゃねぇのか?」
弥之助が立ち上がり、空になった椀を男に差し出す。
「おし乃さんの飯は、誰にでも効く。……俺が保証する」
男はそれを受け取り、ようやく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
私は炊き上がった飯をよそい、あら炊きの残り汁で、崩れかけた身を一つ、椀に添えた。味噌汁も一緒に差し出すと、男の手が震えているのが見えた。
「……冷えてたんですね」
「す、すみません。ほんとに、もう……三日、ろくに……」
その声はか細く、けれど必死だった。椀を口に運ぶたびに、頬が紅潮していく。私はその様子を見ながら、そっと囲炉裏に手を伸ばす。火は、まだ温かい。
「名前は?」
金四郎が問う。だが、男は答えない。
「……言えない事情があるのか、それとも……」
「言えません。すみません。でも、悪いことをしてここに来たんじゃないんです。ただ、どうしても……」
「飯が、食べたかったのか?」
「はい……それだけです……」
その言葉に、店内の空気がすうっと静かになった。誰も責めなかった。ただ、椀の中の湯気が、また一つ舞い上がった。
「……おし乃さん、もう一膳」
金四郎の声が、低く、穏やかだった。
私はうなずき、飯を盛る。何も言わずに、ただ黙々と。
それが、この店のやり方だからだ。
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