【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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帳面を置く場所を決めかねて、私は炊き場の棚を見回した。味噌甕の横、ふだんは使わない漆器を重ねてある隙間なら、埃も入らず、湿気も避けられる。墨と筆は縁側の小箱にある。いずれにせよ、手をつけるなら今日のうちだろう。まだ良太の姿勢も声も、釜の湯気のなかに残っている。

「記録、か……」

小さく呟いた時、また戸が開いた。今度は、ためらいなく、すうっと音も立てずに。

「……おし乃さん、起きてますか」

声でわかった。番頭の与三郎。歳は五十を過ぎているが、背筋は伸びており、声も張りがある。けれど、今日は妙に低く、かすれていた。

「いらっしゃいませ。お加減でも?」

「いや……わしじゃなくてな。若旦那が」

彼の言葉に、私は顔を上げた。若旦那というのは、深川で船問屋を営む松田屋の次男坊、長四郎のことだ。与三郎はその家に仕える者で、何度か使いに来たことがある。

「具合が悪いのですか?」

「それが……食べたものがいけなかったのか、昨晩から腹を下しておりまして。医者には見せましたが、何も口にしようとせんのです。だが、腹が減ったとだけは言う」

「……それで、うちに?」

「はい。奥様が、やわらぎ亭の粥ならばと。……一膳、届けていただけませんか」

私は少しだけ考えてから、頷いた。釜の中に残っている飯を見て、火を落とし、蓋を開ける。新しい水を足して、すぐに粥に仕立てる準備を始めた。

「少し時間を頂けますか。炊き直しはせず、いまの飯を柔らかく伸ばします。胃にやさしいように、塩は控えめで」

「助かります。お代は後で。すぐ戻りますゆえ」

「椀はうちのを使っても?」

「構いません。終わりましたら、きちんと拭いてお返しします」

与三郎は深く頭を下げて出ていった。私は火を弱くし、鍋に湯を張った。冷飯を入れると、じわりと甘い香りが立ち上る。これを焦がさず、ゆっくりと火を入れる。匙で混ぜながら、ふと思った。食べるものが何であれ、人の心が求めているのは、いつも「やさしさ」だ。

「これくらいの塩……いや、もう少しだけ薄く」

指先で味を見る。ほんのりと塩が効いて、米の甘さが際立つ。薬味を少し入れたいが、癖のあるものは避けた。代わりに、刻んだ三つ葉をひとつまみ。箸ではなく、木の匙を添える。香りが逃げないよう、椀の蓋をしっかり閉めて、布で包んだ。

外に出ると、空は鈍い灰色だった。風も冷たく、長くは居られぬ空気だ。道を歩きながら、手にした包みの温かさが、かえって心を落ち着かせた。松田屋の表口まで行けば、与三郎が待っていた。

「すぐにお通しします」

彼は丁寧に包みを受け取り、中へ消えた。私は引き返す途中、何度も空を見上げた。雲は重く、陽の気配もない。けれど、胸の中には、どこか柔らかな芯が残っていた。

店に戻ると、良太はすでに縁側で膝を抱えていた。膝の上には、湯たんぽ代わりにしていた米袋が乗っている。

「暖まりましたか?」

「はい……すみません、いろいろと」

「謝ることではありません。今朝はあなたが、うちの空気を整えてくれましたから」

「……そんな、俺なんかが」

「その“なんか”は、ここでは禁句です。うちは煮売り屋ですから。金も身分も、のれんの外で脱いでもらわないと困ります」

彼がはっとして顔を上げた。目が少し潤んでいたようにも見えたが、私はそのまま釜へ戻った。

「おし乃さん」

金四郎が静かに声をかけてきた。

「はい」

「今の言葉、俺にも響いたよ」

「そうですか」

「……いま、少し、肩の荷が軽くなった気がする」

「それは良かったです。では、お代は割増で」

冗談めかして言うと、彼はふっと笑って椀を差し出した。

「次は何が出る?」

「まだ仕込みが追いついておりません。……でも、蕗と竹輪の煮物なら、今朝のうちに炊いておきました」

「それだ。……それがいい」

私は小鉢を用意し、蕗の青と竹輪の焦げ目が美しいように並べた。仕上げに、ほんの少しだけ柚子を添える。香りが立つと、春が少しだけ早く来たような気がする。

金四郎が箸を取り、ひと口含むと、目を閉じた。

「……こういう味が、沁みるんだよ」

「蕗は、えぐみが命ですから。うまく煮ないと、ただの草になります」

「それをこう、やさしく……いや、優しすぎず、きっぱりと」

「味にも、距離感が要ります。踏み込みすぎても、置き去りにしてもいけません」

「人と同じだな」

「ええ、人と同じです」

そう話しながら、私はまた炊き場に戻った。次の釜に火を入れ、灰の中でじっくりと温度を整える。空気の重さも、湯気の軽さも、どちらもここにはあって、どちらも必要だと思えた。
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