【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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甲州屋の主は、小鉢の煮物にそっと箸を伸ばし、ひと口含んだ。唇を閉じて、目を細める。その仕草に、言葉はいらなかった。味が心に届いた時、人は黙る。私はその沈黙を尊ぶ。

「……やっぱり、おし乃さんの味は変わらんな」

そう言って箸を休めた顔には、少しだけ、何かを噛み締めるような影があった。かつては近所でも鳴らした商い上手、金の匂いに鋭く、誰よりも鼻が利いた人だった。

「お体の方は?」

「まあ、なんとか。だが、商いは手放した」

「……そうでしたか」

「運が尽きた。いや、欲をかきすぎたのかもしれん。代が変わる節目だったということさ」

「それでも、こうして足を運んでくださったのは」

「ここに来れば、昔の自分を忘れずに済む。……いや、もっと言えば、初心を思い出せる」

「うちは、そういう場所ではないですよ」

「いや、そういう場所だ。商いがうまく行っていた頃のわしは、毎朝ここで飯を食って、心を整えていた。忙しさにかまけて足が遠のいたら、途端に足元を掬われた」

「飯を食べないと、目が曇ります」

「そうだな。曇った目で見た銭は、金に見えても、毒だったよ」

私は何も言わず、味噌汁をもう一椀、彼の前に差し出した。甲州屋の主は目を伏せたまま、その椀を両手で包んだ。

「これがな、あたたかいんだよ」

「それは、味噌がいいのです」

「味噌だけじゃ、こうはならん。……人の手の温かみがある」

良太が小さく息を呑んだ気配がした。甲州屋の言葉が、まっすぐに響いたのだろう。手で温められるものと、手で壊すもの。その両方を知っている人の声には、重みがある。

「坊や、おし乃さんの下で学ぶといい。技じゃない、心をな」

「……はい」

良太の返事は、小さくもはっきりしていた。私はその声に背を向け、炊き場の火を足す。炭を少し寄せて、湯の温度を上げる。あと三人、来客があっても足りるだけはある。

表がわで、わらわらと子どもたちの声が騒がしくなった。縁側に回ってみると、数人の男の子がなにやら揉めていた。声の中心には、かみしめたような泣き声。

「どうしました?」

声をかけると、全員がびくりとして振り返った。ひとりが、そっと一歩前に出た。

「お、おし乃さん。ごめんなさい。転んで、弁当、落としちまって」

地面には、潰れた握り飯が一つ。隣には、泣きべそをかく男の子がしゃがみ込んでいる。

「そこの井戸端で、手を洗ってらっしゃい。すぐ握り直してあげる」

「え、でも、米、もったいねぇし……」

「うちは、もったいないより、泣いてる方が問題です」

その言葉に、子どもたちは顔を見合わせ、ぱっと駆け出した。残された子の頭をひと撫でし、私は中へ戻った。

炊き立ての米を、手早く広げて冷ます。少しだけ塩を指先に取り、手のひらに馴染ませる。新しく握るのは、一口で食べられる大きさがいい。中には、細かく刻んだ高菜を忍ばせた。

「包みは?」

「……風呂敷、破けちまった」

「では、うちのを」

布でそっと包み、ひもを結ぶ。手渡すと、その子は目をまん丸にして受け取った。

「ありがとう……!」

「気をつけてね。転ぶ時は、先に手をつくのよ」

「うん!」

元気な返事が店の奥まで響いた。良太が、何かを言いかけてやめたような顔をして、私の方を見ていた。

「なにか?」

「……いえ。ただ、こんな風に生きられる人がいるんだなって」

「あなたも、そうなれます」

「……俺、そうなりたいです」

その言葉は、彼自身にも驚きだったのかもしれない。口にしてから、目を伏せて、照れたように笑った。私はそのまま何も言わず、再び鍋の蓋を開けた。

出汁がちょうどいい色に染まり、具がふっくらと浮いていた。油揚げの甘みと、里芋のねっとりした舌触り。鍋の中には、静かな豊かさがあった。

「良太さん、そろそろ、まかないを食べませんか?」

「えっ、いいんですか?」

「働いたら食べる。食べたら働く。それが、やわらぎ亭です」

「……はい!」

彼の顔がぱっと明るくなった。まるで朝日が射し込んだようなその表情に、私は静かに膳を用意する。器は少し小ぶりなものを選び、盛りすぎないように。食べすぎると、また働けなくなる。

「手を合わせてください」

「いただきます!」

元気な声が店の奥に響いた。匙を取り、ひと口すくって口に運んだ瞬間、彼の目がまん丸になる。

「……これ、すごくうまいです」

「味よりも、食べ方がいいですね」

「え?」

「一口目で、力が入った。その時の音が、正直でした」

「音、ですか?」

「人は、食べる時に本音が出ます」

良太は照れたように笑いながら、二口、三口と飯を運んだ。私はそれを見届けて、再び炊き場へ戻る。火はまだ生きていた。薪を継ぎ足すまでもない。

次に来る誰かのために、また米を研ぐ。その音が、今日の終わりと、明日への支度になる。
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