【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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米を研ぐ指先に、まだぬるい湯の感触が残るうち、戸の外からまた気配がした。音も立てずに近づくのは、決まって、少しばかり躊躇のある客だ。戸の前で立ち止まり、のれんをくぐるのに時間がかかる。私は研ぎ終えた米を釜に移しながら、耳を澄ました。

「失礼いたします……」

低く、掠れた女の声だった。年のころは三十を少し越えたくらいか。声に張りはなく、けれど語尾には不思議と芯があった。私は濡れた手を拭きながら、迎えに出る。

「いらっしゃいませ」

のれんの陰から現れたのは、青い縞の着物を着た女だった。化粧は薄く、瞳の奥に何かを抱えているような目つき。細い肩に合わぬ、大きな風呂敷を下げていた。

「……このあたりで、“やわらぎ亭”という煮売り屋があると、聞きまして」

「うちです。どうぞお入りください」

女は深々と頭を下げてから、一歩だけ足を踏み入れた。が、すぐに足が止まった。視線が店の中をゆっくりと流れて、やがて釜の湯気のほうへ向いた。

「……いい香りですね」

「今朝炊いた米の残りです。少しだけ、炊き直しています」

「そう……ですか」

女は縁側に腰を下ろさず、しばらく立ったまま店の中を眺めていた。良太が洗い物を終えた手でそっと布巾を握りしめたまま、目だけで私を見ていた。私はうなずいて、小さな膳を用意しはじめた。

「召し上がりますか?」

「……ええ。ただ、あまり多くは食べられませんので」

「承知しました。お粥を一椀、お出しします」

「はい……お願いします」

声がか細くなるのと同時に、女の肩が少しだけ揺れた。風呂敷は膝の上に置かれ、その上に置かれた手は、長く、節くれだっていた。若くして苦労をした手、ではなく、長く苦労が続いた手だった。

私は火を調整しながら、粥の仕上げに入る。干し貝柱の戻し汁を一さじだけ加えると、香りがふっと立ち上がる。味を濃くしないよう、塩はほんの気配だけ。

「お待たせしました。熱いので、お気をつけて」

女は無言で箸を取り、ひと口すくって口に運んだ。目を閉じ、しばらく動かない。やがて、静かに息を吐いた。

「……こんな味、いつ以来でしょう」

「懐かしい味でしたか?」

「ええ。母が、病床で食べていた粥の味に、少し似ていて」

「病気だったのですね」

「長いこと、寝たきりでした。私が、介抱していました」

「……そうですか」

「一週間前に、看取りました」

「……」

「それで、今日、この包みを持ってきたんです」

女は風呂敷を解いた。中から出てきたのは、小さな木箱。蓋を開けると、中には布に包まれた数珠と、錆びた茶匙が一つ入っていた。

「母が、ここで昔、粥を食べたことがあると。……それだけが、記憶に残っていたと」

「うちで?」

「はい。十五年も前のことらしいです。病に伏す前の、ほんの短い間だったと」

「……名前は?」

「お藤と申します。浅草の袋物屋の奉公人でした」

「……覚えています」

「えっ」

「初めて来たとき、うちでは粥しか出していませんでした。体調が悪いと聞いて。……二度目には、ご飯に梅を添えました」

「その通りです……母が、何度も話してくれました。……この茶匙も、そのときに借りてしまったものだと」

「覚えております。塩をすくうのに、使いました」

女は、手のひらで包むようにして茶匙を差し出した。私は両手でそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。

「……この匙は、よく働いてくれました。うちに戻ってきたこと、ありがたく思います」

「……すみません」

「いえ。失くしたと思っていたものが、帰ってきただけです」

「……でも、何かお礼がしたくて」

「では、その粥を、残さず召し上がってください」

「……はい」

女はもう一度、箸を取った。その手の動きはゆっくりと、けれど迷いがなかった。良太が小さく息を呑むのが聞こえた。人が何かを取り戻す瞬間を、彼は初めて見たのだろう。

「……もう一椀、よろしいでしょうか」

「もちろんです」

私は新しく粥を盛り直し、そっと三つ葉を浮かべた。女はその香りに目を細めた。

「……母が言っていました。やわらぎ亭の味は、心に灯をつけてくれるって」

「それは、いい言葉ですね」

「私は……それを信じて、今日ここに来ました」

「それだけで、十分です」

椀の湯気が、静かに女の頬を包んだ。その横顔は、もう泣いていなかった。私は火の前に戻り、匙を一つ、手に取った。昔、なくしたと思っていたそれは、驚くほど手に馴染んだ。私は新しい塩をすくい、そっと壺へ戻した。

それが、戻ってきた味の仕事だった。
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