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米を研ぐ指先に、まだぬるい湯の感触が残るうち、戸の外からまた気配がした。音も立てずに近づくのは、決まって、少しばかり躊躇のある客だ。戸の前で立ち止まり、のれんをくぐるのに時間がかかる。私は研ぎ終えた米を釜に移しながら、耳を澄ました。
「失礼いたします……」
低く、掠れた女の声だった。年のころは三十を少し越えたくらいか。声に張りはなく、けれど語尾には不思議と芯があった。私は濡れた手を拭きながら、迎えに出る。
「いらっしゃいませ」
のれんの陰から現れたのは、青い縞の着物を着た女だった。化粧は薄く、瞳の奥に何かを抱えているような目つき。細い肩に合わぬ、大きな風呂敷を下げていた。
「……このあたりで、“やわらぎ亭”という煮売り屋があると、聞きまして」
「うちです。どうぞお入りください」
女は深々と頭を下げてから、一歩だけ足を踏み入れた。が、すぐに足が止まった。視線が店の中をゆっくりと流れて、やがて釜の湯気のほうへ向いた。
「……いい香りですね」
「今朝炊いた米の残りです。少しだけ、炊き直しています」
「そう……ですか」
女は縁側に腰を下ろさず、しばらく立ったまま店の中を眺めていた。良太が洗い物を終えた手でそっと布巾を握りしめたまま、目だけで私を見ていた。私はうなずいて、小さな膳を用意しはじめた。
「召し上がりますか?」
「……ええ。ただ、あまり多くは食べられませんので」
「承知しました。お粥を一椀、お出しします」
「はい……お願いします」
声がか細くなるのと同時に、女の肩が少しだけ揺れた。風呂敷は膝の上に置かれ、その上に置かれた手は、長く、節くれだっていた。若くして苦労をした手、ではなく、長く苦労が続いた手だった。
私は火を調整しながら、粥の仕上げに入る。干し貝柱の戻し汁を一さじだけ加えると、香りがふっと立ち上がる。味を濃くしないよう、塩はほんの気配だけ。
「お待たせしました。熱いので、お気をつけて」
女は無言で箸を取り、ひと口すくって口に運んだ。目を閉じ、しばらく動かない。やがて、静かに息を吐いた。
「……こんな味、いつ以来でしょう」
「懐かしい味でしたか?」
「ええ。母が、病床で食べていた粥の味に、少し似ていて」
「病気だったのですね」
「長いこと、寝たきりでした。私が、介抱していました」
「……そうですか」
「一週間前に、看取りました」
「……」
「それで、今日、この包みを持ってきたんです」
女は風呂敷を解いた。中から出てきたのは、小さな木箱。蓋を開けると、中には布に包まれた数珠と、錆びた茶匙が一つ入っていた。
「母が、ここで昔、粥を食べたことがあると。……それだけが、記憶に残っていたと」
「うちで?」
「はい。十五年も前のことらしいです。病に伏す前の、ほんの短い間だったと」
「……名前は?」
「お藤と申します。浅草の袋物屋の奉公人でした」
「……覚えています」
「えっ」
「初めて来たとき、うちでは粥しか出していませんでした。体調が悪いと聞いて。……二度目には、ご飯に梅を添えました」
「その通りです……母が、何度も話してくれました。……この茶匙も、そのときに借りてしまったものだと」
「覚えております。塩をすくうのに、使いました」
女は、手のひらで包むようにして茶匙を差し出した。私は両手でそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
「……この匙は、よく働いてくれました。うちに戻ってきたこと、ありがたく思います」
「……すみません」
「いえ。失くしたと思っていたものが、帰ってきただけです」
「……でも、何かお礼がしたくて」
「では、その粥を、残さず召し上がってください」
「……はい」
女はもう一度、箸を取った。その手の動きはゆっくりと、けれど迷いがなかった。良太が小さく息を呑むのが聞こえた。人が何かを取り戻す瞬間を、彼は初めて見たのだろう。
「……もう一椀、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
私は新しく粥を盛り直し、そっと三つ葉を浮かべた。女はその香りに目を細めた。
「……母が言っていました。やわらぎ亭の味は、心に灯をつけてくれるって」
「それは、いい言葉ですね」
「私は……それを信じて、今日ここに来ました」
「それだけで、十分です」
椀の湯気が、静かに女の頬を包んだ。その横顔は、もう泣いていなかった。私は火の前に戻り、匙を一つ、手に取った。昔、なくしたと思っていたそれは、驚くほど手に馴染んだ。私は新しい塩をすくい、そっと壺へ戻した。
それが、戻ってきた味の仕事だった。
「失礼いたします……」
低く、掠れた女の声だった。年のころは三十を少し越えたくらいか。声に張りはなく、けれど語尾には不思議と芯があった。私は濡れた手を拭きながら、迎えに出る。
「いらっしゃいませ」
のれんの陰から現れたのは、青い縞の着物を着た女だった。化粧は薄く、瞳の奥に何かを抱えているような目つき。細い肩に合わぬ、大きな風呂敷を下げていた。
「……このあたりで、“やわらぎ亭”という煮売り屋があると、聞きまして」
「うちです。どうぞお入りください」
女は深々と頭を下げてから、一歩だけ足を踏み入れた。が、すぐに足が止まった。視線が店の中をゆっくりと流れて、やがて釜の湯気のほうへ向いた。
「……いい香りですね」
「今朝炊いた米の残りです。少しだけ、炊き直しています」
「そう……ですか」
女は縁側に腰を下ろさず、しばらく立ったまま店の中を眺めていた。良太が洗い物を終えた手でそっと布巾を握りしめたまま、目だけで私を見ていた。私はうなずいて、小さな膳を用意しはじめた。
「召し上がりますか?」
「……ええ。ただ、あまり多くは食べられませんので」
「承知しました。お粥を一椀、お出しします」
「はい……お願いします」
声がか細くなるのと同時に、女の肩が少しだけ揺れた。風呂敷は膝の上に置かれ、その上に置かれた手は、長く、節くれだっていた。若くして苦労をした手、ではなく、長く苦労が続いた手だった。
私は火を調整しながら、粥の仕上げに入る。干し貝柱の戻し汁を一さじだけ加えると、香りがふっと立ち上がる。味を濃くしないよう、塩はほんの気配だけ。
「お待たせしました。熱いので、お気をつけて」
女は無言で箸を取り、ひと口すくって口に運んだ。目を閉じ、しばらく動かない。やがて、静かに息を吐いた。
「……こんな味、いつ以来でしょう」
「懐かしい味でしたか?」
「ええ。母が、病床で食べていた粥の味に、少し似ていて」
「病気だったのですね」
「長いこと、寝たきりでした。私が、介抱していました」
「……そうですか」
「一週間前に、看取りました」
「……」
「それで、今日、この包みを持ってきたんです」
女は風呂敷を解いた。中から出てきたのは、小さな木箱。蓋を開けると、中には布に包まれた数珠と、錆びた茶匙が一つ入っていた。
「母が、ここで昔、粥を食べたことがあると。……それだけが、記憶に残っていたと」
「うちで?」
「はい。十五年も前のことらしいです。病に伏す前の、ほんの短い間だったと」
「……名前は?」
「お藤と申します。浅草の袋物屋の奉公人でした」
「……覚えています」
「えっ」
「初めて来たとき、うちでは粥しか出していませんでした。体調が悪いと聞いて。……二度目には、ご飯に梅を添えました」
「その通りです……母が、何度も話してくれました。……この茶匙も、そのときに借りてしまったものだと」
「覚えております。塩をすくうのに、使いました」
女は、手のひらで包むようにして茶匙を差し出した。私は両手でそれを受け取り、丁寧に頭を下げた。
「……この匙は、よく働いてくれました。うちに戻ってきたこと、ありがたく思います」
「……すみません」
「いえ。失くしたと思っていたものが、帰ってきただけです」
「……でも、何かお礼がしたくて」
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「……はい」
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「……母が言っていました。やわらぎ亭の味は、心に灯をつけてくれるって」
「それは、いい言葉ですね」
「私は……それを信じて、今日ここに来ました」
「それだけで、十分です」
椀の湯気が、静かに女の頬を包んだ。その横顔は、もう泣いていなかった。私は火の前に戻り、匙を一つ、手に取った。昔、なくしたと思っていたそれは、驚くほど手に馴染んだ。私は新しい塩をすくい、そっと壺へ戻した。
それが、戻ってきた味の仕事だった。
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