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茶匙を元の場所に戻したあと、私はしばらくそれに触れたまま立ち尽くしていた。塩壺のそばで、まるで時間が逆流するように、十五年前の記憶が指先を伝って蘇る。あのときの、お藤という女の人は、よく笑う人だった。人懐こさのなかに、どこか哀しみを含んだ笑顔で、粥を口に運ぶたびに何かを隠すようだった。
炊き場に戻ると、火はほどよく落ち着いており、鍋の湯も静かに呼吸していた。鍋の蓋を少しずらすと、中から香りがふわりと立ち上り、朝の名残を掻き消していった。
「おし乃さん」
良太の声が控えめに聞こえた。
「はい」
「俺……なんだか、ここにいると時間が止まってるみたいです」
「止まってはいません。けれど、流れが穏やかになることはあります」
「それが……心地いいです」
「心が焦っているときほど、そういう場所が必要ですから」
「そうですね……」
彼の声が、少しずつ芯を持ち始めていた。初めてこの戸をくぐったときの彼とは、確かに何かが変わってきている。飯を食べるということは、ただ栄養を摂ることではない。人は、食べるたびに少しずつ、自分の輪郭を取り戻していく。
そのとき、戸が忙しなく開いた。慌てた足音が入り口まで響き、私は炊き場から首を伸ばした。入ってきたのは、近くの薬種屋の若旦那、宗太郎だった。額には汗がにじみ、手には布に包まれた壺を抱えていた。
「おし乃さんっ!ちょっと、これ見てくれませんか!」
「どうされました?」
「これ、昨日の晩に新しく仕込んだ薬味なんですけど、香りがどうにもおかしくて……」
壺の蓋を開けた瞬間、ふわっと鼻をつく匂いが立ち上った。強すぎる酢の香り、そして何かが発酵しすぎたような、わずかに濁った匂いが混ざっていた。
「これは……大根ですか?」
「はい。山葵と一緒に漬けたんですが、どうにも味が乗らなくて……」
私は指先で少し掬って、舌先にのせた。舌にピリリとした刺激が走り、そのあとに妙な甘さが追いかけてくる。香りが立ちすぎて、主張が喧嘩している。
「……米酢ではなく、粕酢を使いましたか?」
「え、はい。香りに丸みが出ると聞いて、試してみたんです」
「山葵と粕酢は、相性が難しい。互いが引き立てあえばいいのですが、ひとつでも時間を間違えると、このようになります」
「なるほど……」
「塩のあて方も少し早すぎたようです。水が出すぎて、風味が逃げてしまっています」
宗太郎は目を伏せて、深く頭を下げた。
「やっぱり、おし乃さんには敵いません」
「敵うも敵わぬもありません。うちは飯を炊く店、あなたは薬を扱う家。道が違えば、加減も違います」
「けど、おし乃さんの舌は、まるで……」
「火が教えてくれるんです」
私は微笑みながら、炊き場に戻った。壺を宗太郎に返し、新しい糠を渡す。
「試すなら、塩を減らして、一晩だけ漬けてみてください。粕酢の香りを活かすには、その方がよろしいかと」
「やってみます!」
宗太郎が出ていったあと、良太がぽつりと漏らした。
「……なんだか、ここにはいろんな人が来るんですね」
「飯は、腹を空かせた者だけが食べるわけではありません。迷いを持つ者も、喧嘩をした者も、決意を固めたい者も」
「じゃあ……俺は、どういう客だったんでしょう」
「あなたは、自分の居場所を探していた」
「……今は、見つけたと思ってもいいですか?」
「まだです。見つけるのは、あなた自身ですから」
「でも……」
「居続ける覚悟ができたら、初めて“ここ”になります」
良太は黙って頷いた。手を膝の上に置き、しばらく遠くを見ていた。私はまた釜の蓋を開け、次の飯を確認する。炊き上がりまで、あと少し。店内は、また静けさに包まれていたが、奥から味噌汁の香りが流れ、外から子どもたちの笑い声がかすかに届いた。
やがて、縁側からひょっこりと頭を出したのは、小間物屋の女中だった。手には包みがひとつ。布をめくると、中には白く透き通った寒天が見えた。
「これは?」
「女将からの差し入れです。こないだ頂いた大根が、とても美味しかったので、せめてものお返しだそうで」
「ありがたく頂きます。よろしければ、お茶でも」
「いえ、今日はこれで。……でも、また来ます」
女中は一礼し、包みを置いて帰っていった。私はそれを冷蔵に使っている水桶に移し、上から氷を足した。寒天の透明さが、春の手前を思わせた。
一膳の飯、ひと口の粥、そしてこの寒天一切れまでもが、人と人の縁をつないでいく。そういう場所であるために、私はまた米を研ぐ。指先から冷たい水が伝って、火の気配に溶けていく。次に誰が来るのか、わからないままでも、火は絶やさずにいる。それが、私の仕事だった。
炊き場に戻ると、火はほどよく落ち着いており、鍋の湯も静かに呼吸していた。鍋の蓋を少しずらすと、中から香りがふわりと立ち上り、朝の名残を掻き消していった。
「おし乃さん」
良太の声が控えめに聞こえた。
「はい」
「俺……なんだか、ここにいると時間が止まってるみたいです」
「止まってはいません。けれど、流れが穏やかになることはあります」
「それが……心地いいです」
「心が焦っているときほど、そういう場所が必要ですから」
「そうですね……」
彼の声が、少しずつ芯を持ち始めていた。初めてこの戸をくぐったときの彼とは、確かに何かが変わってきている。飯を食べるということは、ただ栄養を摂ることではない。人は、食べるたびに少しずつ、自分の輪郭を取り戻していく。
そのとき、戸が忙しなく開いた。慌てた足音が入り口まで響き、私は炊き場から首を伸ばした。入ってきたのは、近くの薬種屋の若旦那、宗太郎だった。額には汗がにじみ、手には布に包まれた壺を抱えていた。
「おし乃さんっ!ちょっと、これ見てくれませんか!」
「どうされました?」
「これ、昨日の晩に新しく仕込んだ薬味なんですけど、香りがどうにもおかしくて……」
壺の蓋を開けた瞬間、ふわっと鼻をつく匂いが立ち上った。強すぎる酢の香り、そして何かが発酵しすぎたような、わずかに濁った匂いが混ざっていた。
「これは……大根ですか?」
「はい。山葵と一緒に漬けたんですが、どうにも味が乗らなくて……」
私は指先で少し掬って、舌先にのせた。舌にピリリとした刺激が走り、そのあとに妙な甘さが追いかけてくる。香りが立ちすぎて、主張が喧嘩している。
「……米酢ではなく、粕酢を使いましたか?」
「え、はい。香りに丸みが出ると聞いて、試してみたんです」
「山葵と粕酢は、相性が難しい。互いが引き立てあえばいいのですが、ひとつでも時間を間違えると、このようになります」
「なるほど……」
「塩のあて方も少し早すぎたようです。水が出すぎて、風味が逃げてしまっています」
宗太郎は目を伏せて、深く頭を下げた。
「やっぱり、おし乃さんには敵いません」
「敵うも敵わぬもありません。うちは飯を炊く店、あなたは薬を扱う家。道が違えば、加減も違います」
「けど、おし乃さんの舌は、まるで……」
「火が教えてくれるんです」
私は微笑みながら、炊き場に戻った。壺を宗太郎に返し、新しい糠を渡す。
「試すなら、塩を減らして、一晩だけ漬けてみてください。粕酢の香りを活かすには、その方がよろしいかと」
「やってみます!」
宗太郎が出ていったあと、良太がぽつりと漏らした。
「……なんだか、ここにはいろんな人が来るんですね」
「飯は、腹を空かせた者だけが食べるわけではありません。迷いを持つ者も、喧嘩をした者も、決意を固めたい者も」
「じゃあ……俺は、どういう客だったんでしょう」
「あなたは、自分の居場所を探していた」
「……今は、見つけたと思ってもいいですか?」
「まだです。見つけるのは、あなた自身ですから」
「でも……」
「居続ける覚悟ができたら、初めて“ここ”になります」
良太は黙って頷いた。手を膝の上に置き、しばらく遠くを見ていた。私はまた釜の蓋を開け、次の飯を確認する。炊き上がりまで、あと少し。店内は、また静けさに包まれていたが、奥から味噌汁の香りが流れ、外から子どもたちの笑い声がかすかに届いた。
やがて、縁側からひょっこりと頭を出したのは、小間物屋の女中だった。手には包みがひとつ。布をめくると、中には白く透き通った寒天が見えた。
「これは?」
「女将からの差し入れです。こないだ頂いた大根が、とても美味しかったので、せめてものお返しだそうで」
「ありがたく頂きます。よろしければ、お茶でも」
「いえ、今日はこれで。……でも、また来ます」
女中は一礼し、包みを置いて帰っていった。私はそれを冷蔵に使っている水桶に移し、上から氷を足した。寒天の透明さが、春の手前を思わせた。
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