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寒天を水桶に沈めた指先に、ほんのりとした冷たさが残ったまま、私は炊き場に戻った。釜の中で、米がちょうどいい具合に立っている。湯気がふわりと上がり、鼻先をくすぐった。
火加減は問題ない。蓋を閉じ、少しだけ炭を寄せた。火が安定すれば、もう三、四人来ても足りる。
「おし乃さん、その……さっきの寒天、きれいでした」
良太が湯桶のそばから声をかけてきた。まだ布巾を手にしたまま、所在なげに立っている。
「きれいだと思ったなら、それは目が整ってきた証拠です」
「目が、整う……?」
「火の加減も、盛り付けも、すべて“見る”ことから始まります。綺麗だと感じることは、立派な技です」
「……じゃあ俺にも、料理の目が?」
「芽が、出ましたね」
そう答えると、彼はうれしそうに頬をゆるめた。さっきまでの遠慮がちだった表情とは少し違って、輪郭が明るくなった気がした。
その時、戸口に人影が揺れた。続いて、のれんがゆっくりと持ち上がる。
「こんにちはー……」
顔を覗かせたのは、八百屋の若嫁だった。浅葱色の被り物から覗く額に汗が滲んでいる。片手には小さな籠、もう片方の手には赤ん坊を抱いていた。
「いらっしゃいませ。お疲れのようですね」
「はい……朝からずっと、店番と荷ほどきで……ふらふらで」
「すぐに何か出します。何が召し上がりたいですか?」
「もう、なんでもいいです……ご飯と、お汁だけでも」
「では、味噌汁と炊きたての飯を一膳」
「ありがとうございます……助かります……」
赤ん坊が少しぐずった。私は良太に目で合図する。彼はすぐに立ち上がり、布団を敷いた奥の間に湯たんぽを持っていった。
「こちらへ。赤ちゃんは、少し温めてあげた方がいいでしょう」
「えっ、あの、でも……」
「どうぞ。うちはそういう店ですから」
若嫁が奥に腰を下ろすと、私は膳を整え始めた。ご飯は柔らかめに盛り、味噌汁には豆腐と蕪、細かく刻んだ揚げを加える。香りの邪魔をしないよう、葱は控えめに。
「お待たせしました」
若嫁は赤ん坊をそっと脇に寝かせ、両手で器を抱えた。
「……ああ、なんか、生き返ります……」
その言葉を聞いて、私は米を炊くことの意味をまた一つ思い出す。生きるために食べるのではなく、生き直すために食べる。そういう膳も、たしかにある。
「……これ、なんていう味噌ですか?」
「大豆味噌と、少しだけ麦味噌を混ぜています」
「この優しさ……麦味噌だったんですね……」
味の違いに気づけるのは、舌が真面目に働いている証拠だ。忙しない朝を経て、ようやく味わう余裕が生まれたのだろう。
「おかわり、できますか?」
「どうぞ」
米をよそいながら、私は少しだけよそ見した。良太が奥の間から出てきて、私の手元を見ている。
「ご飯の盛り方、明日から教えてもらっていいですか?」
「覚えるつもりですか?」
「はい。ずっと居たいので、ちゃんと覚えたいです」
「では明朝から。まずはしゃもじの握り方からです」
「ありがとうございます」
彼の声が、もう“客”ではなくなっていた。飯を食べる者から、飯を出す側へ。変わるには、時間も覚悟も要らない。ただ一膳の飯があればいい。
「赤ん坊、よく寝ていますね」
「はい……湯たんぽのおかげでしょうか。家じゃ、あんなに泣いていたのに」
「人の気配が多いところでは、赤ん坊も安心するんです」
「確かに……うちの亭主よりよっぽど落ち着いてます」
「おお、それは言ってはいけません」
私が笑うと、若嫁も思わず笑い声を洩らした。釜の火がぽっと応えるように鳴った。
「今度、亭主も連れてきます。こんな飯、食べさせてやらなきゃもったいない」
「それはどうぞ。席は空けておきます」
「……でも、ちゃんとお金、払いますから」
「いえ、満腹の顔を一つ見せてくだされば、それで」
女の顔がふっと和らいだ。ご飯を噛みしめる動きも、ゆっくりと柔らかくなる。釜の炊き上がりと一緒に、人の顔も変わっていく。そういう瞬間を見るのが、私の一番の仕事だった。
良太がそっと湯を汲んで、奥の器を洗い始める。水音が静かに響いて、店内の空気が整っていく。
寒天はまだ冷たく、午の陽も差し始めていた。次の一膳を用意しながら、私は火の声を聞いていた。
火加減は問題ない。蓋を閉じ、少しだけ炭を寄せた。火が安定すれば、もう三、四人来ても足りる。
「おし乃さん、その……さっきの寒天、きれいでした」
良太が湯桶のそばから声をかけてきた。まだ布巾を手にしたまま、所在なげに立っている。
「きれいだと思ったなら、それは目が整ってきた証拠です」
「目が、整う……?」
「火の加減も、盛り付けも、すべて“見る”ことから始まります。綺麗だと感じることは、立派な技です」
「……じゃあ俺にも、料理の目が?」
「芽が、出ましたね」
そう答えると、彼はうれしそうに頬をゆるめた。さっきまでの遠慮がちだった表情とは少し違って、輪郭が明るくなった気がした。
その時、戸口に人影が揺れた。続いて、のれんがゆっくりと持ち上がる。
「こんにちはー……」
顔を覗かせたのは、八百屋の若嫁だった。浅葱色の被り物から覗く額に汗が滲んでいる。片手には小さな籠、もう片方の手には赤ん坊を抱いていた。
「いらっしゃいませ。お疲れのようですね」
「はい……朝からずっと、店番と荷ほどきで……ふらふらで」
「すぐに何か出します。何が召し上がりたいですか?」
「もう、なんでもいいです……ご飯と、お汁だけでも」
「では、味噌汁と炊きたての飯を一膳」
「ありがとうございます……助かります……」
赤ん坊が少しぐずった。私は良太に目で合図する。彼はすぐに立ち上がり、布団を敷いた奥の間に湯たんぽを持っていった。
「こちらへ。赤ちゃんは、少し温めてあげた方がいいでしょう」
「えっ、あの、でも……」
「どうぞ。うちはそういう店ですから」
若嫁が奥に腰を下ろすと、私は膳を整え始めた。ご飯は柔らかめに盛り、味噌汁には豆腐と蕪、細かく刻んだ揚げを加える。香りの邪魔をしないよう、葱は控えめに。
「お待たせしました」
若嫁は赤ん坊をそっと脇に寝かせ、両手で器を抱えた。
「……ああ、なんか、生き返ります……」
その言葉を聞いて、私は米を炊くことの意味をまた一つ思い出す。生きるために食べるのではなく、生き直すために食べる。そういう膳も、たしかにある。
「……これ、なんていう味噌ですか?」
「大豆味噌と、少しだけ麦味噌を混ぜています」
「この優しさ……麦味噌だったんですね……」
味の違いに気づけるのは、舌が真面目に働いている証拠だ。忙しない朝を経て、ようやく味わう余裕が生まれたのだろう。
「おかわり、できますか?」
「どうぞ」
米をよそいながら、私は少しだけよそ見した。良太が奥の間から出てきて、私の手元を見ている。
「ご飯の盛り方、明日から教えてもらっていいですか?」
「覚えるつもりですか?」
「はい。ずっと居たいので、ちゃんと覚えたいです」
「では明朝から。まずはしゃもじの握り方からです」
「ありがとうございます」
彼の声が、もう“客”ではなくなっていた。飯を食べる者から、飯を出す側へ。変わるには、時間も覚悟も要らない。ただ一膳の飯があればいい。
「赤ん坊、よく寝ていますね」
「はい……湯たんぽのおかげでしょうか。家じゃ、あんなに泣いていたのに」
「人の気配が多いところでは、赤ん坊も安心するんです」
「確かに……うちの亭主よりよっぽど落ち着いてます」
「おお、それは言ってはいけません」
私が笑うと、若嫁も思わず笑い声を洩らした。釜の火がぽっと応えるように鳴った。
「今度、亭主も連れてきます。こんな飯、食べさせてやらなきゃもったいない」
「それはどうぞ。席は空けておきます」
「……でも、ちゃんとお金、払いますから」
「いえ、満腹の顔を一つ見せてくだされば、それで」
女の顔がふっと和らいだ。ご飯を噛みしめる動きも、ゆっくりと柔らかくなる。釜の炊き上がりと一緒に、人の顔も変わっていく。そういう瞬間を見るのが、私の一番の仕事だった。
良太がそっと湯を汲んで、奥の器を洗い始める。水音が静かに響いて、店内の空気が整っていく。
寒天はまだ冷たく、午の陽も差し始めていた。次の一膳を用意しながら、私は火の声を聞いていた。
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