【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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寒天を水桶に沈めた指先に、ほんのりとした冷たさが残ったまま、私は炊き場に戻った。釜の中で、米がちょうどいい具合に立っている。湯気がふわりと上がり、鼻先をくすぐった。

火加減は問題ない。蓋を閉じ、少しだけ炭を寄せた。火が安定すれば、もう三、四人来ても足りる。

「おし乃さん、その……さっきの寒天、きれいでした」

良太が湯桶のそばから声をかけてきた。まだ布巾を手にしたまま、所在なげに立っている。

「きれいだと思ったなら、それは目が整ってきた証拠です」

「目が、整う……?」

「火の加減も、盛り付けも、すべて“見る”ことから始まります。綺麗だと感じることは、立派な技です」

「……じゃあ俺にも、料理の目が?」

「芽が、出ましたね」

そう答えると、彼はうれしそうに頬をゆるめた。さっきまでの遠慮がちだった表情とは少し違って、輪郭が明るくなった気がした。

その時、戸口に人影が揺れた。続いて、のれんがゆっくりと持ち上がる。

「こんにちはー……」

顔を覗かせたのは、八百屋の若嫁だった。浅葱色の被り物から覗く額に汗が滲んでいる。片手には小さな籠、もう片方の手には赤ん坊を抱いていた。

「いらっしゃいませ。お疲れのようですね」

「はい……朝からずっと、店番と荷ほどきで……ふらふらで」

「すぐに何か出します。何が召し上がりたいですか?」

「もう、なんでもいいです……ご飯と、お汁だけでも」

「では、味噌汁と炊きたての飯を一膳」

「ありがとうございます……助かります……」

赤ん坊が少しぐずった。私は良太に目で合図する。彼はすぐに立ち上がり、布団を敷いた奥の間に湯たんぽを持っていった。

「こちらへ。赤ちゃんは、少し温めてあげた方がいいでしょう」

「えっ、あの、でも……」

「どうぞ。うちはそういう店ですから」

若嫁が奥に腰を下ろすと、私は膳を整え始めた。ご飯は柔らかめに盛り、味噌汁には豆腐と蕪、細かく刻んだ揚げを加える。香りの邪魔をしないよう、葱は控えめに。

「お待たせしました」

若嫁は赤ん坊をそっと脇に寝かせ、両手で器を抱えた。

「……ああ、なんか、生き返ります……」

その言葉を聞いて、私は米を炊くことの意味をまた一つ思い出す。生きるために食べるのではなく、生き直すために食べる。そういう膳も、たしかにある。

「……これ、なんていう味噌ですか?」

「大豆味噌と、少しだけ麦味噌を混ぜています」

「この優しさ……麦味噌だったんですね……」

味の違いに気づけるのは、舌が真面目に働いている証拠だ。忙しない朝を経て、ようやく味わう余裕が生まれたのだろう。

「おかわり、できますか?」

「どうぞ」

米をよそいながら、私は少しだけよそ見した。良太が奥の間から出てきて、私の手元を見ている。

「ご飯の盛り方、明日から教えてもらっていいですか?」

「覚えるつもりですか?」

「はい。ずっと居たいので、ちゃんと覚えたいです」

「では明朝から。まずはしゃもじの握り方からです」

「ありがとうございます」

彼の声が、もう“客”ではなくなっていた。飯を食べる者から、飯を出す側へ。変わるには、時間も覚悟も要らない。ただ一膳の飯があればいい。

「赤ん坊、よく寝ていますね」

「はい……湯たんぽのおかげでしょうか。家じゃ、あんなに泣いていたのに」

「人の気配が多いところでは、赤ん坊も安心するんです」

「確かに……うちの亭主よりよっぽど落ち着いてます」

「おお、それは言ってはいけません」

私が笑うと、若嫁も思わず笑い声を洩らした。釜の火がぽっと応えるように鳴った。

「今度、亭主も連れてきます。こんな飯、食べさせてやらなきゃもったいない」

「それはどうぞ。席は空けておきます」

「……でも、ちゃんとお金、払いますから」

「いえ、満腹の顔を一つ見せてくだされば、それで」

女の顔がふっと和らいだ。ご飯を噛みしめる動きも、ゆっくりと柔らかくなる。釜の炊き上がりと一緒に、人の顔も変わっていく。そういう瞬間を見るのが、私の一番の仕事だった。

良太がそっと湯を汲んで、奥の器を洗い始める。水音が静かに響いて、店内の空気が整っていく。

寒天はまだ冷たく、午の陽も差し始めていた。次の一膳を用意しながら、私は火の声を聞いていた。
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