【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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朝、炊き場の火がうまく起きなかった。炭が湿っていたのだろう。昨日の夜に仕込んでいた芋がらを確かめにいく手を止め、私はひとまず囲炉裏の炭を入れ替えた。火箸で灰をかき、新しい炭を組む。ようやく火が走ったのを見届けて、息を吐いた。

「おし乃さん、今朝はまだですか」

のれんをくぐったのは、隣の桶屋の娘、お初。年は十三、十四。小柄な体つきで、けれど声だけはよく通る。

「まだよ。火が遅れて、まだ湯も沸いていないの」

「おなか鳴っちゃって……待てなくて」

「では、先に大根の漬物だけでも」

「うれしい!それと、昨日の残りのお粥、ない?」

「まだ残っています。温めて差し上げますね」

お初は小さく両手を合わせて座り、足をぶらぶらと揺らしながら釜の方をじっと見つめていた。まるで火の番をする小坊主のようだった。

火加減を見ながら、私はお粥の鍋を引き寄せ、火のそばに置いた。芋がらは夜のうちにしっかり戻っていた。柔らかくも芯があり、味が入れば上出来になるだろう。お初の粥が温まる間に、蕗の皮を剥いておく。

「おし乃さん、昨日のあの子、今日も来る?」

「良太さんのこと?」

「うん。あの人、昨日、お椀持ってすごく真面目な顔してた。なんか、ちょっと変だったけど……でもかっこよかった」

「かっこいい?」

「だって、手がまっすぐだった。器、すごく丁寧に拭いてたし」

「ふふ。そういうところを見るのね」

「だってさ、男の人って、大体ぼーっとしてるじゃない。けど、あの人は違った」

「確かに、よく見てましたね。火も、道具も、人の顔も」

「そういう人、もらった方がいいよ」

「それはまた、急に飛びましたね」

「だって、おし乃さんには、そういう人が似合うもん」

「じゃあ、お初さん。食べ終わったら、その話は忘れてね」

「えーっ」

私は笑いながら小鉢に漬物を盛り、お粥を椀によそう。三つ葉を少し添えて香りを立たせると、お初の目がぱっと明るくなった。

「いい匂い……」

「冷えた体には、これが一番です」

「いただきます!」

お初は椀を手にし、熱い粥をふうふうと吹いてから口に運んだ。頬がふくらみ、目が細くなる。

「……うん、おいしい。今日も学校、がんばれる」

「勉強は?」

「うん、そろばんと書きもの。あと、百字書き」

「しっかり食べて、しっかり学んで。うちの釜にも負けないくらい、あったかくなっていってください」

「それ、いいなあ。あたし、釜みたいな人になる!」

「……それはまた、火の番が大変ですね」

お初が笑うと、店の奥から風が流れ込んだ。囲炉裏の火が揺れた瞬間、戸が開いた。

「おはようございます」

入ってきたのは、例の良太だった。髪は整えられ、着物も昨日より綺麗だった。顔も心なしか明るく、視線がまっすぐこちらに向いていた。

「おはようございます。今日は早いのですね」

「昨日、休ませてもらったぶん、早く来ました。手伝わせてください」

「では、まず水汲みからお願いします。火がまだ弱いので、炊き場に使う分だけ」

「はい!」

彼はすぐに手桶を持って外へ出た。お初はその背中を見送ってから、私に顔を向けた。

「ほら、やっぱり、いい人じゃん」

「お初さん、そろそろ時間です。遅れるとお母さまが心配なさいますよ」

「うーん、粥のお代わりしたら出る」

「……それは時間を伸ばす口実ですね?」

「うん」

「一杯だけよ」

私はもう一度、粥をよそった。お初は満面の笑みを浮かべ、両手で椀を受け取った。

良太が戻ってくる音がして、私は炊き場へ向かった。手桶を二つ抱えた彼は、足元も濡らさず静かに立っていた。

「朝の水は冷たかったでしょう」

「でも、気持ちよかったです。眠気も飛びました」

「それは何より。では、そのまま薪を割っていただけますか。囲炉裏に使う分です」

「任せてください」

私は彼が薪を持っていくのを見届けてから、芋がらと椎茸を鍋に移した。だしを張り、火を入れると、じわじわと香りが立つ。

店の空気がゆっくりと温まりはじめた。やわらぎ亭の朝が、またいつものように流れ出すのを感じながら、私は火の音に耳を澄ませた。火が整えば、人も整う。今日も、よい一日が始まりそうだった。
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