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干し柿の香りが残る手元で、私は根深とちくわの鍋に火を足した。あくが上がらぬよう、火はわずかに強める程度。ちくわの焦げた香ばしさが煮汁に移り、味の輪郭が浮き上がる。昼過ぎの店内は静かで、火の音と鍋の泡立つ音が心地よく重なっていた。
「おし乃さん、さっきの釜、そろそろよそってもいいですか?」
「はい。ただし、最初の一杯は器を温めてから。冷えた椀に盛れば、飯も萎えます」
「承知しました」
良太は盆に二つ椀をのせ、釜の前で姿勢を正した。蓋を取る手つきも、しゃもじを差し込む角度も、前よりずっとまっすぐだった。飯の香りが立ち昇り、湯気が肩にかかる。
「……うまくいきました。しゃもじも沈まず、米が立ってます」
「今日は炭が良かったですね。水も冷たかったし、米が張ってました」
「うれしいです。初めて、米にほめられた気がします」
「それは良い耳を持ちましたね。火は見て、米は聞いて、香りで決める。そうすれば、飯は裏切りません」
良太がうなずいたその時、表で風の音が変わった。遠くで笛の音。今日は月次祭。富岡八幡の境内では、すでに賑わっている頃だろう。私は手を止め、釜の湯気の向こうに揺れる暖簾を見た。
「おし乃さん、見回りの帰りです」
声と一緒に入ってきたのは、金四郎だった。普段より地味な着流しだが、帯に挿した竹尺が目立っていた。
「いらっしゃいませ。今日はまた早いですね」
「町がにぎやかでね。抜けるに抜けられず、腹が空いて立ち寄った」
「本日のお献立は、根深とちくわの含め煮に、炊きたての白飯と味噌汁です」
「それは理想的な取り合わせだ」
「釜の飯が仕上がったばかりです。少々お待ちください」
「かまわないよ。湯気の中で待つのは、むしろ贅沢だ」
私は炊き場に戻り、根深を箸でつまんで崩れ具合を確かめた。芯まで火が入っており、ちくわの弾力も程よい。器を温め、そっと盛り付けていく。
「どうぞ」
「これは……見た目よりずっと柔らかそうだな」
「舌ではなく、歯ぐきで味わっていただける仕上がりです」
「試してみよう」
金四郎が口に運んだ瞬間、眉間の皺がすっと消えた。言葉が出るまでに、時間がかかる。私はそれが、何よりの褒め言葉だと知っている。
「……これは、すごいな。根深とちくわだけで、ここまで深みが出るとは」
「干し椎茸の戻し汁を加えております。出汁が重なれば、味も伸びます」
「なるほど……これはもはや煮ものではないな。語る料理だ」
「語るより、食べきるほうが難しい献立です」
金四郎が笑いながら味噌汁に箸を伸ばした。湯気が眼鏡を曇らせるほど熱く、それがまたちょうど良いという顔をしている。
「良太君も、随分と馴染んできたな」
「はい。今朝の釜は、良太さんの研ぎ米です」
「ほう。じゃあこの飯は、君の仕事か」
「……まだまだです。でも、少しは火の声が聞こえるようになってきました」
「火の声か。粋だな。それを聞ければ、この町の声も聞こえるようになる」
「町の声、ですか?」
「そうだ。火を知って、米を知って、人の腹を知れば、自然と人の顔が見えてくる。店というのは、そういう場所だ」
「……なるほど」
良太がそっと肩の力を抜いた。私はその様子を横目で見ながら、次の器を準備した。次の客の気配が、のれんの向こうで動いた気がしたから。
戸がゆっくり開いた。見慣れぬ男が一人、静かに入ってきた。着物は地味な茶、腰には古びた印籠。足取りはしっかりしているが、どこか疲れが見える。
「こちら、やわらぎ亭でしょうか」
「はい。いらっしゃいませ」
「昼をいただけますか」
「ただ今、根深とちくわの含め煮に、白飯と味噌汁をお出ししております」
「……それをいただけますか」
「かしこまりました」
私は器を新しく温め、炊きたての飯をよそった。湯気に包まれた椀の上に、しずかに根深を乗せる。味噌汁は葱を細く切って、仕上げに一つまみの粉山椒。
「お待たせしました。どうぞ」
男は黙って手を合わせた。ひと口、飯を噛みしめてから、箸を止めた。
「……これは」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや……。こういう飯が、江戸にまだあるとは思わなかった」
「ただの飯です。派手さはありません」
「それがいい。こういう店は、探しても見つからない」
金四郎が箸を止め、ゆっくりと男を見つめた。何かを察したような視線だったが、言葉にはしなかった。
男は黙って食べ進め、椀が空になると、小さく頭を下げて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。……また、来ます」
「お待ちしております」
男が出ていったあと、金四郎がぽつりと漏らした。
「今の男、ただ者じゃないな」
「どこかでお見かけになりましたか?」
「いや、ない。ただ、背中が普通じゃなかった。……ああいう客が来るというのは、店が本物だということだ」
「うちは煮売り屋です。のれんをくぐる人は、皆、ただの客です」
「それが大事なんだろうな」
金四郎が席を立ち、湯のみを棚に戻した。良太がそれをすぐに受け取り、器を洗い場に運ぶ。
「では、私はまた巡回に戻るよ。……次は、もう少し腹を空かせて来る」
「お待ちしております」
戸が静かに閉まり、また湯気だけが店に満ちる。私は炊き場に戻り、鍋の火加減を調整する。まだ昼過ぎ。火は、まだまだ働いてくれる。飯も、まだまだ炊ける。私は指先で米を研ぎながら、次の一膳の準備に取りかかった。
「おし乃さん、さっきの釜、そろそろよそってもいいですか?」
「はい。ただし、最初の一杯は器を温めてから。冷えた椀に盛れば、飯も萎えます」
「承知しました」
良太は盆に二つ椀をのせ、釜の前で姿勢を正した。蓋を取る手つきも、しゃもじを差し込む角度も、前よりずっとまっすぐだった。飯の香りが立ち昇り、湯気が肩にかかる。
「……うまくいきました。しゃもじも沈まず、米が立ってます」
「今日は炭が良かったですね。水も冷たかったし、米が張ってました」
「うれしいです。初めて、米にほめられた気がします」
「それは良い耳を持ちましたね。火は見て、米は聞いて、香りで決める。そうすれば、飯は裏切りません」
良太がうなずいたその時、表で風の音が変わった。遠くで笛の音。今日は月次祭。富岡八幡の境内では、すでに賑わっている頃だろう。私は手を止め、釜の湯気の向こうに揺れる暖簾を見た。
「おし乃さん、見回りの帰りです」
声と一緒に入ってきたのは、金四郎だった。普段より地味な着流しだが、帯に挿した竹尺が目立っていた。
「いらっしゃいませ。今日はまた早いですね」
「町がにぎやかでね。抜けるに抜けられず、腹が空いて立ち寄った」
「本日のお献立は、根深とちくわの含め煮に、炊きたての白飯と味噌汁です」
「それは理想的な取り合わせだ」
「釜の飯が仕上がったばかりです。少々お待ちください」
「かまわないよ。湯気の中で待つのは、むしろ贅沢だ」
私は炊き場に戻り、根深を箸でつまんで崩れ具合を確かめた。芯まで火が入っており、ちくわの弾力も程よい。器を温め、そっと盛り付けていく。
「どうぞ」
「これは……見た目よりずっと柔らかそうだな」
「舌ではなく、歯ぐきで味わっていただける仕上がりです」
「試してみよう」
金四郎が口に運んだ瞬間、眉間の皺がすっと消えた。言葉が出るまでに、時間がかかる。私はそれが、何よりの褒め言葉だと知っている。
「……これは、すごいな。根深とちくわだけで、ここまで深みが出るとは」
「干し椎茸の戻し汁を加えております。出汁が重なれば、味も伸びます」
「なるほど……これはもはや煮ものではないな。語る料理だ」
「語るより、食べきるほうが難しい献立です」
金四郎が笑いながら味噌汁に箸を伸ばした。湯気が眼鏡を曇らせるほど熱く、それがまたちょうど良いという顔をしている。
「良太君も、随分と馴染んできたな」
「はい。今朝の釜は、良太さんの研ぎ米です」
「ほう。じゃあこの飯は、君の仕事か」
「……まだまだです。でも、少しは火の声が聞こえるようになってきました」
「火の声か。粋だな。それを聞ければ、この町の声も聞こえるようになる」
「町の声、ですか?」
「そうだ。火を知って、米を知って、人の腹を知れば、自然と人の顔が見えてくる。店というのは、そういう場所だ」
「……なるほど」
良太がそっと肩の力を抜いた。私はその様子を横目で見ながら、次の器を準備した。次の客の気配が、のれんの向こうで動いた気がしたから。
戸がゆっくり開いた。見慣れぬ男が一人、静かに入ってきた。着物は地味な茶、腰には古びた印籠。足取りはしっかりしているが、どこか疲れが見える。
「こちら、やわらぎ亭でしょうか」
「はい。いらっしゃいませ」
「昼をいただけますか」
「ただ今、根深とちくわの含め煮に、白飯と味噌汁をお出ししております」
「……それをいただけますか」
「かしこまりました」
私は器を新しく温め、炊きたての飯をよそった。湯気に包まれた椀の上に、しずかに根深を乗せる。味噌汁は葱を細く切って、仕上げに一つまみの粉山椒。
「お待たせしました。どうぞ」
男は黙って手を合わせた。ひと口、飯を噛みしめてから、箸を止めた。
「……これは」
「お口に合いませんでしたか?」
「いや……。こういう飯が、江戸にまだあるとは思わなかった」
「ただの飯です。派手さはありません」
「それがいい。こういう店は、探しても見つからない」
金四郎が箸を止め、ゆっくりと男を見つめた。何かを察したような視線だったが、言葉にはしなかった。
男は黙って食べ進め、椀が空になると、小さく頭を下げて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。……また、来ます」
「お待ちしております」
男が出ていったあと、金四郎がぽつりと漏らした。
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「どこかでお見かけになりましたか?」
「いや、ない。ただ、背中が普通じゃなかった。……ああいう客が来るというのは、店が本物だということだ」
「うちは煮売り屋です。のれんをくぐる人は、皆、ただの客です」
「それが大事なんだろうな」
金四郎が席を立ち、湯のみを棚に戻した。良太がそれをすぐに受け取り、器を洗い場に運ぶ。
「では、私はまた巡回に戻るよ。……次は、もう少し腹を空かせて来る」
「お待ちしております」
戸が静かに閉まり、また湯気だけが店に満ちる。私は炊き場に戻り、鍋の火加減を調整する。まだ昼過ぎ。火は、まだまだ働いてくれる。飯も、まだまだ炊ける。私は指先で米を研ぎながら、次の一膳の準備に取りかかった。
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