【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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干し柿の香りが残る手元で、私は根深とちくわの鍋に火を足した。あくが上がらぬよう、火はわずかに強める程度。ちくわの焦げた香ばしさが煮汁に移り、味の輪郭が浮き上がる。昼過ぎの店内は静かで、火の音と鍋の泡立つ音が心地よく重なっていた。

「おし乃さん、さっきの釜、そろそろよそってもいいですか?」

「はい。ただし、最初の一杯は器を温めてから。冷えた椀に盛れば、飯も萎えます」

「承知しました」

良太は盆に二つ椀をのせ、釜の前で姿勢を正した。蓋を取る手つきも、しゃもじを差し込む角度も、前よりずっとまっすぐだった。飯の香りが立ち昇り、湯気が肩にかかる。

「……うまくいきました。しゃもじも沈まず、米が立ってます」

「今日は炭が良かったですね。水も冷たかったし、米が張ってました」

「うれしいです。初めて、米にほめられた気がします」

「それは良い耳を持ちましたね。火は見て、米は聞いて、香りで決める。そうすれば、飯は裏切りません」

良太がうなずいたその時、表で風の音が変わった。遠くで笛の音。今日は月次祭。富岡八幡の境内では、すでに賑わっている頃だろう。私は手を止め、釜の湯気の向こうに揺れる暖簾を見た。

「おし乃さん、見回りの帰りです」

声と一緒に入ってきたのは、金四郎だった。普段より地味な着流しだが、帯に挿した竹尺が目立っていた。

「いらっしゃいませ。今日はまた早いですね」

「町がにぎやかでね。抜けるに抜けられず、腹が空いて立ち寄った」

「本日のお献立は、根深とちくわの含め煮に、炊きたての白飯と味噌汁です」

「それは理想的な取り合わせだ」

「釜の飯が仕上がったばかりです。少々お待ちください」

「かまわないよ。湯気の中で待つのは、むしろ贅沢だ」

私は炊き場に戻り、根深を箸でつまんで崩れ具合を確かめた。芯まで火が入っており、ちくわの弾力も程よい。器を温め、そっと盛り付けていく。

「どうぞ」

「これは……見た目よりずっと柔らかそうだな」

「舌ではなく、歯ぐきで味わっていただける仕上がりです」

「試してみよう」

金四郎が口に運んだ瞬間、眉間の皺がすっと消えた。言葉が出るまでに、時間がかかる。私はそれが、何よりの褒め言葉だと知っている。

「……これは、すごいな。根深とちくわだけで、ここまで深みが出るとは」

「干し椎茸の戻し汁を加えております。出汁が重なれば、味も伸びます」

「なるほど……これはもはや煮ものではないな。語る料理だ」

「語るより、食べきるほうが難しい献立です」

金四郎が笑いながら味噌汁に箸を伸ばした。湯気が眼鏡を曇らせるほど熱く、それがまたちょうど良いという顔をしている。

「良太君も、随分と馴染んできたな」

「はい。今朝の釜は、良太さんの研ぎ米です」

「ほう。じゃあこの飯は、君の仕事か」

「……まだまだです。でも、少しは火の声が聞こえるようになってきました」

「火の声か。粋だな。それを聞ければ、この町の声も聞こえるようになる」

「町の声、ですか?」

「そうだ。火を知って、米を知って、人の腹を知れば、自然と人の顔が見えてくる。店というのは、そういう場所だ」

「……なるほど」

良太がそっと肩の力を抜いた。私はその様子を横目で見ながら、次の器を準備した。次の客の気配が、のれんの向こうで動いた気がしたから。

戸がゆっくり開いた。見慣れぬ男が一人、静かに入ってきた。着物は地味な茶、腰には古びた印籠。足取りはしっかりしているが、どこか疲れが見える。

「こちら、やわらぎ亭でしょうか」

「はい。いらっしゃいませ」

「昼をいただけますか」

「ただ今、根深とちくわの含め煮に、白飯と味噌汁をお出ししております」

「……それをいただけますか」

「かしこまりました」

私は器を新しく温め、炊きたての飯をよそった。湯気に包まれた椀の上に、しずかに根深を乗せる。味噌汁は葱を細く切って、仕上げに一つまみの粉山椒。

「お待たせしました。どうぞ」

男は黙って手を合わせた。ひと口、飯を噛みしめてから、箸を止めた。

「……これは」

「お口に合いませんでしたか?」

「いや……。こういう飯が、江戸にまだあるとは思わなかった」

「ただの飯です。派手さはありません」

「それがいい。こういう店は、探しても見つからない」

金四郎が箸を止め、ゆっくりと男を見つめた。何かを察したような視線だったが、言葉にはしなかった。

男は黙って食べ進め、椀が空になると、小さく頭を下げて立ち上がった。

「ごちそうさまでした。……また、来ます」

「お待ちしております」

男が出ていったあと、金四郎がぽつりと漏らした。

「今の男、ただ者じゃないな」

「どこかでお見かけになりましたか?」

「いや、ない。ただ、背中が普通じゃなかった。……ああいう客が来るというのは、店が本物だということだ」

「うちは煮売り屋です。のれんをくぐる人は、皆、ただの客です」

「それが大事なんだろうな」

金四郎が席を立ち、湯のみを棚に戻した。良太がそれをすぐに受け取り、器を洗い場に運ぶ。

「では、私はまた巡回に戻るよ。……次は、もう少し腹を空かせて来る」

「お待ちしております」

戸が静かに閉まり、また湯気だけが店に満ちる。私は炊き場に戻り、鍋の火加減を調整する。まだ昼過ぎ。火は、まだまだ働いてくれる。飯も、まだまだ炊ける。私は指先で米を研ぎながら、次の一膳の準備に取りかかった。
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