【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

文字の大きさ
20 / 100

20

水を張った盆の中で、米がきらきらと踊る。冷たさの中に芯を残して、指先の抵抗が変わるまで研ぐ。良太が静かに脇で見守っているのがわかった。炊き場に立つ時間が長くなるにつれ、彼の気配は道具のように馴染んできた。

「おし乃さん、炊きこみには、この米を使いますか?」

「ええ。風が止んだので、今の米が一番穏やかに炊けます」

「椀は、さっきの浅めのやつで?」

「違います。次は深め。蓋をしたとき、香りが残るように」

「了解です」

炊き場の向こうでは、次の鍋が湯気を立てはじめていた。今度の献立は、山椒味噌で和えた大根と、胡麻の香りを移した焼き豆腐。夕刻に近づく頃は、香りの立つものを欲しがる人が多い。空腹より、疲れの方が勝る時間だからだ。

良太が椀を拭き、私は味噌を練る。山椒の実をすり潰し、白味噌に少しの砂糖と酒を加える。強すぎず、甘すぎず、舌に残るように加減する。炊いた大根はすでに下味を含ませてあるので、あとは和えるだけ。

「香り……すごいですね、この味噌」

「立てすぎると、他の味を隠します。だから、香らせるのは一瞬です」

練った味噌に大根を和え、焼いた豆腐と並べて器に盛る。良太が見ているので、あえて説明はしない。盛り付けは見て覚えるもの。器の形、菜の流れ、空白の分量。それらを直感で掴んでいく。

ちょうどそのとき、戸が開いた。入ってきたのは、今朝来た仕立て屋の親方だった。若い者が持ち帰った折詰が気に入ったのだろう。

「よぉ、やわらぎ亭。うちの小僧がえらく褒めてな。ちょいと味を確かめに来た」

「ありがとうございます。夕餉の支度ができております。少々、香りのある一膳ですがよろしいですか?」

「いいとも。香りが立つってことは、気も立つってこった」

私は一礼し、用意した大根と豆腐の一皿に、炊きたての飯、味噌汁を添える。飯は少し固めに炊いてある。香りが立つ料理には、柔らかすぎる米は馴染まない。

親方はぐっと椀を手に持ち、まずは味噌汁を啜った。そのあと、ゆっくりと大根に箸を運ぶ。

「……おう、こう来たか」

「合い口はいかがですか?」

「味噌が立ってるのに、豆腐がそれを吸ってる。大根が橋渡しになってる。上出来だ」

「ありがとうございます」

「それに、この飯。芯があるのに、固くない。米の炊き分けができてる店は信用できる」

「うちの見習いが、本日の水加減を決めました」

「ほう。そいつは目がいい」

良太が照れたようにうなずく。私は次の椀の支度にかかる。今度は芋の炊き合わせ。香りではなく、舌に残るぬくもりを添える。

親方が食べ終える頃、もう一人客が現れた。さきほどの謎の男だった。今日は少し薄暗い着物をまとい、目元にわずかな疲れが見える。

「三日目。今度は、連れてきました」

連れていたのは、歳のころ五十前後の男。身なりは控えめだが、腰の据わった立ち姿に風格がある。目が合った瞬間に、私は何も尋ねず、器を取りにかかった。

「やわらぎ亭の味、どうしても食べさせたくて」

「ありがとうございます。椀をふたつ、お作りします」

「献立は?」

「炊きたての芋の含め煮と、大根葉の混ぜ飯。味噌汁は、刻み葱と胡麻です」

「理想的です。彼の胃にも優しい」

私は深めの椀を温め、芋を一つずつ手で並べる。煮崩れはないが、角が丸くなっていて、口当たりが穏やかになる。飯はしっかり混ぜて、最後に刻み海苔を少し添えた。

ふたりの男は並んで座り、黙って箸を取った。湯気が二人の間に揺れ、静かな音だけが続いた。

「……これは、うまい」

「やわらぎ亭の名は、伊達じゃないな」

「ありがたいお言葉です」

良太が炊き場の奥で、何も言わず、ただその様子を見ていた。湯気の中で、彼の目が何かを確かに掴もうとしているのがわかった。私は次の釜の準備にとりかかりながら、炊き場の火がまだ落ち着いていることに満足していた。
感想 8

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?