【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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私はすぐに席を整え、良太の盛った飯椀を中央に置いた。今日の炊き上がりは柔らかすぎず、しゃもじで撫でたあともかたちが崩れない。蒸らしの時間も含めて、きっちり火が通っていた証拠だ。

「本日の一膳は、芋がらと干し椎茸の煮物、それに大根と油揚げの味噌汁です。飯は、今朝炊いた七分づき」

男は目を閉じて、湯気の香りを吸い込んだ。連れの男は言葉を発さず、ただ炊き場の隅をじっと見ていた。店に入ったときから、一度も視線を外していない。私は炊き場の棚にある、すぐ手の届く位置にある包丁に、ほんの少しだけ意識を向けた。

「これは……椎茸の香りが、静かに滲んでくる」

男がそう言って芋がらを箸で持ち上げ、煮汁を少しだけ含ませて口に運んだ。連れの男も遅れて椀に手をかけ、飯を口に運ぶ。食べる様子は、ひと目でただ者ではないと分かる。箸の運びが早すぎず、かといって演じているような遅さもない。自然でいて、すべての所作が計算されていた。

「芋がらというのは、こういう味だったか……」

「戻し方と切り方で、かなり変わります。食べやすいように、中心だけ厚みを残しています」

「食感が面白い。噛むと少し跳ねて、すぐにほどける」

「それが、芋がらの“答え”です。ひと噛みで応えるように、火を止めてます」

連れの男が飯をもう一口運び、味噌汁に手を伸ばした。目を細め、ふっと鼻から息を抜いたあと、静かに一言。

「……江戸中を探しても、ここしかない味だな」

その言葉に、男の方が小さく笑った。良太が後ろで、釜の蓋を外して湯気を逃がしながら、その様子をちらちらと見ていた。

「やわらぎ亭の名は、偶然ではないのですね」

「飯を食べると、体がゆるむ。そのための味です」

「三日目の今日で、ようやくわかりました」

「何がですか?」

「なぜ、この味が忘れられないのか」

「忘れられないものは、体が記憶します。心じゃなく、舌の裏や胃の底に」

「……なるほど。じゃあこれは、頭でなく、体で憶えた味なんですね」

私は黙ってうなずいた。彼がここに通っている理由は、もはや特別な事情でも下心でもない。あくまで、“身体が求めている”のだということが、今日のその一言でよくわかった。

男たちは静かに食べ進め、膳を下げる頃には、湯気が店内をゆっくりと這っていた。

「では、また来ます」

「お待ちしております」

ふたりが戸を開けると、外の光が射し込んで、店内の湯気が少しだけ薄れた。私は釜の中の飯を見直し、次に出す分の量を見積もる。良太が空になった器を洗い場へ運びながら、ぽつりと漏らした。

「三日間通ってるあの人、やっぱりすごい人なんですね」

「すごいというより、“深い”人です」

「深い……?」

「見ているものも、考えていることも、食べ方も、ぜんぶに余白がある。そこが深い」

「なるほど……自分のことだけで精一杯だと、味も浅くなるんですね」

「それでも、まずは自分の飯がうまく炊ければいいんです。それが、すべてのはじまりです」

良太はふっと笑って、またしゃもじを手に取った。次の米を水に浸けるための準備に入る。音が静かに整って、やわらぎ亭はまたいつもの午後に戻った。

「おし乃さん!」

裏口から駆け込んできたのは、八百屋の忠吉だった。額に汗をにじませ、布で包んだ荷を抱えている。

「ちょいと珍しいもんが入ったんで、早いうちに持ってきたよ」

「何です?」

「見てのお楽しみだ。ほら、これ!」

忠吉が包みを広げると、そこには鮮やかな菜の花が山盛りになっていた。まだつぼみのままのものもあれば、少し花開いたものもある。

「もう咲きはじめているんですね。早い春ですね」

「南の方の農家で採れたばかり。市場に出す前に、ここの釜に入れてもらいたくてね」

「ありがとうございます。苦味があるうちに、塩でさっと湯がいて、からしを少し……」

「そうそう!それそれ。ここの味で食ったら、春が来たって実感できる」

「では、すぐに下ごしらえを始めましょう。良太さん、湯を沸かしてください」

「はい!」

私は菜の花の中から、葉の形のきれいなものを選び出し、水にさらした。湯がいたあとは、すぐに冷水に取る。香りが逃げないように、時間との勝負だった。

からしを当てて、出汁で割った酢を軽く絡める。盛る器は浅い青磁。花の黄色が引き立つよう、余白を広めに取る。

「これ……香りがすごい。春って感じです」

「今のうちしか出せない味です。寒さの中に少しだけ芽生えた苦みが、春の印です」

「こういう一鉢があると、飯が一層うまくなる気がします」

「口が動くと、心も動くの。こういう味は、気持ちに風を通します」

私は湯気を背にしながら、器を手に店の方へ戻る。午後の陽が少し傾いて、炊き場の棚に落ちる影が細くなっていた。釜の中からは、また次の一膳が炊き上がる音が聞こえはじめていた。
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