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夜が明ける少し前、まだ空が灰色のままの頃、裏口の戸が静かに叩かれた。こんな時間に誰かと思いながら、私は火を起こす手を止め、戸を開けた。
立っていたのは、ひとりの若い女だった。年のころは十七、八。髪は乱れ、着物の裾は泥で汚れていた。顔色は悪く、けれど目ははっきりとこちらを見ていた。
「おし乃さん、でしょうか」
「……ええ、そうですけれど」
「お頼みがあって参りました。……一膳、炊いていただけませんか」
「誰かのために?」
「いいえ、わたしのために。どうしても、口にしたい味があるんです」
私はその目に嘘がないと判断し、黙って戸を開けた。女は静かに頭を下げ、履き古した草履のまま、そっと足を踏み入れた。
「座ってて。火が起きるまでに、少しかかります」
「はい」
炊き場に戻り、私は昨日のうちに研いであった米を盆に取り、水を張った。まだ外気が冷たいため、水が指に沁みる。その冷たさが、米の輪郭を際立たせてくれる。
「今朝の米は、新潟のです。少し柔らかめに炊けます」
「……それで、いいです」
「何か、苦しいことでも?」
「いえ、ただ……朝に、何も思い出せないのが、つらいだけです」
「なるほど」
火を起こし、釜に米と水を移す。炊きあがるまでには時間がかかる。私はそれまでのあいだに、小鉢を一品用意することにした。戸棚から取り出したのは、昨夜仕込んでおいた切干大根。人参と油揚げと一緒に炒め煮にしてある。冷えた体に染みるよう、煮直して器に移す。
「口の中が静かになりますよ」
「……ありがとうございます」
女は手を膝に置いたまま、静かに座っていた。ときおり、体を小さく震わせるように息をする。私はあえて声をかけず、火と釜の音だけを聞いていた。
やがて湯が沸き、米の音が変わる。跳ねるような泡立ちから、ぽこぽこと下に向かう音へ。火を弱め、私は釜に手をかける。
「もうすぐ炊きあがります」
「……はい」
「菜は、切干大根でいいですか?」
「はい、好きです」
「口の中を整えてから、飯をどうぞ」
火を止め、蓋を開ける。湯気がふわりと舞い、釜の中から甘い香りが広がった。しゃもじで軽く撫でると、米がふっくらとほぐれる。私は器を温め、飯をよそい、小鉢と味噌汁を添えた。味噌汁は、大根と葱。出汁は煮干し。
女の前に膳を置くと、彼女は深く頭を下げた。指先で器を正し、そっと手を合わせた。
「いただきます」
一口、飯を噛む。次に切干大根。噛みしめてから、味噌汁。箸の動きは早くないが、迷いがなかった。食べることだけに集中している様子が、こちらにも伝わってきた。
「……温かい。……ごはんって、こんなに、優しかったんですね」
「何も足さず、何も引かず。朝は、その方がいいです」
「……泣きそうです」
「泣いてもいいですよ。誰も見ていませんから」
女は黙って、またひと口、飯を口に運んだ。頬が少し赤くなり、息がゆっくりと落ち着いてきたのが見て取れた。私は炊き場に戻り、もう一膳分、米を研いでおくことにした。
良太が裏から顔をのぞかせた。
「おし乃さん……?今朝、早いですね」
「客が早く来たのよ」
「……あの子、泣いてませんか?」
「泣いてるのよ。いい泣き方」
「そっか。じゃあ、僕は静かに、火を整えます」
「お願いね。次の釜は、少しだけ水を減らして」
「了解です」
良太がしゃがみこみ、炭を動かしながら釜の下を整える。私はその隣で、湯を沸かすための鉄瓶に水を注いだ。
女の膳が、静かに空になっていた。彼女は膝の上で両手を重ね、こちらを見ていた。
「……ごちそうさまでした」
「どうでしたか」
「……思い出せました。わたし、子どもの頃、こんな味を食べてました」
「その頃のあなたが、ちゃんと生きていた証です」
「忘れていたのは、私の方でした」
「飯は、忘れていません。あなたの舌が、憶えてただけです」
女が立ち上がり、袂から小さな袋を取り出した。中には、白く削った木札が二枚。ひとつには「結」と、もうひとつには「香」と書かれていた。
「私の名前は、“ゆいか”と申します。これ……お礼に」
「お礼は、笑顔で充分です」
「けれど、何か残したくて……。今日は、ここで、人生が変わりましたから」
「人生なんて、大げさなものじゃない。朝ごはん一膳で、変わるなら、それで充分」
女はそのまま、深く頭を下げた。私は木札を受け取り、炊き場の柱に掛けた。
「ここに掛けておきます。忘れたら、また思い出しにいらして」
「……はい、必ず」
女は振り返らずに戸を開け、外の光の中に消えていった。炊き場にはまだ湯気が残り、火は静かに音を立てていた。私は次の釜に手をかけ、今朝二度目の米をゆっくり研ぎはじめた。
立っていたのは、ひとりの若い女だった。年のころは十七、八。髪は乱れ、着物の裾は泥で汚れていた。顔色は悪く、けれど目ははっきりとこちらを見ていた。
「おし乃さん、でしょうか」
「……ええ、そうですけれど」
「お頼みがあって参りました。……一膳、炊いていただけませんか」
「誰かのために?」
「いいえ、わたしのために。どうしても、口にしたい味があるんです」
私はその目に嘘がないと判断し、黙って戸を開けた。女は静かに頭を下げ、履き古した草履のまま、そっと足を踏み入れた。
「座ってて。火が起きるまでに、少しかかります」
「はい」
炊き場に戻り、私は昨日のうちに研いであった米を盆に取り、水を張った。まだ外気が冷たいため、水が指に沁みる。その冷たさが、米の輪郭を際立たせてくれる。
「今朝の米は、新潟のです。少し柔らかめに炊けます」
「……それで、いいです」
「何か、苦しいことでも?」
「いえ、ただ……朝に、何も思い出せないのが、つらいだけです」
「なるほど」
火を起こし、釜に米と水を移す。炊きあがるまでには時間がかかる。私はそれまでのあいだに、小鉢を一品用意することにした。戸棚から取り出したのは、昨夜仕込んでおいた切干大根。人参と油揚げと一緒に炒め煮にしてある。冷えた体に染みるよう、煮直して器に移す。
「口の中が静かになりますよ」
「……ありがとうございます」
女は手を膝に置いたまま、静かに座っていた。ときおり、体を小さく震わせるように息をする。私はあえて声をかけず、火と釜の音だけを聞いていた。
やがて湯が沸き、米の音が変わる。跳ねるような泡立ちから、ぽこぽこと下に向かう音へ。火を弱め、私は釜に手をかける。
「もうすぐ炊きあがります」
「……はい」
「菜は、切干大根でいいですか?」
「はい、好きです」
「口の中を整えてから、飯をどうぞ」
火を止め、蓋を開ける。湯気がふわりと舞い、釜の中から甘い香りが広がった。しゃもじで軽く撫でると、米がふっくらとほぐれる。私は器を温め、飯をよそい、小鉢と味噌汁を添えた。味噌汁は、大根と葱。出汁は煮干し。
女の前に膳を置くと、彼女は深く頭を下げた。指先で器を正し、そっと手を合わせた。
「いただきます」
一口、飯を噛む。次に切干大根。噛みしめてから、味噌汁。箸の動きは早くないが、迷いがなかった。食べることだけに集中している様子が、こちらにも伝わってきた。
「……温かい。……ごはんって、こんなに、優しかったんですね」
「何も足さず、何も引かず。朝は、その方がいいです」
「……泣きそうです」
「泣いてもいいですよ。誰も見ていませんから」
女は黙って、またひと口、飯を口に運んだ。頬が少し赤くなり、息がゆっくりと落ち着いてきたのが見て取れた。私は炊き場に戻り、もう一膳分、米を研いでおくことにした。
良太が裏から顔をのぞかせた。
「おし乃さん……?今朝、早いですね」
「客が早く来たのよ」
「……あの子、泣いてませんか?」
「泣いてるのよ。いい泣き方」
「そっか。じゃあ、僕は静かに、火を整えます」
「お願いね。次の釜は、少しだけ水を減らして」
「了解です」
良太がしゃがみこみ、炭を動かしながら釜の下を整える。私はその隣で、湯を沸かすための鉄瓶に水を注いだ。
女の膳が、静かに空になっていた。彼女は膝の上で両手を重ね、こちらを見ていた。
「……ごちそうさまでした」
「どうでしたか」
「……思い出せました。わたし、子どもの頃、こんな味を食べてました」
「その頃のあなたが、ちゃんと生きていた証です」
「忘れていたのは、私の方でした」
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「けれど、何か残したくて……。今日は、ここで、人生が変わりましたから」
「人生なんて、大げさなものじゃない。朝ごはん一膳で、変わるなら、それで充分」
女はそのまま、深く頭を下げた。私は木札を受け取り、炊き場の柱に掛けた。
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「……はい、必ず」
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