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仕立てのいい羽織の男は、黙って飯を平らげた。箸を置く所作に一分の無駄もなく、器の位置を少しずつ整えながら、目を閉じた。彼のような客には、こちらも余計な言葉を挟まないのが礼だ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
男が懐から文を取り出し、そっと私の前に置いた。
「わたくし、駿河の小田原藩より参りました。藩主の養女が食事を受け付けず、江戸にて何か打つ手はないかと探っていたのです」
「……なるほど」
「こちらの料理の話を聞きつけ、試させていただいたのですが……これは、違う」
「違う?」
「違うというのは……失礼、悪い意味ではないのです。むしろ、よすぎる。これでは、舌を肥やしてしまう」
「肥えるかどうかは、食べ方次第です」
「ならば、願いがございます」
男は背筋を正し、こちらに深々と頭を下げた。
「その養女に、この一膳を届けていただけませんか。こちらから人を遣わしても、口にしないのです。ならば、誰とも知らぬ人が、ふらりと現れ、そっと一椀を差し出す方が、かえって良いかと」
「顔も知らぬ方に、ですか」
「はい。食べるかどうかも、わかりません。けれど、それしか、もう手がないのです」
私は釜の湯気を見ながら、しばし考えた。口にしない者へ届ける飯というのは、難しい。それでも、やるだけのことはある。
「わかりました。ただし、条件があります」
「……おっしゃってください」
「食べたかどうかは、知らせないでください」
男の眉が少し動いた。
「それは……なぜですか」
「“食べさせよう”という気持ちが強いと、食べる人の心は閉じます。こちらが“知らないままでいい”と諦めていれば、逆に向こうは心を開きます」
「……なるほど」
「だから、私が届けます。でも、結果は聞かない。もし食べなければ、それはそれまで。食べたとしても、こちらは気づかない」
「承知いたしました」
男は立ち上がり、私に道案内の文を渡してから、静かにやわらぎ亭を後にした。
良太が隣でずっと聞いていたのか、小声で尋ねてきた。
「……行くんですか?」
「ええ。今炊いた米を、もう一度、炊き直して持っていく」
「僕もついていきます」
「あなたは釜を見てて。夕方に、もう一釜必要になります」
「わかりました」
私は米を研ぎ直し、静かに火を入れた。時間は昼を回っていたが、日の光はまだ柔らかい。今のうちに炊きあげれば、夕刻には充分間に合う。
海苔を刻み、香の物を少し、汁物はつけない。器は竹の折箱にする。派手な彩りは避け、ただ米がうまく炊けたこと、それだけを伝えるような、そんな一膳に仕立てる。
釜の蓋を開けた瞬間、香りがふっと立ちのぼった。混ぜものをせず、純粋に炊いた白米。これほど難しく、これほど確かな一椀はない。
飯を盛り、海苔をのせ、折を閉じる。箱を風呂敷で包み、私ひとりで、店を出た。
文に書かれた道を辿り、小田原藩の江戸屋敷へ向かう。町を抜け、堀を渡り、門の前で名乗ることもせず、荷を差し出す。
「これは、預かりものです。名乗りは無用です。中を開ける前に、湯だけは用意してください。それだけ伝えてください」
「……は、はい」
門番は面食らった顔で折箱を受け取り、奥へと運んでいった。
私は一礼し、すぐにその場を離れた。
戻ってきたやわらぎ亭では、ちょうど釜が蒸らしに入ったところだった。良太がしゃもじを持ち、火のそばで座っていた。
「おかえりなさい」
「留守番、ありがとう」
「……届けたんですか?」
「ええ、渡してきたわ」
「食べたかどうかは、聞いてませんよね」
「ええ、聞いてません」
私が炊き場に戻ると、良太が湯を足しながらぽつりとつぶやいた。
「でも、きっと食べてますね」
「どうしてそう思うの?」
「だって、今日の米、今朝のより、もっといい匂いしてたから」
「それは……火が整ってたから」
「火が整ったのは、おし乃さんの手が整ってたからです」
私は何も答えず、しゃもじを取り、釜を静かに撫でた。湯気がふわりと立ちのぼり、次の客のための音が、すでに始まっていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
男が懐から文を取り出し、そっと私の前に置いた。
「わたくし、駿河の小田原藩より参りました。藩主の養女が食事を受け付けず、江戸にて何か打つ手はないかと探っていたのです」
「……なるほど」
「こちらの料理の話を聞きつけ、試させていただいたのですが……これは、違う」
「違う?」
「違うというのは……失礼、悪い意味ではないのです。むしろ、よすぎる。これでは、舌を肥やしてしまう」
「肥えるかどうかは、食べ方次第です」
「ならば、願いがございます」
男は背筋を正し、こちらに深々と頭を下げた。
「その養女に、この一膳を届けていただけませんか。こちらから人を遣わしても、口にしないのです。ならば、誰とも知らぬ人が、ふらりと現れ、そっと一椀を差し出す方が、かえって良いかと」
「顔も知らぬ方に、ですか」
「はい。食べるかどうかも、わかりません。けれど、それしか、もう手がないのです」
私は釜の湯気を見ながら、しばし考えた。口にしない者へ届ける飯というのは、難しい。それでも、やるだけのことはある。
「わかりました。ただし、条件があります」
「……おっしゃってください」
「食べたかどうかは、知らせないでください」
男の眉が少し動いた。
「それは……なぜですか」
「“食べさせよう”という気持ちが強いと、食べる人の心は閉じます。こちらが“知らないままでいい”と諦めていれば、逆に向こうは心を開きます」
「……なるほど」
「だから、私が届けます。でも、結果は聞かない。もし食べなければ、それはそれまで。食べたとしても、こちらは気づかない」
「承知いたしました」
男は立ち上がり、私に道案内の文を渡してから、静かにやわらぎ亭を後にした。
良太が隣でずっと聞いていたのか、小声で尋ねてきた。
「……行くんですか?」
「ええ。今炊いた米を、もう一度、炊き直して持っていく」
「僕もついていきます」
「あなたは釜を見てて。夕方に、もう一釜必要になります」
「わかりました」
私は米を研ぎ直し、静かに火を入れた。時間は昼を回っていたが、日の光はまだ柔らかい。今のうちに炊きあげれば、夕刻には充分間に合う。
海苔を刻み、香の物を少し、汁物はつけない。器は竹の折箱にする。派手な彩りは避け、ただ米がうまく炊けたこと、それだけを伝えるような、そんな一膳に仕立てる。
釜の蓋を開けた瞬間、香りがふっと立ちのぼった。混ぜものをせず、純粋に炊いた白米。これほど難しく、これほど確かな一椀はない。
飯を盛り、海苔をのせ、折を閉じる。箱を風呂敷で包み、私ひとりで、店を出た。
文に書かれた道を辿り、小田原藩の江戸屋敷へ向かう。町を抜け、堀を渡り、門の前で名乗ることもせず、荷を差し出す。
「これは、預かりものです。名乗りは無用です。中を開ける前に、湯だけは用意してください。それだけ伝えてください」
「……は、はい」
門番は面食らった顔で折箱を受け取り、奥へと運んでいった。
私は一礼し、すぐにその場を離れた。
戻ってきたやわらぎ亭では、ちょうど釜が蒸らしに入ったところだった。良太がしゃもじを持ち、火のそばで座っていた。
「おかえりなさい」
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「……届けたんですか?」
「ええ、渡してきたわ」
「食べたかどうかは、聞いてませんよね」
「ええ、聞いてません」
私が炊き場に戻ると、良太が湯を足しながらぽつりとつぶやいた。
「でも、きっと食べてますね」
「どうしてそう思うの?」
「だって、今日の米、今朝のより、もっといい匂いしてたから」
「それは……火が整ってたから」
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