【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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仕立てのいい羽織の男は、黙って飯を平らげた。箸を置く所作に一分の無駄もなく、器の位置を少しずつ整えながら、目を閉じた。彼のような客には、こちらも余計な言葉を挟まないのが礼だ。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

男が懐から文を取り出し、そっと私の前に置いた。

「わたくし、駿河の小田原藩より参りました。藩主の養女が食事を受け付けず、江戸にて何か打つ手はないかと探っていたのです」

「……なるほど」

「こちらの料理の話を聞きつけ、試させていただいたのですが……これは、違う」

「違う?」

「違うというのは……失礼、悪い意味ではないのです。むしろ、よすぎる。これでは、舌を肥やしてしまう」

「肥えるかどうかは、食べ方次第です」

「ならば、願いがございます」

男は背筋を正し、こちらに深々と頭を下げた。

「その養女に、この一膳を届けていただけませんか。こちらから人を遣わしても、口にしないのです。ならば、誰とも知らぬ人が、ふらりと現れ、そっと一椀を差し出す方が、かえって良いかと」

「顔も知らぬ方に、ですか」

「はい。食べるかどうかも、わかりません。けれど、それしか、もう手がないのです」

私は釜の湯気を見ながら、しばし考えた。口にしない者へ届ける飯というのは、難しい。それでも、やるだけのことはある。

「わかりました。ただし、条件があります」

「……おっしゃってください」

「食べたかどうかは、知らせないでください」

男の眉が少し動いた。

「それは……なぜですか」

「“食べさせよう”という気持ちが強いと、食べる人の心は閉じます。こちらが“知らないままでいい”と諦めていれば、逆に向こうは心を開きます」

「……なるほど」

「だから、私が届けます。でも、結果は聞かない。もし食べなければ、それはそれまで。食べたとしても、こちらは気づかない」

「承知いたしました」

男は立ち上がり、私に道案内の文を渡してから、静かにやわらぎ亭を後にした。

良太が隣でずっと聞いていたのか、小声で尋ねてきた。

「……行くんですか?」

「ええ。今炊いた米を、もう一度、炊き直して持っていく」

「僕もついていきます」

「あなたは釜を見てて。夕方に、もう一釜必要になります」

「わかりました」

私は米を研ぎ直し、静かに火を入れた。時間は昼を回っていたが、日の光はまだ柔らかい。今のうちに炊きあげれば、夕刻には充分間に合う。

海苔を刻み、香の物を少し、汁物はつけない。器は竹の折箱にする。派手な彩りは避け、ただ米がうまく炊けたこと、それだけを伝えるような、そんな一膳に仕立てる。

釜の蓋を開けた瞬間、香りがふっと立ちのぼった。混ぜものをせず、純粋に炊いた白米。これほど難しく、これほど確かな一椀はない。

飯を盛り、海苔をのせ、折を閉じる。箱を風呂敷で包み、私ひとりで、店を出た。

文に書かれた道を辿り、小田原藩の江戸屋敷へ向かう。町を抜け、堀を渡り、門の前で名乗ることもせず、荷を差し出す。

「これは、預かりものです。名乗りは無用です。中を開ける前に、湯だけは用意してください。それだけ伝えてください」

「……は、はい」

門番は面食らった顔で折箱を受け取り、奥へと運んでいった。

私は一礼し、すぐにその場を離れた。

戻ってきたやわらぎ亭では、ちょうど釜が蒸らしに入ったところだった。良太がしゃもじを持ち、火のそばで座っていた。

「おかえりなさい」

「留守番、ありがとう」

「……届けたんですか?」

「ええ、渡してきたわ」

「食べたかどうかは、聞いてませんよね」

「ええ、聞いてません」

私が炊き場に戻ると、良太が湯を足しながらぽつりとつぶやいた。

「でも、きっと食べてますね」

「どうしてそう思うの?」

「だって、今日の米、今朝のより、もっといい匂いしてたから」

「それは……火が整ってたから」

「火が整ったのは、おし乃さんの手が整ってたからです」

私は何も答えず、しゃもじを取り、釜を静かに撫でた。湯気がふわりと立ちのぼり、次の客のための音が、すでに始まっていた。
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