【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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「金さん、また地味な格好でいらっしゃいましたね」

店に入ってきたのは、いつものように町人に扮した遠山金四郎、金さんだった。

「ははは、おし乃さんには敵わんな。これでもずいぶんと気を使っているつもりなんだが」

「いえいえ、お召し物は庶民的でも、その佇まいと眼光は隠せませんよ」

「参ったな。おし乃さんの観察眼には、いつも驚かされる」

金さんはそう言いながら、いつもの席に腰を下ろした。

「今日は何がいただけるかな?実は、昨夜からおし乃さんの飯が恋しくてならなかったんだ」

「それは光栄です。今朝は、焼き油揚げと大根おろしに、しじみの味噌汁をご用意しておりましたが、金さんでしたら、何かお好みのものをお作りしましょうか?」

「いや、それがいい。気取らない、そういう朝餉が一番だ。それに、おし乃さんの選ぶ献立に間違いはないからな」

「ありがとうございます。では、すぐに支度いたしますね」

良太が金さんのためにお茶を淹れている。その所作も、以前とは比べ物にならないほど落ち着いていて、見ていて安心感がある。

「良太君も、すっかり逞しくなったな。最初に来た時とは、まるで別人だ」

金さんが良太に声をかけると、良太は少しはにかみながら頭を下げた。

「金四郎様のおかげでございます。いつも気にかけていただき、感謝しております」

「はは、俺は何もしていないさ。おし乃さんの飯と、君自身の努力の賜物だよ」

金さんの言葉は、いつも人を勇気づける。彼がこの店に運んでくるのは、ただ空腹を満たすためだけではないのだろう。

「さあ、金さん、お待たせいたしました」

膳を運ぶと、金さんは満足そうに頷いた。

「うん、これだ。この香り、この湯気。これが江戸の朝だよな」

まずは味噌汁を一口。そして、ご飯と焼き油揚げを交互に口に運ぶ。その食べ方は、いつ見ても本当に美味しそうで、見ているこちらも幸せな気分になる。

「…ふぅ、染みるな。このしじみの味噌汁は、五臓六腑に染み渡るようだ。昨夜の酒が、すっと抜けていくのがわかる」

「それは良かったです。しじみは肝臓に良いと申しますからね」

「ああ、それにこの焼き油揚げと大根おろし。単純なようでいて、奥が深い。油揚げの香ばしさと大根の辛味が絶妙だ。おし乃さんの手にかかると、どんな食材もこうして輝き出すのだから、大したものだよ」

「恐れ入ります。食材が持つ本来の味を引き出してやることが、私の役目ですから」

金さんは黙々と食べ進め、やがて満足そうに息をついた。

「ごちそうさまであった。いや、実に美味かった。これで今日の仕事もはかどりそうだ」

「お役に立てて何よりです」

「ところで、おし乃さん。最近、この深川界隈で、腕のいい料理人がいると噂になっているのを知っているかな?」

金さんの言葉に、私は少し首を傾げた。

「いえ、存じ上げませんでしたが…どちら様のことでしょう?」

「それがな、どうやら『やわらぎ亭』のおし乃さんのことらしいのだよ」

「まあ…」

思いがけない言葉に、私は少し驚いた。私の料理が、そんな風に噂になっているとは。

「先日、とある会合でな、食通で知られるご隠居が、深川にそれは見事な一膳飯屋があると話していてな。聞けば、元武家の娘が一人で切り盛りしている店で、その料理は派手さはないが、じんわりと心に沁みる味わいだと絶賛していたのだ」

「それは…身に余る光栄です」

「いやいや、当然のことだよ。おし乃さんの料理は、それだけの価値がある。そのご隠居も、近々お忍びで訪ねてみたいと話していたぞ」

「そうですか…いつお客様がいらっしゃっても恥ずかしうないように、精進いたしませんとね」

金さんはにっこりと笑った。

「その必要はないさ。おし乃さんは、今のままで素晴らしい。ただ、あまり無理はしないようにな。おし乃さんが倒れてしまっては、江戸の町から楽しみが一つ減ってしまうからな」

「お心遣い、痛み入ります。大丈夫ですよ、私には良太君もおりますし」

私の言葉に、良太が力強く頷いた。

「はい!おし乃さんをお支えするのが、私の役目です!」

「頼もしいな、良太君」

金さんは満足そうに頷くと、懐から銭を取り出し、膳の脇に置いた。

「さて、そろそろ行くとするか。おし乃さん、良太君、今日も美味い飯をありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。お気をつけて」

金さんを見送ると、店の空気がまた少し変わったような気がした。嬉しい噂は、やはり心を弾ませる。けれど、それに浮足立つことなく、私はいつものように、目の前の一膳に心を込めるだけだ。

「良太、そろそろ次の釜の準備を始めましょうか。今日は、少し多めに炊いておいた方が良さそうね」

「はい、おし乃さん!腕が鳴ります!」

良太の元気な声が、朝のやわらぎ亭に心地よく響いた。

昼餉の支度に取り掛かろうとした矢先、店の戸ががらりと開いた。

「おし乃さん!大変だ!」

息を切らして飛び込んできたのは、八百屋の忠吉だった。その顔は青ざめ、ただならぬ様子がうかがえる。

「忠吉さん、どうしたんです?そんなに慌てて」

「それが…うちの、うちの娘のお花が…!」

忠吉は言葉を詰まらせ、額の汗を手の甲で拭った。

「お花ちゃんが、どうかしたのですか?」

「今朝から、熱が高くて、うなされてるんだ!医者にも診てもらったんだが、風邪だろうとは言うものの、薬を飲んでも一向に良くなる気配がなくてな…。食欲も全然なくて、水さえも喉を通らないようなありさまで…」

忠吉の声は震えていた。一人娘のお花ちゃんを、どれほど心配しているかが痛いほど伝わってくる。お花ちゃんはまだ五つになったばかりの、それは可愛らしい女の子だ。

「何か、何かお花が口にできるものはないだろうかと思って…おし乃さんのところなら、何か知恵を貸してくれるんじゃないかと思って、飛んできたんだ!」

「落ち着いてください、忠吉さん。お花ちゃんの具合、詳しく聞かせていただけますか?」

私は忠吉を店の奥の上がり框に座らせ、熱いお茶を一杯出した。良太も心配そうに、私たちの傍に控えている。

「熱は高いけれど、咳や鼻水は?お腹の具合は?」

「咳も鼻も出てねえんだ。腹も、別に痛がってる様子はねえ。ただ、ぐったりしていて、時々魘されるように泣くだけで…」

「そうですか…。食欲がない時は、無理に食べさせてもいけません。でも、水分だけは摂らせないと…」

私は少し考えた。熱が高く、食欲がない。けれど、他に目立った症状がない。こういう時、下手に薬味の強いものや、消化の悪いものは逆効果になる。

「忠吉さん、お花ちゃんは、甘いものは好きでしたよね?」

「ああ、大好きだ。特に、葛湯とか、そういうとろりとした甘いものが…」

「それなら、良いものがあります。すぐに作りますから、少し待っていてください」

私は炊き場へ向かうと、棚から葛粉と上白糖を取り出した。そして、昨日仕込んでおいた梅干しの中から、一番熟れて柔らかそうなものを選び出す。

「良太、小鍋に湯を沸かしてくれる?それから、この梅干しの種を取って、裏ごししておいて」

「はい、おし乃さん!」

良太はすぐに湯を沸かし始め、梅干しの処理に取り掛かった。私は葛粉を少量の水で溶き、沸いた湯に少しずつ加えながら、手早く練り上げていく。焦がさないように、だまにならないように、火加減に細心の注意を払いながら。

葛が透き通るような美しい飴色になり、とろりとした良い塩梅になったところで火から下ろす。そこへ、裏ごしした梅肉と上白糖を加え、ゆっくりと混ぜ合わせた。ふわりと梅の甘酸っぱい香りが立ち上る。

「これを、お花ちゃんに」

私は出来上がった梅葛湯を小さな椀によそい、忠吉に差し出した。

「これは…?」

「梅葛湯です。葛は体を温め、消化も良い。梅の酸味は食欲を刺激し、殺菌効果も期待できます。甘くて口当たりも良いですから、きっとお花ちゃんもこれなら少しは口にしてくれるかもしれません」

「おお…!ありがとう、おし乃さん!本当にありがとう!」

忠吉は梅葛湯の入った椀を、まるで宝物のように大切に両手で受け取った。

「冷めないうちに、早くお花ちゃんのところへ。そして、これを飲ませる時も、焦らず、少しずつ、優しく声をかけながらあげてくださいね」

「わかった!本当に、何てお礼を言ったらいいか…!」

忠吉は何度も頭を下げると、梅葛湯を抱えて飛ぶように店を出て行った。

「お花ちゃん、良くなるといいですね」

良太が心配そうに呟いた。

「ええ、きっと大丈夫よ。子供の回復力は、大人が思うよりずっと強いものですから」

そうは言ったものの、やはり気がかりではある。忠吉の必死な顔が目に焼き付いていた。

昼餉の支度をしながらも、どこか気持ちが落ち着かない。どうかお花ちゃんが、あの梅葛湯を口にして、少しでも元気を取り戻してくれますように。そう願わずにはいられなかった。

そんな私の心配をよそに、昼どきのやわらぎ亭は、いつものように賑わいを見せていた。常連の職人たちが、額に汗して働く合間に、おし乃の飯で腹を満たしに来る。

「おし乃さん、今日の煮物、絶品だな!味がしっかり染みてて、飯が進むぜ!」

「ありがとうございます。今日は少し濃いめの味付けにしてみました」

「姐さん、ここの漬物、どうしてこんなに美味いんだい?家で漬けても、こうはいかねえよ」

「それは、愛情を込めているからですよ」

客たちの威勢の良い声と、美味しそうに飯を頬張る顔。それらが、私の心を少しずつ和ませてくれる。この店は、やはりこうでなくては。
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