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店の戸が静かに開き、一人の武士が姿を現した。年の頃は五十を過ぎているだろうか。質素ながらも隙のない身なり、そして何よりも、その鋭い眼光が、ただならぬ人物であることを物語っていた。供も連れず、一人でふらりと立ち寄ったという風情ではない。
「ここが、噂に聞く『やわらぎ亭』か」
低いが、よく通る声だった。その声には、人を従わせるような威厳が感じられる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
私は動じることなく、いつものように客を迎えた。良太が緊張した面持ちで、武士の前に湯呑みを置く。
「煮売り屋でございます。お口汚しかもしれませんが、何か召し上がって行かれますか?」
武士は店内をゆっくりと見回し、やがて私の顔をじっと見つめた。その視線は、まるで私の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「主は、そなたか」
「はい、おし乃と申します」
「ふむ…。噂に違わぬ、凛とした女主人よな」
武士はそう言うと、ふっと口元を緩めた。しかし、その目は依然として鋭いままだ。
「今日は、そなたの料理を味わいに参った。何でも良い。そなたが一番自信のあるものを、一膳、頼む」
一番自信のあるもの…。私の料理に、そのような区別はない。どの料理も、その時々の食材と、お客様の顔を思い浮かべながら、心を込めて作っているだけだ。
「かしこまりました。では、今の季節ならではのものを、ご用意させていただきます。少々お時間をいただけますでしょうか」
「うむ、構わん。楽しみに待つとしよう」
武士はそう言うと、目を閉じ、静かに腕を組んだ。その佇まいは、まるで道場の師範のようだ。良太は緊張で体が強張っているのがわかる。無理もない。これほどの威圧感を放つ客は、そうそういるものではない。
私は炊き場に戻り、深く息を吸った。気持ちを落ち着かせ、さて、何を作ろうかと思案する。今の季節ならではのもの…そして、この武士の舌を唸らせるような一品。
ふと、今朝忠吉が届けてくれた、瑞々しい蕪が目に留まった。そうだ、これを使おう。蕪の繊細な甘みと、それを引き立てる出汁の旨味。そして、ほんの少しの驚きを添えて…。
私はまず、蕪の皮を薄く剥き、菊花のように細かく飾り包丁を入れた。それを薄めの昆布出汁で、ことことと煮含めていく。煮崩れないように、それでいて蕪の芯まで柔らかく火が通るように、細心の注意を払う。
次に、別の小鍋で餡を作る。葛粉を使い、白味噌をベースにした、ほんのり甘い味噌餡だ。しかし、ただの味噌餡では面白くない。私はそこに、ほんの少しだけ、柚子の皮のすりおろしと、隠し味として山椒の粉をほんのひと振り加えた。
蕪がほどよく煮えたところで、そっと器に盛り付ける。そして、熱々の味噌餡を、その上からとろりとかける。仕上げに、彩りとして木の芽を一枚、ちょこんと乗せた。
「お待たせいたしました。『蕪の菊花煮 柚子味噌餡かけ』でございます」
私は武士の前に、その一品を静かに差し出した。湯気と共に、柚子と山椒の爽やかな香りがふわりと立ち上る。
武士はゆっくりと目を開け、目の前の一品をしばし見つめた。そして、おもむろに箸を取ると、まずは餡を少しだけ口に含んだ。
「ほう…」
武士の口から、感嘆ともとれる短い声が漏れた。次に、飾り包丁の入った蕪を、そっと箸で割り、餡に絡めて口へと運ぶ。
しばしの沈黙。店の外の喧騒さえも聞こえなくなるような、張り詰めた静寂が流れる。良太は固唾を飲んで、武士の反応を見守っている。
やがて、武士はゆっくりと箸を置いた。そして、私を真っ直ぐに見据えると、こう言った。
「見事だ」
その一言は、重く、そして深く、私の心に響いた。
「この蕪の煮含め具合、そしてこの餡…。柚子の香りが立ち、後から山椒がぴりりと舌を刺激する。甘さ、塩味、酸味、辛味、そして旨味…。五味が複雑に絡み合いながらも、決して互いを邪魔することなく、完璧な調和を生み出している。蕪そのものの甘みも、見事に引き出されておるわ」
武士の言葉は、料理人にとって、これ以上ないほどの賛辞だった。
「恐れ入ります。お口に合いましたようで、何よりでございます」
「ふん、口先だけの謙遜はよせ。そなたは、己の腕に自信があるのだろう。その自信が、この一品に現れておる」
武士はそう言うと、再び箸を取り、残りの蕪をゆっくりと味わい始めた。その表情は、来た時よりもいくらか和らいで見える。
「この餡は、どのようにして思いついたのだ?」
「はい。蕪の甘みを活かすには、味噌が良いと考えました。ただ、普通の味噌では面白みがございませんので、柚子で香りを、山椒でアクセントを加えてみました。味噌のコクと、柑橘の爽やかさ、そしてほんの少しの刺激が、蕪の繊細な味わいを引き立ててくれるのではないかと」
「なるほどな…。料理とは、かくも奥深いものか。儂は長年、剣の道一筋に生きてきたが、そなたの料理には、剣術にも通じるものを感じるわ。無駄のない所作、研ぎ澄まされた感覚、そして、相手(食材)の持ち味を最大限に引き出す技…。実にお見事だ」
武しいい男は、膳の上のものを綺麗に平らげると、満足そうに息をついた。
「久々に、心から美味いと思えるものを食したわ。礼を言うぞ、おし乃殿」
「とんでもないことでございます。こちらこそ、お気に召していただけて、料理人冥利に尽きます」
武士は立ち上がると、懐から小さな革袋を取り出し、ずしりと重いそれを私の前に置いた。
「これは、今日の料理の代金だ。釣りは要らぬ」
「いえ、このような大金は…」
「良いのだ。そなたの料理には、それだけの価値がある。…いや、それ以上かもしれぬな」
武士はそう言うと、にやりと笑った。その笑顔は、まるで悪戯を思いついた少年のように、どこか茶目っ気を含んでいた。
「また来る。次は、腹を空かせて、もっと色々なものを味わわせてもらうとしよう」
「はい、いつでもお待ち申し上げております」
武士は颯爽と暖簾をくぐり、夕闇の迫る町並みへと消えていった。その後ろ姿を見送りながら、私はまだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
「ここが、噂に聞く『やわらぎ亭』か」
低いが、よく通る声だった。その声には、人を従わせるような威厳が感じられる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
私は動じることなく、いつものように客を迎えた。良太が緊張した面持ちで、武士の前に湯呑みを置く。
「煮売り屋でございます。お口汚しかもしれませんが、何か召し上がって行かれますか?」
武士は店内をゆっくりと見回し、やがて私の顔をじっと見つめた。その視線は、まるで私の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「主は、そなたか」
「はい、おし乃と申します」
「ふむ…。噂に違わぬ、凛とした女主人よな」
武士はそう言うと、ふっと口元を緩めた。しかし、その目は依然として鋭いままだ。
「今日は、そなたの料理を味わいに参った。何でも良い。そなたが一番自信のあるものを、一膳、頼む」
一番自信のあるもの…。私の料理に、そのような区別はない。どの料理も、その時々の食材と、お客様の顔を思い浮かべながら、心を込めて作っているだけだ。
「かしこまりました。では、今の季節ならではのものを、ご用意させていただきます。少々お時間をいただけますでしょうか」
「うむ、構わん。楽しみに待つとしよう」
武士はそう言うと、目を閉じ、静かに腕を組んだ。その佇まいは、まるで道場の師範のようだ。良太は緊張で体が強張っているのがわかる。無理もない。これほどの威圧感を放つ客は、そうそういるものではない。
私は炊き場に戻り、深く息を吸った。気持ちを落ち着かせ、さて、何を作ろうかと思案する。今の季節ならではのもの…そして、この武士の舌を唸らせるような一品。
ふと、今朝忠吉が届けてくれた、瑞々しい蕪が目に留まった。そうだ、これを使おう。蕪の繊細な甘みと、それを引き立てる出汁の旨味。そして、ほんの少しの驚きを添えて…。
私はまず、蕪の皮を薄く剥き、菊花のように細かく飾り包丁を入れた。それを薄めの昆布出汁で、ことことと煮含めていく。煮崩れないように、それでいて蕪の芯まで柔らかく火が通るように、細心の注意を払う。
次に、別の小鍋で餡を作る。葛粉を使い、白味噌をベースにした、ほんのり甘い味噌餡だ。しかし、ただの味噌餡では面白くない。私はそこに、ほんの少しだけ、柚子の皮のすりおろしと、隠し味として山椒の粉をほんのひと振り加えた。
蕪がほどよく煮えたところで、そっと器に盛り付ける。そして、熱々の味噌餡を、その上からとろりとかける。仕上げに、彩りとして木の芽を一枚、ちょこんと乗せた。
「お待たせいたしました。『蕪の菊花煮 柚子味噌餡かけ』でございます」
私は武士の前に、その一品を静かに差し出した。湯気と共に、柚子と山椒の爽やかな香りがふわりと立ち上る。
武士はゆっくりと目を開け、目の前の一品をしばし見つめた。そして、おもむろに箸を取ると、まずは餡を少しだけ口に含んだ。
「ほう…」
武士の口から、感嘆ともとれる短い声が漏れた。次に、飾り包丁の入った蕪を、そっと箸で割り、餡に絡めて口へと運ぶ。
しばしの沈黙。店の外の喧騒さえも聞こえなくなるような、張り詰めた静寂が流れる。良太は固唾を飲んで、武士の反応を見守っている。
やがて、武士はゆっくりと箸を置いた。そして、私を真っ直ぐに見据えると、こう言った。
「見事だ」
その一言は、重く、そして深く、私の心に響いた。
「この蕪の煮含め具合、そしてこの餡…。柚子の香りが立ち、後から山椒がぴりりと舌を刺激する。甘さ、塩味、酸味、辛味、そして旨味…。五味が複雑に絡み合いながらも、決して互いを邪魔することなく、完璧な調和を生み出している。蕪そのものの甘みも、見事に引き出されておるわ」
武士の言葉は、料理人にとって、これ以上ないほどの賛辞だった。
「恐れ入ります。お口に合いましたようで、何よりでございます」
「ふん、口先だけの謙遜はよせ。そなたは、己の腕に自信があるのだろう。その自信が、この一品に現れておる」
武士はそう言うと、再び箸を取り、残りの蕪をゆっくりと味わい始めた。その表情は、来た時よりもいくらか和らいで見える。
「この餡は、どのようにして思いついたのだ?」
「はい。蕪の甘みを活かすには、味噌が良いと考えました。ただ、普通の味噌では面白みがございませんので、柚子で香りを、山椒でアクセントを加えてみました。味噌のコクと、柑橘の爽やかさ、そしてほんの少しの刺激が、蕪の繊細な味わいを引き立ててくれるのではないかと」
「なるほどな…。料理とは、かくも奥深いものか。儂は長年、剣の道一筋に生きてきたが、そなたの料理には、剣術にも通じるものを感じるわ。無駄のない所作、研ぎ澄まされた感覚、そして、相手(食材)の持ち味を最大限に引き出す技…。実にお見事だ」
武しいい男は、膳の上のものを綺麗に平らげると、満足そうに息をついた。
「久々に、心から美味いと思えるものを食したわ。礼を言うぞ、おし乃殿」
「とんでもないことでございます。こちらこそ、お気に召していただけて、料理人冥利に尽きます」
武士は立ち上がると、懐から小さな革袋を取り出し、ずしりと重いそれを私の前に置いた。
「これは、今日の料理の代金だ。釣りは要らぬ」
「いえ、このような大金は…」
「良いのだ。そなたの料理には、それだけの価値がある。…いや、それ以上かもしれぬな」
武士はそう言うと、にやりと笑った。その笑顔は、まるで悪戯を思いついた少年のように、どこか茶目っ気を含んでいた。
「また来る。次は、腹を空かせて、もっと色々なものを味わわせてもらうとしよう」
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