【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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「おし乃さん…今の武士の方、一体どなただったんでしょうか…?」

良太が、まだ興奮冷めやらぬといった様子で尋ねてきた。

「さあ…私にもわからないわ。でも、ただ者ではないことだけは確かね」

革袋の中身を確かめると、そこには小判が数枚も入っていた。蕪の菊花煮一品に対して、あまりにも分不相応な金額だ。しかし、あの武士は、私の料理にそれだけの価値を見出してくれたのだろう。

「良太、このお金は、大切に使わせていただきましょう。もっと美味しい料理を作るために、もっと良い食材を仕入れるためにね」

「はい、おし乃さん!」

良太の目も、きらきらと輝いていた。今日の出来事は、彼にとっても大きな刺激になったに違いない。

夜の帳が下り、やわらぎ亭にもぽつぽつと灯りがともる頃、店の戸がそっと開いた。入ってきたのは、昼間、佐吉さんの形見を届けに来てくれた若い娘だった。

「あの…おし乃様…」

「まあ、どうなさいました?何か忘れ物でも?」

娘は俯きながら、小さな声で言った。

「いえ…あの、どうしても、おし乃様のお料理を、一度、いただいてみたくて…」

その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。昼間は、父親の言いつけを果たすことで頭がいっぱいで、食事どころではなかったのだろう。

「もちろんですよ。さあ、こちらへ。今夜は冷えますから、温かいものをご用意しましょう」

娘を囲炉裏のそばの席へ案内すると、彼女はほっとしたように息をついた。

「ありがとうございます…なんだか、ここへ来ると、とても落ち着きます」

「それは良かった。何が食べたいですか?お腹は空いていますか?」

「はい…とても。あの、おし乃様にお任せしても、よろしいでしょうか…?」

「ええ、喜んで。では、今夜は特別に、あなたのために心を込めてお作りしますね」

私は炊き場へ向かい、さて何を作ろうかと考えた。彼女の疲れた心と体を、優しく温めてくれるような一品。そして、亡き父親との思い出にも繋がるような、そんな料理が良いかもしれない。

そうだ、あれを作ろう。佐吉さんが、十年前に「美味しい、美味しい」と言って食べてくれた、あのお粥を。もちろん、今の彼女の体調に合わせて、少し趣向を変えて。

私は土鍋に米とたっぷりの出汁を入れ、火にかけた。そして、今朝忠吉が届けてくれたばかりの、新鮮な蕪をすりおろし、仕上げに加えることにした。蕪の優しい甘みが、きっと彼女の心に沁みるはずだ。

ことことと、土鍋が静かに煮える音。湯気と共に立ち上る、出汁と米の香り。その全てが、店の中を温かく包み込んでいく。

やがて、とろりとした美味しそうなお粥が炊き上がった。私はそれを、佐吉さんが使っていたという、あの木の匙を添えて、娘の前に差し出した。

「さあ、どうぞ。蕪のすりおろし粥です。熱いですから、ゆっくりと召し上がってくださいね」

娘は、目の前に置かれたお粥と木の匙を、じっと見つめていた。そして、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。

「あの…この匙は…」

「ええ、あなたのお父様が、十年前に使われた匙ですよ。この匙で、今日はお粥を召し上がってください。きっと、お父様も喜んでくださるでしょう」

娘は何度も頷きながら、そっと木の匙を手に取った。そして、涙で濡れた顔のまま、お粥を一口、口に運んだ。

「……おいしい……」

それは、心の底から絞り出すような、か細い声だった。

「こんなに優しい味…初めてです…。温かくて、甘くて…父が、この味を忘れられなかった気持ちが、今、わかりました…」

娘は、一匙、また一匙と、ゆっくりとお粥を味わっている。その姿は、まるで亡き父親と再会を果たしたかのようにも見えた。

「おし乃様…本当に、ありがとうございます。私、今日ここへ来て、本当に良かったです。父の思いも果たすことができましたし、こんなに美味しいお粥もいただくことができて…」

「いいえ、お礼を言うのは私の方ですよ。佐吉さんのことを思い出させてくれて、そして、こんなに美味しそうにお粥を食べてくれて、ありがとう」

娘は、お粥を綺麗に平らげると、晴れやかな顔で私に言った。

「私、明日から、また頑張れそうです。父が愛したこの江戸の町で、しっかりと自分の足で立って生きていこうと、今、心に決めました」

「ええ、あなたならきっと大丈夫。応援していますよ」

「はい!…あの、また、ここへ来てもいいですか?おし乃様のお料理、もっとたくさんいただいてみたいです」

「もちろんですとも。いつでも、お待ちしていますよ」

娘は深々と頭を下げると、希望に満ちた表情で店を後にした。その足取りは、もう迷いを振り切ったかのように、しっかりと大地を踏みしめていた。

人の縁とは、不思議なものだ。十年という歳月を経ても、一杯のお粥が繋いだ縁は、こうしてまた新たな物語を紡ぎ出す。このやわらぎ亭が、これからもそんな温かい縁を結ぶ場所であり続けられるように、私は明日もまた、心を込めて竈に火を入れるだろう。

夜も更け、店の戸を閉めようとした時、ひょっこりと顔を出したのは、金さんだった。しかし、いつものような町人姿ではなく、今日は供の者を二人ほど連れ、いかにもお忍びといった風情ではあるが、奉行所の役人としての風格を漂わせている。

「おし乃さん、今宵は少しばかり、込み入った話があって参った」

金さんの表情は、いつになく真剣だった。
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