【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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老婆様の後ろ姿が見えなくなるまで見送った私は、ふぅ、と一つ息をついて店の中に戻った。
胸の中に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じる。

父が残してくれたものは、この店や料理の腕だけではなかった。

人の心に、何十年も残り続けるほどの温かい記憶。それこそが、父が生きた証なのかもしれない。

「おし乃さん、なんだか、すごく嬉しそうですね」

後片付けを手伝ってくれていた良太が、私の顔を覗き込んで言った。
その顔には、心配と好奇心が半分ずつ浮かんでいる。

「ええ。少しね。父のことを、また一つ知ることができたから」

私は微笑みながら、先ほどの老婆様とのやり取りを良太に話して聞かせた。
父が仕えていたという大名屋敷のこと。
そして、一杯の筍の煮物が、一人の女性の心をずっと支え続けてきたこと。

「そうだったんですか……おし乃さんのお父様は、本当にすごい料理人だったんですね」

良太は、目を輝かせながら相槌を打つ。
彼の真っ直ぐな尊敬の眼差しが、少しだけ気恥ずかしい。

「私なんて、まだまだ足元にも及ばないわ。でも、少しでも父に近づけるように、頑張らないとね」

「はい!俺も、もっともっと料理を勉強して、いつかおし乃さんの力になれるように頑張ります!」

力強く宣言する良太の姿が、とても頼もしく見えた。
この子もまた、父が繋いでくれた縁なのかもしれない。
そう思うと、ますます愛おしさが募るのだった。

それから数日が過ぎた、穏やかな昼下がりのことだった。
店の前がにわかに騒がしくなり、何事かと顔を出すと、立派な駕籠がやわらぎ亭の前に停まるところだった。
駕籠から現れたのは、先日訪れた老婆様……ではなく、そのお付きの者と思われる、身なりの良い番頭風の男だった。

「ごめんください。こちら、やわらぎ亭の女将殿はおいでかな?」

「はい、私が主人のおし乃ですが……」

私が名乗ると、男は深々と頭を下げた。
その丁寧な物腰に、私は少し戸惑ってしまう。

「先日、うちの隠居様がお世話になりまして、誠にありがとうございました。わたくし、呉服問屋『越後屋』の番頭を務めます、佐平と申します」

「越後屋……!」

その名を聞いて、私は思わず息をのんだ。
越後屋といえば、日本橋に大きな店を構える、江戸でも五指に入る大店だ。
まさか、あの老婆様が、そこの大女将様だったとは。

「これは、隠居様からの心ばかりのお礼の品でございます。どうぞ、お納めください」

佐平と名乗る番頭がそう言うと、供の者たちが次々と荷物を店の中に運び込んできた。
大きな桐の箱に、ずっしりと重そうな米俵。
どれも、素人目にも最高級品だとわかるものばかりだった。

「こ、こんな立派なものをいただくわけにはまいりません!私は、当たり前のことをしたまででございます!」

慌てて断る私に、佐平は困ったように微笑んだ。

「そう仰らずに。隠居様は、長年の胸のつかえが下りて、それはそれはお喜びでございました。これは、隠居様の感謝の気持ち。どうか、受け取ってはいただけませんでしょうか」

その言葉には、有無を言わせぬ力があった。
私は、ただ呆然と、目の前に積まれていく品々を見つめることしかできなかった。

「では、私どもはこれで。また、隠居様も顔を出されると存じますので、その節はよしなにお願い申し上げます」

佐平は再び深々と頭を下げると、あっという間に駕籠に乗り込み、去っていってしまった。
後に残されたのは、山のような贈り物の数々と、私と良太の二人だけだった。

「お、おし乃さん……これ、どうするんですか……」

良太が、途方に暮れた顔で私を見つめる。
私も、同じ気持ちだった。
桐の箱を開けてみると、中には見事な鯛が一匹丸ごとと、きらきらと輝くような干し鮑が入っている。
米俵の米は、一粒一粒が艶やかで、見るからに極上の品だとわかった。

「……そうね。どうしましょうか」

私は腕を組み、うーん、と考え込んだ。
こんなに素晴らしい食材、私と良太の二人だけで食べてしまうのは、あまりにももったいない。
それに、越後屋の大女将様の温かいお気持ちを、無駄にはしたくなかった。

しばらく考えて、私はぽん、と手を打った。

「そうだわ。良太」

「はい!」

「この素晴らしい贈り物は、いつもお世話になっている皆さんに、お福分けしましょう。父が繋いでくれたご縁でいただいたものだもの。そのご縁を、もっとたくさんの人に広げるのが、きっと一番良い使い方よ」

私の提案に、良太の顔がぱっと明るくなった。

「それ、いいですね!きっと、みんな喜びますよ!」

「ええ、そうと決まれば早速準備をしないとね。今日は腕によりをかけて、皆さんに美味しいものをたくさんご馳走しましょう!」

「はい!」

私と良太は顔を見合わせて笑い合った。
やわらぎ亭の小さな炊き場が、にわかに活気づく。
父が残してくれた温かい縁が、また新たな喜びを生み出そうとしていた。
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