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「いえいえ、店じまいと言っても、まだ片付けが残っておりましたから。どうぞ、お入りくださいな。お茶でも淹れますわ」
私は宗太郎さんを店の中に招き入れた。
いつも身綺麗にしている彼が、今日は少し身なりに構っていられないような、そんな疲れた空気をまとっている。
「すまないね……。実は、少し、おし乃さんに相談したいことがあってね」
席に着いた宗太郎さんは、ぽつりとそう切り出した。
その声には張りがなく、眉間には深い皺が刻まれている。
「相談、ですか?」
「ああ。笑わないで聞いてくれると嬉しいんだが……」
宗太郎さんは、少し言い淀んだ後、観念したように口を開いた。
「このところ、どうにも食欲がなくてね。何を口にしても砂を噛むようで、身体も鉛のように重いんだ。薬種問屋の主人が、こんなことでは格好がつかないんだが……」
力なく笑うその顔は、本当に辛そうだった。
なるほど、深刻な病というわけではなさそうだけれど、真面目で責任感の強い宗太郎さんだからこそ、自分の不調を人一倍、重く感じてしまっているのだろう。
「薬なら、いくらでもあるんだ。滋養のつく生薬も、胃腸を整える薬も。でも、それを飲む気力すら湧いてこないというか……情けない話だ」
俯いてしまう宗太郎さんの姿に、私は胸がちくりと痛んだ。
彼はいつも、町の人のために真摯に薬と向き合っている。自分のことより、人のことを優先してしまう、そんな優しい人なのだ。
私は静かに立ち上がると、炊き場へと向かった。
「おし乃さん?」
不思議そうな顔をする宗太郎さんに、私はにっこりと微笑みかけた。
「薬で治すのも、もちろん大切ですわ。でも、その前に、少しだけお腹に優しいものを入れてみませんか?薬を飲むにも、まずは身体に受け入れる力がありませんとね」
「しかし、私は……」
「大丈夫です。ほんの少し、お付き合いくださいな。ちょうど、良い出汁が取れたところですので」
私はそう言うと、手早く準備に取り掛かった。
今日、鯛を捌いた時に取っておいた、極上の出汁。これを無駄にする手はない。
土鍋にその出汁を張り、昼間の残りのご飯を入れる。
火にかけて、ことことと煮立たせる間に、薬味の準備をする。刻んだ葱に、おろしたての生姜。それから、先日漬けたばかりの梅干しの果肉を、丁寧に叩いておく。
出汁の優しい香りが、店の中にふわりと広がっていく。
先ほどまで食欲がないと言っていた宗太郎さんが、その香りに誘われるように、くん、と鼻を鳴らしたのが分かった。
ご飯が柔らかく煮えたところで、溶き卵をそっと回し入れる。
火を止め、最後にほんの少しだけ薄口醤油で香りをつけたら、もう出来上がりだ。
「さあ、どうぞ。熱いうちに召し上がってくださいな」
私は、湯気の立つ土鍋ごと、宗太郎さんの前に置いた。
横には、葱と生姜、そして練り梅を添えて。
「……良い香りだ」
宗太郎さんが、ぽつりと呟いた。
その目には、先ほどまでの翳りはなく、目の前の雑炊にただ引きつけられているようだった。
「これは……鯛の出汁かい?」
「はい。今日、常連の皆さんにご馳走した鯛の、お裾分けです」
宗太郎さんは、ゆっくりと蓮華を手に取った。
そして、おずおずと、雑炊を一口、口に運ぶ。
一口、また一口と、宗太郎さんの口に雑炊が運ばれていく。
最初はぎこちなかったその動きが、だんだんと滑らかになっていく。
強張っていた肩の力が抜け、険しかった表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「……美味い」
しばらくして、顔を上げた宗太郎さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「身体中に、温かいものが染み渡っていくようだ……。不思議だな。あんなに重かった身体が、少し軽くなった気がする」
「よろしければ、薬味もどうぞ。生姜は身体を温めますし、梅干しは疲れを取ってくれますわ」
私の言葉に、宗太郎さんは頷き、今度は薬味を少しずつ加えながら食べ進めていく。
生姜の爽やかな辛味、梅のきりりとした酸味。
それらが、鯛の優しい出汁の味と合わさって、食欲をさらに刺激するのだろう。
あっという間に、土鍋は空になってしまった。
宗太郎さんは、名残惜しそうに鍋の底を見つめている。
「ふぅ……。ご馳走様。まさか、全部食べられるなんて思わなかったよ」
その顔色は、店に来た時とは比べ物にならないほど、晴れやかになっていた。
血色が戻り、目にも力が宿っている。
「おし乃さん、ありがとう。君の料理は、どんな名薬よりも効くな」
「まあ、大袈裟ですわ」
私はそう言って笑った。
「薬種問屋の主人が、町の人の健康を願うのは当たり前です。でも、時にはご自身のことも、同じくらい大切に労って差し上げてくださいな。宗太郎さんが元気でいてくださることが、この深川の町にとっては、何よりの薬なのですから」
私の言葉を、宗太郎さんはじっと聞いていた。
そして、深く、深く頷いた。
「……君の言う通りだ。私は少し、根を詰めすぎていたのかもしれない。自分の身体の声を聞くことを、忘れていたようだ」
宗太郎さんはすっくと立ち上がると、私に向かって深々と頭を下げた。
「おし乃さん、本当にありがとう。おかげで、目が覚めたよ。明日からまた、頑張れそうだ」
「はい。またいつでも、お腹が空いたらお立ち寄りくださいな」
晴れやかな笑顔を残して、宗太郎さんは帰っていった。
その後ろ姿は、来た時とは別人のように、力強く、頼もしいものだった。
「……おし乃さんの料理って、本当にすごいですね。なんだか、魔法みたいです」
一部始終を見ていた良太が、感嘆の声を漏らした。
「魔法なんかじゃないわ。ただの、飯屋の料理よ」
私はそう言って、微笑んだ。
「さあ、私たちもそろそろ休まないとね。明日も、美味しいご飯を作らないと」
父が教えてくれたこと。
料理は、人の身体を作るだけじゃない。人の心も、温めることができるのだと。
その言葉の意味を、今夜また一つ、深く理解できたような気がした。
やわらぎ亭の小さな灯りが、また一つ、疲れた心を優しく照らした夜だった。
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
昨夜の宗太郎さんのことがあったからか、今日は特に、身体に優しい朝餉を用意したい気分だったのだ。
越後屋から頂いた極上の米を炊き、豆腐と若布の味噌汁、それから出汁をたっぷり含ませた卵焼きを作る。
開店準備をしていると、店の戸ががらりと開いた。
こんな朝早くに誰だろうかと顔を上げると、そこに立っていたのは、桶屋の娘さんのお初ちゃんだった。
その手には、小さな桶を抱えている。
「おし乃ちゃーん!おはよう!」
元気いっぱいの声が、静かな朝の空気に響き渡る。
「まあ、お初ちゃん。おはよう。どうしたの、そんなに朝早くから」
「うん!あのね、父ちゃんが、新しい桶ができたから、一番におし乃ちゃんに見てほしいんだって!」
お初ちゃんはそう言って、抱えていた桶を私に差し出した。
それは、白木の香りが清々しい、見事な飯台だった。
木目が美しく、寸分の狂いもなく組まれたその作りは、まさしく職人の技だ。
「まあ、これは素晴らしい飯台だこと。お父上によろしくお伝えしてちょうだい。大切に使わせていただくわ」
「うん!父ちゃん、きっと喜ぶよ!」
お初ちゃんは、にぱっと笑った。
その屈託のない笑顔を見ていると、こちらまで元気が出てくる。
「そうだ、お初ちゃん。朝ご飯はもう食べた?もしよかったら、一緒にどうかしら」
「え、いいの!?」
「ええ、もちろん。今日は美味しい卵焼きが焼けたのよ」
「わーい!食べる食べる!」
お初ちゃんを席に座らせ、炊きたてのご飯と味噌汁、そして湯気の立つ卵焼きを膳に乗せて出してやる。
目をきらきらさせながら、小さな手で箸を握る姿が、何とも愛らしい。
「いただきます!」
元気な挨拶の後、お初ちゃんはまず、大好物の卵焼きをぱくりと頬張った。
途端に、その目が真ん丸になる。
「……おいしい!」
「ふふ、お口に合ったようで、よかったわ」
「うん!ふわふわで、お出汁の味がじゅわーってして、甘くて、すっごく美味しい!」
夢中になって卵焼きを頬張るお初ちゃん。
その食べっぷりの良さを見ているだけで、作ったこちらまで幸せな気持ちになる。
「おし乃ちゃんの作るご飯は、世界一美味しいね!」
子供らしい素直な褒め言葉に、私は思わず頬が緩んだ。
この子の笑顔を守るためにも、このやわらぎ亭を、ずっと続けていかなくては。
そんなことを考えていると、また店の戸が開き、今度は火消し組の弥之助さんがひょっこりと顔を出した。
私は宗太郎さんを店の中に招き入れた。
いつも身綺麗にしている彼が、今日は少し身なりに構っていられないような、そんな疲れた空気をまとっている。
「すまないね……。実は、少し、おし乃さんに相談したいことがあってね」
席に着いた宗太郎さんは、ぽつりとそう切り出した。
その声には張りがなく、眉間には深い皺が刻まれている。
「相談、ですか?」
「ああ。笑わないで聞いてくれると嬉しいんだが……」
宗太郎さんは、少し言い淀んだ後、観念したように口を開いた。
「このところ、どうにも食欲がなくてね。何を口にしても砂を噛むようで、身体も鉛のように重いんだ。薬種問屋の主人が、こんなことでは格好がつかないんだが……」
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なるほど、深刻な病というわけではなさそうだけれど、真面目で責任感の強い宗太郎さんだからこそ、自分の不調を人一倍、重く感じてしまっているのだろう。
「薬なら、いくらでもあるんだ。滋養のつく生薬も、胃腸を整える薬も。でも、それを飲む気力すら湧いてこないというか……情けない話だ」
俯いてしまう宗太郎さんの姿に、私は胸がちくりと痛んだ。
彼はいつも、町の人のために真摯に薬と向き合っている。自分のことより、人のことを優先してしまう、そんな優しい人なのだ。
私は静かに立ち上がると、炊き場へと向かった。
「おし乃さん?」
不思議そうな顔をする宗太郎さんに、私はにっこりと微笑みかけた。
「薬で治すのも、もちろん大切ですわ。でも、その前に、少しだけお腹に優しいものを入れてみませんか?薬を飲むにも、まずは身体に受け入れる力がありませんとね」
「しかし、私は……」
「大丈夫です。ほんの少し、お付き合いくださいな。ちょうど、良い出汁が取れたところですので」
私はそう言うと、手早く準備に取り掛かった。
今日、鯛を捌いた時に取っておいた、極上の出汁。これを無駄にする手はない。
土鍋にその出汁を張り、昼間の残りのご飯を入れる。
火にかけて、ことことと煮立たせる間に、薬味の準備をする。刻んだ葱に、おろしたての生姜。それから、先日漬けたばかりの梅干しの果肉を、丁寧に叩いておく。
出汁の優しい香りが、店の中にふわりと広がっていく。
先ほどまで食欲がないと言っていた宗太郎さんが、その香りに誘われるように、くん、と鼻を鳴らしたのが分かった。
ご飯が柔らかく煮えたところで、溶き卵をそっと回し入れる。
火を止め、最後にほんの少しだけ薄口醤油で香りをつけたら、もう出来上がりだ。
「さあ、どうぞ。熱いうちに召し上がってくださいな」
私は、湯気の立つ土鍋ごと、宗太郎さんの前に置いた。
横には、葱と生姜、そして練り梅を添えて。
「……良い香りだ」
宗太郎さんが、ぽつりと呟いた。
その目には、先ほどまでの翳りはなく、目の前の雑炊にただ引きつけられているようだった。
「これは……鯛の出汁かい?」
「はい。今日、常連の皆さんにご馳走した鯛の、お裾分けです」
宗太郎さんは、ゆっくりと蓮華を手に取った。
そして、おずおずと、雑炊を一口、口に運ぶ。
一口、また一口と、宗太郎さんの口に雑炊が運ばれていく。
最初はぎこちなかったその動きが、だんだんと滑らかになっていく。
強張っていた肩の力が抜け、険しかった表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「……美味い」
しばらくして、顔を上げた宗太郎さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「身体中に、温かいものが染み渡っていくようだ……。不思議だな。あんなに重かった身体が、少し軽くなった気がする」
「よろしければ、薬味もどうぞ。生姜は身体を温めますし、梅干しは疲れを取ってくれますわ」
私の言葉に、宗太郎さんは頷き、今度は薬味を少しずつ加えながら食べ進めていく。
生姜の爽やかな辛味、梅のきりりとした酸味。
それらが、鯛の優しい出汁の味と合わさって、食欲をさらに刺激するのだろう。
あっという間に、土鍋は空になってしまった。
宗太郎さんは、名残惜しそうに鍋の底を見つめている。
「ふぅ……。ご馳走様。まさか、全部食べられるなんて思わなかったよ」
その顔色は、店に来た時とは比べ物にならないほど、晴れやかになっていた。
血色が戻り、目にも力が宿っている。
「おし乃さん、ありがとう。君の料理は、どんな名薬よりも効くな」
「まあ、大袈裟ですわ」
私はそう言って笑った。
「薬種問屋の主人が、町の人の健康を願うのは当たり前です。でも、時にはご自身のことも、同じくらい大切に労って差し上げてくださいな。宗太郎さんが元気でいてくださることが、この深川の町にとっては、何よりの薬なのですから」
私の言葉を、宗太郎さんはじっと聞いていた。
そして、深く、深く頷いた。
「……君の言う通りだ。私は少し、根を詰めすぎていたのかもしれない。自分の身体の声を聞くことを、忘れていたようだ」
宗太郎さんはすっくと立ち上がると、私に向かって深々と頭を下げた。
「おし乃さん、本当にありがとう。おかげで、目が覚めたよ。明日からまた、頑張れそうだ」
「はい。またいつでも、お腹が空いたらお立ち寄りくださいな」
晴れやかな笑顔を残して、宗太郎さんは帰っていった。
その後ろ姿は、来た時とは別人のように、力強く、頼もしいものだった。
「……おし乃さんの料理って、本当にすごいですね。なんだか、魔法みたいです」
一部始終を見ていた良太が、感嘆の声を漏らした。
「魔法なんかじゃないわ。ただの、飯屋の料理よ」
私はそう言って、微笑んだ。
「さあ、私たちもそろそろ休まないとね。明日も、美味しいご飯を作らないと」
父が教えてくれたこと。
料理は、人の身体を作るだけじゃない。人の心も、温めることができるのだと。
その言葉の意味を、今夜また一つ、深く理解できたような気がした。
やわらぎ亭の小さな灯りが、また一つ、疲れた心を優しく照らした夜だった。
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
昨夜の宗太郎さんのことがあったからか、今日は特に、身体に優しい朝餉を用意したい気分だったのだ。
越後屋から頂いた極上の米を炊き、豆腐と若布の味噌汁、それから出汁をたっぷり含ませた卵焼きを作る。
開店準備をしていると、店の戸ががらりと開いた。
こんな朝早くに誰だろうかと顔を上げると、そこに立っていたのは、桶屋の娘さんのお初ちゃんだった。
その手には、小さな桶を抱えている。
「おし乃ちゃーん!おはよう!」
元気いっぱいの声が、静かな朝の空気に響き渡る。
「まあ、お初ちゃん。おはよう。どうしたの、そんなに朝早くから」
「うん!あのね、父ちゃんが、新しい桶ができたから、一番におし乃ちゃんに見てほしいんだって!」
お初ちゃんはそう言って、抱えていた桶を私に差し出した。
それは、白木の香りが清々しい、見事な飯台だった。
木目が美しく、寸分の狂いもなく組まれたその作りは、まさしく職人の技だ。
「まあ、これは素晴らしい飯台だこと。お父上によろしくお伝えしてちょうだい。大切に使わせていただくわ」
「うん!父ちゃん、きっと喜ぶよ!」
お初ちゃんは、にぱっと笑った。
その屈託のない笑顔を見ていると、こちらまで元気が出てくる。
「そうだ、お初ちゃん。朝ご飯はもう食べた?もしよかったら、一緒にどうかしら」
「え、いいの!?」
「ええ、もちろん。今日は美味しい卵焼きが焼けたのよ」
「わーい!食べる食べる!」
お初ちゃんを席に座らせ、炊きたてのご飯と味噌汁、そして湯気の立つ卵焼きを膳に乗せて出してやる。
目をきらきらさせながら、小さな手で箸を握る姿が、何とも愛らしい。
「いただきます!」
元気な挨拶の後、お初ちゃんはまず、大好物の卵焼きをぱくりと頬張った。
途端に、その目が真ん丸になる。
「……おいしい!」
「ふふ、お口に合ったようで、よかったわ」
「うん!ふわふわで、お出汁の味がじゅわーってして、甘くて、すっごく美味しい!」
夢中になって卵焼きを頬張るお初ちゃん。
その食べっぷりの良さを見ているだけで、作ったこちらまで幸せな気持ちになる。
「おし乃ちゃんの作るご飯は、世界一美味しいね!」
子供らしい素直な褒め言葉に、私は思わず頬が緩んだ。
この子の笑顔を守るためにも、このやわらぎ亭を、ずっと続けていかなくては。
そんなことを考えていると、また店の戸が開き、今度は火消し組の弥之助さんがひょっこりと顔を出した。
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