【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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「さあどうぞ、中へ。旅の疲れもございましょう。何か温かいものでも、ご用意いたしますわ」 

私は榊原誠一郎と名乗る実直そうな侍を、店の中へと招き入れた。
夜更けのやわらぎ亭は、しんと静まり返っている。
囲炉裏の火だけがぱちぱちと穏やかな音を立てていた。

「かたじけない。だがお構いなく。拙者は若様からの言伝を届けたまで。長居は無用でござる」 

榊原誠一郎は固辞しようとする。
けれど、その顔には長旅の疲れが色濃く浮かんでいた。

「まあそう仰らずに。若様がご縁を繋いでくださったのですもの。それに、あなた様のような忠義に厚い方がいらっしゃるからこそ若様も水戸の地で、心穏やかにお過ごしになれるのでしょう。ささやかですが私からの感謝の気持ちですわ」 

私はにっこりと微笑みかけると、有無を言わさず彼を席に着かせた。
良太がさっと温かいお茶を差し出す。
その手際の良さに、榊原誠一郎は少し驚いたように目を丸くした。

「……では、お言葉に甘えさせていただく」 

観念したように彼は小さく頷いた。
私は炊き場に立つと、さて何を作ろうかと考えた。
遠路はるばる江戸までやって来た侍。
きっと、お腹も空いているだろう。
そして何よりも、冷えた身体を温めて差し上げたい。

そうだ、今夜の賄いで食べようと思っていたあれがある。
私は土鍋に残っていた玉響の塩むすびを、そっと取り出した。
そしてその塩むすびを網の上に乗せ、囲炉裏の炭火でじっくりと炙り始めた。

醤油を刷毛で塗りながら何度も裏返す。
じゅう、という香ばしい音と共に醤油の焦げる、たまらなく良い匂いが立ち上ってきた。
表面はかりっと、中はふっくらと。
最高の焼きおにぎりだ。

それから熱い一番出汁を、椀に張る。
薬味には刻み葱と、山葵を少々。
焼きおにぎりをその椀の中に入れ、熱い出汁をそっと注ぎかける。

「さあどうぞ。夜食に、焼きおにぎり茶漬けはいかがですかな」 

「これは……」 

榊原誠一郎は目の前に置かれた一膳を、驚いたように見つめている。

「ただの焼きおにぎりではござらぬな。米の一粒一粒が、光り輝いておる……」 

「ええ。先日甲州屋のご主人から頂いた、玉響というお米ですの」 

「なんと……! これが噂に聞く幻の米、玉響……!」 

榊原誠一郎は息をのんだ。
どうやら彼も、この米の噂を耳にしていたらしい。

「さあ冷めないうちに。まずは、そのまま一口どうぞ」 

促されるままに彼は、焼きおにぎりを一口口に運んだ。
その瞬間彼の動きが、ぴたりと止まる。
そしてその実直な顔が、驚きと感動にゆっくりと変わっていった。

「……なんという、米だ……」 

ぽつりとそんな言葉が漏れた。

「香ばしい醤油の風味の奥から米そのものの、力強い甘みと旨味がぐっと押し寄せてくる……。そしてこの食感。外はかりっとしているのに、中は驚くほどもっちりとしておる……。このような美味い焼きおにぎりは、生まれて初めてでござる……!」 

「ふふありがとうございます。では今度は、この出汁をかけて召し上がってみてくださいな」 

榊原誠一郎はこくりと頷くと、今度はお茶漬けにしてさらさらと口に運んでいく。

「……おお……!」 

その目が見開かれ、箸の動きがさらに速くなる。

「出汁をかけるとまた味わいが変わる……! 米の甘みが出汁の旨味と溶け合い、さらに深みを増しておる……! そしてこの山葵の風味が、全体の味をきりりと引き締め後味を爽やかにしてくれる……。これは……これは、まさに至福の一杯でござる……!」 

夢中になってお茶漬けをかき込むその姿はいかめしい侍ではなく、まるで腹を空かせた一人の青年のようだった。
あっという間に、椀は空になった。

「ふぅ……。ご馳走になった。まことに……まことに、美味であった……」 

榊原誠一郎は満足そうに息をつき、その顔には店に来た時とは比べ物にならないほど、穏やかな表情が浮かんでいた。
長旅の疲れもどこかへ吹き飛んでしまったようだ。

「お粗末さまでした。お口に合いましたようで、ようございました」 

「おし乃殿。拙者は今宵あなたの料理をいただき、若様がなぜあれほどまでに、このやわらぎ亭のことを懐かしがっておられたのか、ようやく分かった気がいたします。あなたの料理には……人の心を解きほぐし、そして温める力がござるな」 

「もったいないお言葉でございます」 

私は少し照れながら、そう答えた。

「では拙者はこれで失礼つかまつる。夜更けにまことに世話になった。このご恩、決して忘れませぬ」 

榊原誠一郎は深々と頭を下げると、晴れやかな顔で店を後にした。
その背中は来た時よりもずっと軽く、そして力強く見えた。

「……行かれましたね」 

良太がしみじみと呟く。

「ええ。……さあ良太。私たちも、本当に店じまいをしましょうか」 

私は若様から預かった書状を、そっと胸に抱いた。
中身はまだ見ていない。一人になってから静かな気持ちで、ゆっくりと読みたいと思ったからだ。

全ての片付けを終え良太も帰った後、私は一人店の奥の居間に座っていた。
目の前には若様からの書状。私は深呼吸を一つすると、その封を切った。

そこには若様らしい力強く、そして美しい筆跡で、近況を知らせる言葉と私への感謝の気持ちが綴られていた。
水戸での暮らしが充実していること。
家臣たちからの信頼も少しずつ得られるようになってきたこと。
そしてそれもこれもやわらぎ亭で過ごした日々があったからだと、何度もそう書かれていた。
その温かい言葉の数々に私の目頭は、自然と熱くなった。

私は書状をそっと折り畳んだ。
若様が水戸の地で元気に、そして前を向いて歩んでおられる。そのことが、何よりも嬉しかった。
江戸の片隅から、彼の未来が輝かしいものであるよう、心から祈った。

やわらぎ亭の日常は何も変わらない。けれど私の心の中には、また一つ温かい光が灯っていた。
その光を絶やすことなく守り続けていこう。
そんな思いを胸に私は、今日もまた心を込めて、竈に火を入れるのだった。
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