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若様からの温かい便りが、私の心に新たな光を灯してくれた。水戸の地で彼が立派に成長されていることを知り、私もまた、この江戸の片隅で自分の道をしっかりと歩んでいかねばと、決意を新たにした。
やわらぎ亭の日常は何も変わらない。けれど私の心の中には、また一つ温かい光が灯っていた。その光を絶やすことなく守り続けていこう。そんな思いを胸に私は、今日もまた心を込めて、竈に火を入れるのだった。
そんなある晴れた日の昼下がり。店の戸が、からりと開いた。
「ごめんください」
入ってきたのは、一人の旅の僧侶だった。年の頃は四十代半ばだろうか。日に焼けた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。しかしその目の奥には、深い知性とそしてどこか寂しげな色が宿っているように見えた。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
私は僧侶を席へ案内した。彼は深々と一礼すると、静かに腰を下ろした。
「何か召し上がりますか? あいにく肉や魚を使ったものはございませんが、野菜だけの精進の献立でしたらご用意できますが」
「うむ。それがありがたい。実は見ての通り、拙僧は諸国を旅する身。このところどうにも旅の疲れが溜まっておってな。胃に優しい温かいものが、腹に入れたいと思っておったのじゃ」
「かしこまりました。ではすぐに、ご用意いたしますわ」
私は炊き場に戻ると、何を作ろうかと考えた。旅の疲れを癒し、そして心を穏やかにしてくれるような、そんな一品。そうだ、あれにしよう。
私は棚から、干し椎茸と高野豆腐を取り出した。どちらも乾物ではあるが、丁寧に戻せば生の食材にも負けない滋味深い味わいになる。
干し椎茸はぬるま湯で、時間をかけてゆっくりと戻す。その戻し汁は極上の出汁になるので一滴たりとも無駄にはしない。高野豆腐もたっぷりの水に浸し、ふっくらと柔らかくしておく。
鍋に椎茸の戻し汁と、昆布出汁を合わせ火にかける。そこに戻した椎茸と、水気を絞った高野豆腐、そして彩りに人参と隠元を加える。味付けは薄口醤油と、みりん、そしてほんの少しの塩だけ。素材の持つ優しい甘みと旨味を、最大限に引き出すように。
ことことと、弱火で煮含めていく。煮汁がじっくりと、高野豆腐の中に染み込んでいく。部屋中に、出汁と椎茸の何とも言えない良い香りがふわりと広がった。
炊きたてのご飯と大根の味噌汁、そして自家製の白菜漬けを添えて。やわらぎ亭特製、「高野豆腐の含め煮定食」の完成だ。
「お待たせいたしました。どうぞごゆっくりと」
僧侶の前に、膳を置く。彼は目の前の素朴な料理を、じっと見つめている。
「……ほう。これはまた……」
その口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「見た目にも美しく、そして心が洗われるような良い香りじゃな」
彼は静かに手を合わせると、まずは味噌汁を一口。
「……ふぅ。身体に染み渡るようだ……」
次に高野豆腐の含め煮を、ゆっくりと口に運ぶ。その瞬間彼の目が、わずかに見開かれた。
「……!」
彼は何も言わない。ただ目を閉じ、その味をじっくりと噛み締めているかのようだ。やがてその目尻から、一筋の涙がすうっとこぼれ落ちた。
「……この味は……」
それは心の底から絞り出すような、か細い声だった。
「……母の、味だ……」
その言葉に、私ははっとした。
「拙僧がまだ幼かった頃……。病弱だった母がよく、この高野豆腐の含め煮を作ってくれた。甘くて優しくて……拙僧は、この煮物が何よりも大好きであった……」
僧侶は遠い昔を懐かしむように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「母は拙僧が、まだ十にもならぬうちにこの世を去った。以来拙僧は、仏の道に入り諸国を巡ってきたが……。この年になるまで一度たりとも、母の味を忘れたことはなかった。……そしてまさか、このような場所で再び母の味に出会えるとは……夢にも思わなんだ……」
彼は手にした数珠を、ぎゅっと握りしめた。その目からは大粒の涙が、あとからあとから溢れ出してくる。私はかける言葉も見つからず、ただ黙ってその姿を見守っていた。料理が人の遠い記憶を呼び覚まし、そして心をこれほどまでに揺さぶることがあるのだと。私は改めて、料理の持つ力を感じていた。
やがて僧侶は涙を拭うと、私に向かって深々と頭を下げた。
「おし乃殿……。いや女将殿。……本当にありがとうござった。拙僧は今日、この一杯の煮物をいただき長年の心のつかえが、ようやく取れたような心地がいたします。これでまた、明日から前を向いて歩いていけそうです」
「……とんでもないことでございます。こちらこそそのような、大切なお話を聞かせていただき……。私の料理が少しでもお役に立てたのでしたら、料理人としてこれ以上の幸せはございません」
「ふふ……。あなたは本当に、素晴らしい料理人じゃな。きっとこれからも、たくさんの人の心をその料理で救っていくことだろう」
僧侶は晴れやかな顔で、そう言った。その顔にはもう寂しさの色はなかった。あるのは母への感謝と、そして明日への希望の光だけだった。
食事を終えた僧侶は名残を惜しむように、もう一度店の中を見回すと静かに立ち上がった。
「さてと。拙僧はそろそろ、行くとしようかのう。まだ旅の途中じゃて」
「そうですか。……ではこれを、お持ちになってくださいな」
私は炊き場から、小さな包みを持ってきた。中には塩むすびが二つ、入っている。
「道中お腹が空くこともあるでしょう。ほんのお夜食ですわ」
「なんと……。何から何までかたじけない……」
僧侶は恐縮しながらも、その包みを大切そうに受け取った。
「ではおし乃殿。またいつか、どこかで。達者でな」
「はい。道中お気をつけて」
僧侶はにこりと微笑むと、杖を頼りにゆっくりと店を後にした。その後ろ姿は来た時よりも、ずっと軽やかに見えた。私はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
人の一生は旅のようなものだ、と誰かが言っていた。長い旅の途中、時には疲れ、立ち止まりたくなることもあるだろう。そんな時このやわらぎ亭が、旅人にとってのささやかな、止まり木のような場所になれたなら。温かい一膳の飯でほんの少しでも、その疲れを癒し、また明日へと歩き出すための力を与えることができたなら。それこそが私の、そしてこのやわらぎ亭の、役目なのかもしれない。
そんなことを思いながら私は、ふぅと一つ、温かい息を吐いた。空にはいつの間にか、美しい夕焼けが広がっていた。
やわらぎ亭の日常は何も変わらない。けれど私の心の中には、また一つ温かい光が灯っていた。その光を絶やすことなく守り続けていこう。そんな思いを胸に私は、今日もまた心を込めて、竈に火を入れるのだった。
そんなある晴れた日の昼下がり。店の戸が、からりと開いた。
「ごめんください」
入ってきたのは、一人の旅の僧侶だった。年の頃は四十代半ばだろうか。日に焼けた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。しかしその目の奥には、深い知性とそしてどこか寂しげな色が宿っているように見えた。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
私は僧侶を席へ案内した。彼は深々と一礼すると、静かに腰を下ろした。
「何か召し上がりますか? あいにく肉や魚を使ったものはございませんが、野菜だけの精進の献立でしたらご用意できますが」
「うむ。それがありがたい。実は見ての通り、拙僧は諸国を旅する身。このところどうにも旅の疲れが溜まっておってな。胃に優しい温かいものが、腹に入れたいと思っておったのじゃ」
「かしこまりました。ではすぐに、ご用意いたしますわ」
私は炊き場に戻ると、何を作ろうかと考えた。旅の疲れを癒し、そして心を穏やかにしてくれるような、そんな一品。そうだ、あれにしよう。
私は棚から、干し椎茸と高野豆腐を取り出した。どちらも乾物ではあるが、丁寧に戻せば生の食材にも負けない滋味深い味わいになる。
干し椎茸はぬるま湯で、時間をかけてゆっくりと戻す。その戻し汁は極上の出汁になるので一滴たりとも無駄にはしない。高野豆腐もたっぷりの水に浸し、ふっくらと柔らかくしておく。
鍋に椎茸の戻し汁と、昆布出汁を合わせ火にかける。そこに戻した椎茸と、水気を絞った高野豆腐、そして彩りに人参と隠元を加える。味付けは薄口醤油と、みりん、そしてほんの少しの塩だけ。素材の持つ優しい甘みと旨味を、最大限に引き出すように。
ことことと、弱火で煮含めていく。煮汁がじっくりと、高野豆腐の中に染み込んでいく。部屋中に、出汁と椎茸の何とも言えない良い香りがふわりと広がった。
炊きたてのご飯と大根の味噌汁、そして自家製の白菜漬けを添えて。やわらぎ亭特製、「高野豆腐の含め煮定食」の完成だ。
「お待たせいたしました。どうぞごゆっくりと」
僧侶の前に、膳を置く。彼は目の前の素朴な料理を、じっと見つめている。
「……ほう。これはまた……」
その口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「見た目にも美しく、そして心が洗われるような良い香りじゃな」
彼は静かに手を合わせると、まずは味噌汁を一口。
「……ふぅ。身体に染み渡るようだ……」
次に高野豆腐の含め煮を、ゆっくりと口に運ぶ。その瞬間彼の目が、わずかに見開かれた。
「……!」
彼は何も言わない。ただ目を閉じ、その味をじっくりと噛み締めているかのようだ。やがてその目尻から、一筋の涙がすうっとこぼれ落ちた。
「……この味は……」
それは心の底から絞り出すような、か細い声だった。
「……母の、味だ……」
その言葉に、私ははっとした。
「拙僧がまだ幼かった頃……。病弱だった母がよく、この高野豆腐の含め煮を作ってくれた。甘くて優しくて……拙僧は、この煮物が何よりも大好きであった……」
僧侶は遠い昔を懐かしむように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「母は拙僧が、まだ十にもならぬうちにこの世を去った。以来拙僧は、仏の道に入り諸国を巡ってきたが……。この年になるまで一度たりとも、母の味を忘れたことはなかった。……そしてまさか、このような場所で再び母の味に出会えるとは……夢にも思わなんだ……」
彼は手にした数珠を、ぎゅっと握りしめた。その目からは大粒の涙が、あとからあとから溢れ出してくる。私はかける言葉も見つからず、ただ黙ってその姿を見守っていた。料理が人の遠い記憶を呼び覚まし、そして心をこれほどまでに揺さぶることがあるのだと。私は改めて、料理の持つ力を感じていた。
やがて僧侶は涙を拭うと、私に向かって深々と頭を下げた。
「おし乃殿……。いや女将殿。……本当にありがとうござった。拙僧は今日、この一杯の煮物をいただき長年の心のつかえが、ようやく取れたような心地がいたします。これでまた、明日から前を向いて歩いていけそうです」
「……とんでもないことでございます。こちらこそそのような、大切なお話を聞かせていただき……。私の料理が少しでもお役に立てたのでしたら、料理人としてこれ以上の幸せはございません」
「ふふ……。あなたは本当に、素晴らしい料理人じゃな。きっとこれからも、たくさんの人の心をその料理で救っていくことだろう」
僧侶は晴れやかな顔で、そう言った。その顔にはもう寂しさの色はなかった。あるのは母への感謝と、そして明日への希望の光だけだった。
食事を終えた僧侶は名残を惜しむように、もう一度店の中を見回すと静かに立ち上がった。
「さてと。拙僧はそろそろ、行くとしようかのう。まだ旅の途中じゃて」
「そうですか。……ではこれを、お持ちになってくださいな」
私は炊き場から、小さな包みを持ってきた。中には塩むすびが二つ、入っている。
「道中お腹が空くこともあるでしょう。ほんのお夜食ですわ」
「なんと……。何から何までかたじけない……」
僧侶は恐縮しながらも、その包みを大切そうに受け取った。
「ではおし乃殿。またいつか、どこかで。達者でな」
「はい。道中お気をつけて」
僧侶はにこりと微笑むと、杖を頼りにゆっくりと店を後にした。その後ろ姿は来た時よりも、ずっと軽やかに見えた。私はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
人の一生は旅のようなものだ、と誰かが言っていた。長い旅の途中、時には疲れ、立ち止まりたくなることもあるだろう。そんな時このやわらぎ亭が、旅人にとってのささやかな、止まり木のような場所になれたなら。温かい一膳の飯でほんの少しでも、その疲れを癒し、また明日へと歩き出すための力を与えることができたなら。それこそが私の、そしてこのやわらぎ亭の、役目なのかもしれない。
そんなことを思いながら私は、ふぅと一つ、温かい息を吐いた。空にはいつの間にか、美しい夕焼けが広がっていた。
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