【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

文字の大きさ
53 / 100

53

若様からの温かい便りが、私の心に新たな光を灯してくれた。水戸の地で彼が立派に成長されていることを知り、私もまた、この江戸の片隅で自分の道をしっかりと歩んでいかねばと、決意を新たにした。

やわらぎ亭の日常は何も変わらない。けれど私の心の中には、また一つ温かい光が灯っていた。その光を絶やすことなく守り続けていこう。そんな思いを胸に私は、今日もまた心を込めて、竈に火を入れるのだった。

そんなある晴れた日の昼下がり。店の戸が、からりと開いた。

「ごめんください」

入ってきたのは、一人の旅の僧侶だった。年の頃は四十代半ばだろうか。日に焼けた顔に、穏やかな笑みを浮かべている。しかしその目の奥には、深い知性とそしてどこか寂しげな色が宿っているように見えた。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」

私は僧侶を席へ案内した。彼は深々と一礼すると、静かに腰を下ろした。

「何か召し上がりますか? あいにく肉や魚を使ったものはございませんが、野菜だけの精進の献立でしたらご用意できますが」

「うむ。それがありがたい。実は見ての通り、拙僧は諸国を旅する身。このところどうにも旅の疲れが溜まっておってな。胃に優しい温かいものが、腹に入れたいと思っておったのじゃ」

「かしこまりました。ではすぐに、ご用意いたしますわ」

私は炊き場に戻ると、何を作ろうかと考えた。旅の疲れを癒し、そして心を穏やかにしてくれるような、そんな一品。そうだ、あれにしよう。

私は棚から、干し椎茸と高野豆腐を取り出した。どちらも乾物ではあるが、丁寧に戻せば生の食材にも負けない滋味深い味わいになる。

干し椎茸はぬるま湯で、時間をかけてゆっくりと戻す。その戻し汁は極上の出汁になるので一滴たりとも無駄にはしない。高野豆腐もたっぷりの水に浸し、ふっくらと柔らかくしておく。

鍋に椎茸の戻し汁と、昆布出汁を合わせ火にかける。そこに戻した椎茸と、水気を絞った高野豆腐、そして彩りに人参と隠元を加える。味付けは薄口醤油と、みりん、そしてほんの少しの塩だけ。素材の持つ優しい甘みと旨味を、最大限に引き出すように。

ことことと、弱火で煮含めていく。煮汁がじっくりと、高野豆腐の中に染み込んでいく。部屋中に、出汁と椎茸の何とも言えない良い香りがふわりと広がった。

炊きたてのご飯と大根の味噌汁、そして自家製の白菜漬けを添えて。やわらぎ亭特製、「高野豆腐の含め煮定食」の完成だ。

「お待たせいたしました。どうぞごゆっくりと」

僧侶の前に、膳を置く。彼は目の前の素朴な料理を、じっと見つめている。

「……ほう。これはまた……」

その口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。

「見た目にも美しく、そして心が洗われるような良い香りじゃな」

彼は静かに手を合わせると、まずは味噌汁を一口。

「……ふぅ。身体に染み渡るようだ……」

次に高野豆腐の含め煮を、ゆっくりと口に運ぶ。その瞬間彼の目が、わずかに見開かれた。

「……!」

彼は何も言わない。ただ目を閉じ、その味をじっくりと噛み締めているかのようだ。やがてその目尻から、一筋の涙がすうっとこぼれ落ちた。

「……この味は……」

それは心の底から絞り出すような、か細い声だった。

「……母の、味だ……」

その言葉に、私ははっとした。

「拙僧がまだ幼かった頃……。病弱だった母がよく、この高野豆腐の含め煮を作ってくれた。甘くて優しくて……拙僧は、この煮物が何よりも大好きであった……」

僧侶は遠い昔を懐かしむように、ぽつりぽつりと語り始めた。

「母は拙僧が、まだ十にもならぬうちにこの世を去った。以来拙僧は、仏の道に入り諸国を巡ってきたが……。この年になるまで一度たりとも、母の味を忘れたことはなかった。……そしてまさか、このような場所で再び母の味に出会えるとは……夢にも思わなんだ……」

彼は手にした数珠を、ぎゅっと握りしめた。その目からは大粒の涙が、あとからあとから溢れ出してくる。私はかける言葉も見つからず、ただ黙ってその姿を見守っていた。料理が人の遠い記憶を呼び覚まし、そして心をこれほどまでに揺さぶることがあるのだと。私は改めて、料理の持つ力を感じていた。

やがて僧侶は涙を拭うと、私に向かって深々と頭を下げた。

「おし乃殿……。いや女将殿。……本当にありがとうござった。拙僧は今日、この一杯の煮物をいただき長年の心のつかえが、ようやく取れたような心地がいたします。これでまた、明日から前を向いて歩いていけそうです」

「……とんでもないことでございます。こちらこそそのような、大切なお話を聞かせていただき……。私の料理が少しでもお役に立てたのでしたら、料理人としてこれ以上の幸せはございません」

「ふふ……。あなたは本当に、素晴らしい料理人じゃな。きっとこれからも、たくさんの人の心をその料理で救っていくことだろう」

僧侶は晴れやかな顔で、そう言った。その顔にはもう寂しさの色はなかった。あるのは母への感謝と、そして明日への希望の光だけだった。

食事を終えた僧侶は名残を惜しむように、もう一度店の中を見回すと静かに立ち上がった。

「さてと。拙僧はそろそろ、行くとしようかのう。まだ旅の途中じゃて」

「そうですか。……ではこれを、お持ちになってくださいな」

私は炊き場から、小さな包みを持ってきた。中には塩むすびが二つ、入っている。

「道中お腹が空くこともあるでしょう。ほんのお夜食ですわ」

「なんと……。何から何までかたじけない……」

僧侶は恐縮しながらも、その包みを大切そうに受け取った。

「ではおし乃殿。またいつか、どこかで。達者でな」

「はい。道中お気をつけて」

僧侶はにこりと微笑むと、杖を頼りにゆっくりと店を後にした。その後ろ姿は来た時よりも、ずっと軽やかに見えた。私はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

人の一生は旅のようなものだ、と誰かが言っていた。長い旅の途中、時には疲れ、立ち止まりたくなることもあるだろう。そんな時このやわらぎ亭が、旅人にとってのささやかな、止まり木のような場所になれたなら。温かい一膳の飯でほんの少しでも、その疲れを癒し、また明日へと歩き出すための力を与えることができたなら。それこそが私の、そしてこのやわらぎ亭の、役目なのかもしれない。

そんなことを思いながら私は、ふぅと一つ、温かい息を吐いた。空にはいつの間にか、美しい夕焼けが広がっていた。
感想 8

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?