【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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秋風が肌に心地よい季節となり、やわらぎ亭の炊き場にも松茸や栗といった秋の味覚が並ぶようになった。店の壁に飾られた一筆斎文吾の浮世絵も、すっかりこの店の顔として馴染んでいる。絵の中で笑う常連たちの顔ぶれは、今日も変わらずこの場所に集い、温かい湯気の中で賑やかな笑い声を響かせていた。

そんな穏やかな日々が続くある日のこと。私は店の大掃除の最中に、父が遺した古い料理帳を手に取っていた。父が武家屋敷の料理人だった頃から書き溜めた覚書だ。懐かしい父の気配がする頁を一枚ずつ丁寧にめくっていると、私の指がある頁でぴたりと止まった。

そこには「鴨鍋」という文字と、走り書きのような父の言葉が記されていた。

『最高の鴨には、最高の葱を。その出会いこそが肝要なり』

それだけだった。詳しい調理法も、味付けも書かれていない。けれど、その謎めいた一文は私の料理人としての心を強く惹きつけた。最高の鴨と、最高の葱の出会い。父が追い求めたその味を、私もこの手で探求してみたい。

「良太、少し付き合ってもらえるかしら。父の宿題をね」

「はい、おし乃さん!」

その日から、私と良太の最高の鴨鍋探しの旅が始まった。鴨肉は、懇意にしている猟師から特別に分けてもらった、天然の真鴨。脂が乗り、身は引き締まっていて、これ以上のものはないだろう。問題は、葱だ。

「葱といえば、千住葱が江戸一番と聞きますが」

良太の言う通り、まずは千住の葱畑を訪ねてみることにした。畑の主である頑固そうな老人に頭を下げ、自慢の葱を分けてもらう。白根は太く、甘みも強い。確かに素晴らしい葱だ。

早速店に戻り、その葱で鴨鍋を試作してみる。鴨の脂の甘みと、千住葱の力強い甘み。悪くはない。悪くはないが、何かが違う。父が求めた「出会い」には、まだほど遠い気がした。鴨と葱、それぞれが己の味を主張しすぎて、どこか一体感に欠けるのだ。

「もっと、鴨の味を引き立てるような……それでいて、鴨の力強さに負けないような葱はないものかしら」

それからというもの、私と良太は江戸中の葱を探し歩いた。下仁田葱、岩槻葱、深谷葱。どれも素晴らしい葱だったが、私の心を完全に満たすものは見つからない。

季節はいつしか冬へと移り変わろうとしていた。焦る気持ちを抑えながら、私は父の料理帳を何度も読み返した。何かヒントが隠されているのではないか。

そんなある日、ふと料理帳の隅に、小さく描かれた絵が目に留まった。それは一本の葱の絵だったのだが、その根元が奇妙な形をしていた。まるで、土の中で一度折れ曲がり、そこから再び天に向かって伸びているかのような。

「……これは……」

私ははっとして、八百屋の忠吉さんの元へ駆け込んだ。

「忠吉さん。こういう形の葱を、ご存知ないかしら」

私が描いてみせた拙い絵を見て、忠吉さんはううむ、と首を捻った。

「こんなひん曲がった葱かい? こいつは売り物にはならねえなあ。……だが、そういや聞いたことがあるぜ。確か、砂村のあたりで、わざと葱を一度土に寝かせてから育てるっていう、変わった作り方をしてる農家がいるってな。そうすると、葱の甘みと香りが格段に増すんだとか」

砂村の、曲がり葱。これだ。
私と良太は、藁にもすがる思いで砂村へと向かった。そして、ようやく探し当てた畑で、私たちは信じられないような光景を目にした。

そこには、父の料理帳に描かれていたのと同じ、美しい弧を描いた葱が、ずらりと並んでいたのだ。

畑の主である、日に焼けた実直そうな農家の男は、その葱を「やとい」と呼んだ。一度土から抜き、斜めに寝かせて再び土をかけることで、葱自身の力で起き上がろうとする。その生命力が、他に類を見ないほどの甘みと柔らかさ、そして豊かな香りを生み出すのだという。

「……父様……」

私は、天国の父にそっと語りかけた。あなたが求めていたのは、これだったのですね。

最高の葱を手に入れ、私は再び炊き場に立った。
鴨鍋の出汁は、昆布と鰹節の一番出汁に、鴨の骨からとった濃厚なスープを合わせたもの。味付けは、醤油とみりん、酒だけでごくシンプルに。
主役である鴨肉と「やとい」葱が、互いの持ち味を存分に発揮できるように。

土鍋から湯気が立ち上り、鴨と葱の、そして出汁の気品ある香りが店の中に満ちていく。
その香りを嗅いだだけで、この鴨鍋が成功であることを、私は確信していた。

その夜、やわらぎ亭の常連たちは、初めて味わう鴨鍋に、ただただ感嘆の声を上げるばかりだった。

「なんだ、この葱は! とろけるように柔らかくて、信じられねえほど甘え!」

「この鴨肉も、絶品だ! 葱と一緒に食うと、互いの旨味が何倍にもなって口の中に広がるようだぜ!」

「……これこそ、まことの『出会い』ですな」

金さんが、満足そうに目を細めて呟いた。
父が遺した、たった一行の言葉。その謎を解き明かし、こうしてまた一つ、やわらぎ亭に新しい味が生まれた。
父の料理人としての魂は、確かに私の中に、そしてこの店に生き続けている。
そんな温かい実感に包まれながら、私は熱々の鴨鍋を頬張り、冷たい冬の訪れに、心を弾ませるのだった。
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