【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

☆ほしい

文字の大きさ
64 / 100

64

しおりを挟む
その思いがけない言葉に、私と良太は顔を見合わせた。
若い衆が焼くだし巻き玉子……?
それは明らかに、良太のことを指している。
「え……? お、俺ですか……?」
良太が動揺したように声を上ずらせる。
無理もない。これまでお客様に出す料理は、すべて私が作ってきたのだから。彼が一人でお客様の前に料理を出すのは、これが初めてのことだ。
「まあ、噂の広まるのが早いですこと」
私はにっこりと微笑むと、固まっている良太の背中をそっと押した。
「良太。あなたを訪ねてきてくださったお客様よ。聞こえたでしょう?」
「で、でも、おし乃さん……! 俺なんかが焼いた玉子焼きで、本当にお客様を満足させられるか……」
「大丈夫」
私は彼の目をまっすぐに見つめて言った。
「あなたはもう立派な料理人です。あなたの今の精一杯の玉子焼きを焼いて差し上げなさい。心を込めてね」
私の言葉に、良太はごくりと喉を鳴らした。
そして、しばらくの逡巡の後。
彼はぐっと覚悟を決めた顔で頷いた。
「……はい! やらせていただきます!」
その声にはもう迷いはなかった。
私は満足して頷くと、老婆の前に向き直った。
「申し訳ございません。ただいま、うちの一番弟子が腕によりをかけて焼いております。今しばらくお待ちいただけますでしょうか」
「ほう、一番弟子とな。……良いだろう。楽しみに待たせてもらうとしよう」
老婆は面白そうに目を細めた。その鋭い視線が、炊き場に立つ良太の背中に注がれる。
良太はその視線を感じてか、緊張で肩が強張っているのが見て取れた。
がんばれ、良太。
私は心の中でそっと声援を送った。

良太は深呼吸を一つすると、調理を始めた。
まずは卵を丁寧に溶きほぐす。その手つきはまだ私ほど滑らかではない。けれど、一つ一つの所作に真摯な気持ちがこもっている。
教えた通り、白身を切るように。決して泡立てることなく。
次いで出汁を合わせる。分量を間違えないように、慎重に、慎重に。味付けの醤油と塩もほんの少し。
彼の額には玉のような汗が光っている。
そしていよいよ、焼きの工程。
熱した玉子焼き鍋に卵液を流し込む。
じゅわっ、という音。立ち上る甘い香り。
良太は菜箸をぎゅっと握りしめ、鍋の中の卵液を真剣な眼差しで見つめている。
一度目の返し。少し形が崩れた。良太の顔に焦りの色が浮かぶ。
大丈夫、そのくらい。
私は目で彼に合図を送った。
良太はこくりと頷き、気を取り直して二度目の卵液を流し込む。
今度はうまくいった。ふっくらと綺麗な黄金色の層ができていく。
三度目、四度目と繰り返すうちに、彼の菜箸を操る手はだんだんとリズムを取り戻していった。
その真剣な横顔。それはもはや見習いの少年ではなく、一人の客と真剣に向き合う料理人の顔だった。

やがて、ふっくらと、そして見事に焼きあがっただし巻き玉子。湯気と共に立ち上る、出汁の豊かな香り。
良太はそれを丁寧に切り分けると、震える手で皿に盛り付けた。
「……お、お待たせいたしました……!」
良太自身の手で、そのだし巻き玉子を老婆の前に差し出す。
老婆は何も言わず、じっと目の前の玉子焼きを見つめている。その沈黙が店の空気を張り詰めさせる。
良太は固唾をのんでその反応を待っていた。
やがて老婆はゆっくりと箸を取り、玉子焼きを一切れ口に運ぶ。
ゆっくりと、ゆっくりと、その味を噛み締めるように。
しばしの静寂。それは永遠にも感じられるような時間だった。
ふと、老婆の皺の刻まれた目元がふわりと緩んだ。
「……うん。……美味いじゃないか」
その一言。そのたった一言に、良太の強張っていた肩の力がすうっと抜けた。
「……本当ですか……?」
「ああ、本当さね。……不器用だが、真っ直ぐで優しい味がする。……そうさな。まるで、あんたの人柄そのものみてえな玉子焼きだ」
老婆はそう言うと、慈しむような目で良太を見つめた。
「……あんたの親方、藤兵衛が生きていたら、きっと泣いて喜んだろうねえ」
「……え……?」
その思いがけない名前に、良太の目が驚きに大きく見開かれた。
「な、なんで……俺の親方の名前を……」
「おや、知らなかったのかい。わしはね、あの頑固で口下手で、けれど腕だけは天下一品だった左官の藤兵衛とは昔馴染みでね。あいつがまだ若かった頃から、何かと目をかけてやったもんさ」
老婆は懐かしそうに目を細めた。
「その藤兵衛が亡くなる前に言っておったよ。『わしにはたった一人、自慢の弟子がいる。不器用だが、根性だけは人一倍の正直な奴だ』ってね。……あんたのことだろう、良太」
「親方……」
良太の大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「わしはね、あんたがこのやわらぎ亭で世話になってるって噂で聞いてね。一度この目で確かめておこうと思ったのさ。あの藤兵衛が自慢した弟子が、一体どんな若者に育ったのかってね」
老婆はそう言うと、良太の涙で濡れた玉子焼きをもう一切れ口に運んだ。
「……うん。この味なら安心だ。……あんたは本当に良い師匠に巡り会えたんだねえ。……よく頑張った。……藤兵衛も草葉の陰で、あんたのことをきっと誇りに思ってるだろうよ」
その温かい言葉。良太はもう声を上げることさえできず、ただ子供のようにわんわんと泣きじゃくっていた。
私はそんな彼の背中を、ただ黙って優しくさすってやることしかできなかった。

人の縁というものは、本当に不思議なものだ。
亡き親方の思いが、こうして時を越えて、一人の若者の未来を明るく照らし出している。
一杯のだし巻き玉子が紡いだ、温かい奇跡。
私はそんな奇跡が生まれるこのやわらぎ亭という場所を、心から愛おしく思った。

その夜。
老婆が満足して帰った後、良太はまだ少し目を赤く腫らしていたけれど、その顔はこれまで見たこともないほど晴れやかで、そして自信に満ち溢れていた。
「おし乃さん。……俺、決めました」
「なあに?」
「俺、もっともっと料理の腕を磨きます。そしていつか、天国の親方に胸を張って、『俺は江戸一番の玉子焼き職人になったぞ』って報告できるような、そんな料理人になってみせます!」
その力強い宣言に、私はにっこりと微笑んで頷いた。
「ええ。あなたならきっとなれるわ。……さあ、そのためにもまずは腹ごしらえをしなくてはね。今夜は何が食べたい?」
「はい! ……ええと……やっぱり、おし乃さんのだし巻き玉子が食べたいです!」
「まあ、あなたったら」
私と良太は顔を見合わせて、大きな声で笑い合った。
やわらぎ亭の温かい灯りの下で、新しい決意を胸に、また新しい一日が始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

【完結】『江戸一番の菓子屋と嘘つき娘』

月影 朔
歴史・時代
江戸日本橋の片隅に佇む、小さな甘味処「春告鳥」。 そこで看板娘として働くおみえは、笑顔と真心で客を迎える、明るく評判の娘だ。 しかし彼女には、誰にも言えぬ秘密があった―― おみえは、心優しき店主夫婦に拾われた孤児なのだ。 その恩に報いるため、大好きなこの店を守るため、「江戸一番」の味を守るため、おみえは必死にもがく。 これは、秘密と嘘を抱えた一人の娘が、逆境の中で真心と向き合い、家族や仲間との絆を通して成長していく感動の物語。 おみえは、大切な春告鳥を守り抜くことができるのか? 彼女のついた嘘は、吉と出るか、それとも凶と出るか? 江戸の町を舞台に繰り広げられる、涙と笑顔の人情譚。

元Sランク受付嬢の、路地裏ひとり酒とまかない飯

☆ほしい
ファンタジー
ギルド受付嬢の佐倉レナ、外見はちょっと美人。仕事ぶりは真面目でテキパキ。そんなどこにでもいる女性。 でも実はその正体、数年前まで“災厄クラス”とまで噂された元Sランク冒険者。 今は戦わない。名乗らない。ひっそり事務仕事に徹してる。 なぜって、もう十分なんです。命がけで世界を救った報酬は、“おひとりさま晩酌”の幸福。 今日も定時で仕事を終え、路地裏の飯処〈モンス飯亭〉へ直行。 絶品まかないメシとよく冷えた一杯で、心と体をリセットする時間。 それが、いまのレナの“最強スタイル”。 誰にも気を使わない、誰も邪魔しない。 そんなおひとりさまグルメライフ、ここに開幕。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...