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翌日の昼下がり、やわらぎ亭に一人の若い侍がやってきた。年の頃は二十代半ばだろうか。凛々しい紋付袴姿。その背筋はぴんと伸び、顔には少しの緊張と、そして大きな決意の色が浮かんでいる。
「……ごめんください」
その涼やかな声に、私ははっとして顔を上げた。
「いらっしゃいませ。……何かご用でしょうか?」
「拙者、呉服問屋、伊勢屋の宗次郎と申す者。……本日、扇屋の娘さんと祝言を挙げることとなっております」
伊勢屋の宗次郎。彼こそが千草様の花婿殿か。私は驚きを隠しながらも、彼を店の中へと招き入れた。
「まあ、それはおめでとうございます。……ですが、そのような大切な日に、一体どのようなご用件で?」
「うむ。……実は祝言の前に、どうしてもこちらの料理を一膳いただいておきたいと思い、参上した」
宗次郎殿はそう言うと、少しばつの悪そうな顔で続けた。
「お恥ずかしい話だが……拙者、今、正直心が落ち着かぬ。……これから一人の女性の一生を預かるのだと思うと、その責任の重さに身が竦む思いがしてな。……親の決めた縁談とはいえ、相手の娘さんを幸せにできるのかどうか……」
その真面目な顔。その誠実な言葉。私は昨夜の千草様の不安げな表情を思い出していた。二人は実によく似ている。どちらも相手を思いやる優しい心を持っているのだ。だからこそ、不安になるのだろう。
「……女将殿。何か拙者に覚悟を決めさせてくれるような、そんな力強い一膳を頼む」
宗次郎殿の真っ直ぐな瞳。私はその思いに応えたいと心から思った。
「かしこまりました。……では、門出を祝うにふさわしい一品をご用意いたしましょう」
私がこの日のために選んだのは、「鯛の塩焼き」だ。祝いの席には欠かせない魚の王様。市場で一番活きの良い見事な天然の真鯛を、一本丸ごと仕入れておいた。その鯛に丁寧に化粧塩を振り、炭火でじっくりと焼き上げていく。
ぱちぱち、という心地よい音。皮が香ばしく焼ける匂い。身はふっくらとジューシーに。焼き加減は、まさに一瞬の見極めが肝心だ。炊きたての白いご飯。そして汁物は、夫婦和合を象徴する縁起の良い蛤のお吸い物。ぷっくりとした蛤の身から滲み出る極上の出汁が、身体中に染み渡る。
「さあ、宗次郎様。お待たせいたしました。門出の祝い膳にございます」
私はその膳を、宗次郎殿の前に静かに置いた。尾頭付きの見事な鯛の塩焼きから、湯気と共に香ばしい香りが立ち上る。宗次郎殿はごくりと喉を鳴らし、その一膳を見つめていた。
「……見事だ……」
彼はゆっくりと箸を取った。そして、まずはお吸い物を一口。
「……ふぅ。……美味い。……この蛤の出汁は、心が洗われるようだ……」
次に、鯛の白い身をほぐし、口に運ぶ。その瞬間、彼の目に強い光が宿った。
「……! なんだ、この鯛は……! 皮はぱりっとしているのに、身は驚くほどふっくらとしている……! そして、噛むほどに上品な甘みが口の中に広がる……! 塩加減も絶妙だ……! これは……これはまさに、魚の王者の味だ……!」
彼は夢中になって鯛を平らげていく。その食べっぷりの良さは、彼の迷いが吹っ切れた証のようにも見えた。一杯の飯が人の腹を満たすだけではない。人の心に力を与えることもあるのだ。
やがて膳の上のものを全て綺麗に平らげた宗次郎殿の顔に、もう不安の色はなかった。あるのは、一人の男としての力強い覚悟と決意だけだった。
「女将殿。……かたじけない。……拙者、目が覚めたようだ」
彼はすっくと立ち上がった。
「拙者は今日から一人の夫となる。……妻となる娘さんを生涯守り、そして幸せにしてみせる。……この鯛のように力強く、そしてこのお吸い物のように優しく、な」
その凛とした声に、私はにっこりと微笑んで頷いた。
「はい。あなた様なら、きっと素晴らしい夫になられますわ」
「うむ。……では、行ってくる。……今日の一膳の恩は生涯忘れぬ」
宗次郎殿は深々と私に頭を下げると、晴れやかな顔で店を後にした。その頼もしい後ろ姿。私は千草様の幸せを確信し、温かい気持ちでそれを見送っていた。
その日の夕方、祝言を無事に終えた宗次郎殿と千草様が、二人揃ってやわらぎ亭に挨拶に来てくれた。その手と手は固く結ばれ、顔には幸せそうな笑みが溢れている。
「おし乃様。……本当に、ありがとう存じました」
「女将殿。……世話になった」
二人は私に深々と頭を下げた。
「わたくしたち、祝言の席で初めて顔を合わせました。……けれど、不思議と初めて会った気がしなかったのです。……それどころか、ずっと昔から知っていたような、そんな安らぎを感じて……」
「うむ。……そして話してみれば、互いに祝言の前に同じ飯屋を訪ねていたことがわかってな。……驚いたのなんの」
二人は顔を見合わせて、楽しそうに笑っている。
「おし乃様のお料理が、わたくしたち二人の固い心を解きほぐし、そして結びつけてくださったのですわ」
「このご恩は、夫婦共々決して忘れませぬ」
私はそんな幸せそうな二人の姿を、ただ温かい気持ちで見守っていた。料理が結んだ不思議な縁。こんな幸せな瞬間に立ち会えること、それこそが料理人としての何よりの喜びだ。私は二人の末永い幸せを、心から祈らずにはいられなかった。
「……ごめんください」
その涼やかな声に、私ははっとして顔を上げた。
「いらっしゃいませ。……何かご用でしょうか?」
「拙者、呉服問屋、伊勢屋の宗次郎と申す者。……本日、扇屋の娘さんと祝言を挙げることとなっております」
伊勢屋の宗次郎。彼こそが千草様の花婿殿か。私は驚きを隠しながらも、彼を店の中へと招き入れた。
「まあ、それはおめでとうございます。……ですが、そのような大切な日に、一体どのようなご用件で?」
「うむ。……実は祝言の前に、どうしてもこちらの料理を一膳いただいておきたいと思い、参上した」
宗次郎殿はそう言うと、少しばつの悪そうな顔で続けた。
「お恥ずかしい話だが……拙者、今、正直心が落ち着かぬ。……これから一人の女性の一生を預かるのだと思うと、その責任の重さに身が竦む思いがしてな。……親の決めた縁談とはいえ、相手の娘さんを幸せにできるのかどうか……」
その真面目な顔。その誠実な言葉。私は昨夜の千草様の不安げな表情を思い出していた。二人は実によく似ている。どちらも相手を思いやる優しい心を持っているのだ。だからこそ、不安になるのだろう。
「……女将殿。何か拙者に覚悟を決めさせてくれるような、そんな力強い一膳を頼む」
宗次郎殿の真っ直ぐな瞳。私はその思いに応えたいと心から思った。
「かしこまりました。……では、門出を祝うにふさわしい一品をご用意いたしましょう」
私がこの日のために選んだのは、「鯛の塩焼き」だ。祝いの席には欠かせない魚の王様。市場で一番活きの良い見事な天然の真鯛を、一本丸ごと仕入れておいた。その鯛に丁寧に化粧塩を振り、炭火でじっくりと焼き上げていく。
ぱちぱち、という心地よい音。皮が香ばしく焼ける匂い。身はふっくらとジューシーに。焼き加減は、まさに一瞬の見極めが肝心だ。炊きたての白いご飯。そして汁物は、夫婦和合を象徴する縁起の良い蛤のお吸い物。ぷっくりとした蛤の身から滲み出る極上の出汁が、身体中に染み渡る。
「さあ、宗次郎様。お待たせいたしました。門出の祝い膳にございます」
私はその膳を、宗次郎殿の前に静かに置いた。尾頭付きの見事な鯛の塩焼きから、湯気と共に香ばしい香りが立ち上る。宗次郎殿はごくりと喉を鳴らし、その一膳を見つめていた。
「……見事だ……」
彼はゆっくりと箸を取った。そして、まずはお吸い物を一口。
「……ふぅ。……美味い。……この蛤の出汁は、心が洗われるようだ……」
次に、鯛の白い身をほぐし、口に運ぶ。その瞬間、彼の目に強い光が宿った。
「……! なんだ、この鯛は……! 皮はぱりっとしているのに、身は驚くほどふっくらとしている……! そして、噛むほどに上品な甘みが口の中に広がる……! 塩加減も絶妙だ……! これは……これはまさに、魚の王者の味だ……!」
彼は夢中になって鯛を平らげていく。その食べっぷりの良さは、彼の迷いが吹っ切れた証のようにも見えた。一杯の飯が人の腹を満たすだけではない。人の心に力を与えることもあるのだ。
やがて膳の上のものを全て綺麗に平らげた宗次郎殿の顔に、もう不安の色はなかった。あるのは、一人の男としての力強い覚悟と決意だけだった。
「女将殿。……かたじけない。……拙者、目が覚めたようだ」
彼はすっくと立ち上がった。
「拙者は今日から一人の夫となる。……妻となる娘さんを生涯守り、そして幸せにしてみせる。……この鯛のように力強く、そしてこのお吸い物のように優しく、な」
その凛とした声に、私はにっこりと微笑んで頷いた。
「はい。あなた様なら、きっと素晴らしい夫になられますわ」
「うむ。……では、行ってくる。……今日の一膳の恩は生涯忘れぬ」
宗次郎殿は深々と私に頭を下げると、晴れやかな顔で店を後にした。その頼もしい後ろ姿。私は千草様の幸せを確信し、温かい気持ちでそれを見送っていた。
その日の夕方、祝言を無事に終えた宗次郎殿と千草様が、二人揃ってやわらぎ亭に挨拶に来てくれた。その手と手は固く結ばれ、顔には幸せそうな笑みが溢れている。
「おし乃様。……本当に、ありがとう存じました」
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「わたくしたち、祝言の席で初めて顔を合わせました。……けれど、不思議と初めて会った気がしなかったのです。……それどころか、ずっと昔から知っていたような、そんな安らぎを感じて……」
「うむ。……そして話してみれば、互いに祝言の前に同じ飯屋を訪ねていたことがわかってな。……驚いたのなんの」
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「おし乃様のお料理が、わたくしたち二人の固い心を解きほぐし、そして結びつけてくださったのですわ」
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私はそんな幸せそうな二人の姿を、ただ温かい気持ちで見守っていた。料理が結んだ不思議な縁。こんな幸せな瞬間に立ち会えること、それこそが料理人としての何よりの喜びだ。私は二人の末永い幸せを、心から祈らずにはいられなかった。
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