【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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駕籠から現れたのは、いかにも高貴な身分とわかる美しい奥方様だった。
年の頃は三十を少し過ぎたあたりだろうか。上質な縮緬の着物をしっとりと着こなし、その佇まいにはそこらの武家の奥方とは一線を画す圧倒的な気品が漂っている。

「こちらが、やわらぎ亭でございますか?」

涼やかな、鈴を転がすような声。
私と良太はそのあまりの美しさと気品に、ただただ圧倒されるばかりだった。

「は、はい、さようでございますが……」

私が何とか声を絞り出すと、奥方様はふわりと花の綻ぶような笑みを浮かべた。

「私、奥勤めの者でございます。実は若君様が近頃どうにもお風邪を召され、お声がかすれてしまいお困りなのでございます」

若君様。その言葉から彼女が仕えているのが、ただならぬ家であることが窺える。

「宮中の名医にも診せておるのですがなかなか良くならず……。そんな折、町で評判の『甘露湯』なるものを耳にいたしまして。何でも喉に大変良いとか。それを是非とも若君様にも差し上げたいと、参上つかまつった次第にございます」

なるほど。良太の甘草葛湯の噂がそこまで届いていたとは。

「それはお役に立てるやもしれませぬ。すぐにご用意いたしますわ」

私がそう言うと、奥方様はほっとしたように胸を撫で下ろした。
その時だった。
奥で話を聞いていた金さんがすっと立ち上がり、奥方様の前に進み出た。

「これはこれは奥方様。ご無沙汰しております。遠山でございます」

いつもの遊び人の金さんではない。
その立ち居振る舞いは紛れもなく、南町奉行、遠山金四郎そのものだった。
奥方様は金さんの顔を見ると、まあ、と小さく驚きの声を上げた。

「遠山様。このような場所でお目にかかるとは、奇遇にございますわね」

「はっ。私もこの店の飯の虜でしてな。……して、若君様のご容態はいかがですかな?」

「はい。お陰様で熱は下がったのですが、咳と声がれだけがどうにもしつこくて……」

二人の会話から私は全てを察した。
彼女が仕えている若君様とは、まさか。

「奥方様。その甘露湯はうちの一番弟子が心を込めてお作りいたします。ですがその前に、一つだけ試していただきたいものがございますの」

私は意を決して奥方様にそう申し出た。
そして炊き場に立つと、一つの果物を手に取った。
それは先日、甲州屋の主が「珍しいものが手に入った」と届けてくれたばかりの金柑だった。
艶やかで美しい黄金色の実。
私はその金柑を丁寧に洗い、皮ごと薄い輪切りにする。
そしてたっぷりの蜂蜜に一晩じっくりと漬け込んでおいたのだ。

「これは?」
奥方様が不思議そうに尋ねる。

「金柑の蜂蜜漬けでございます。金柑は古くから喉の痛みや咳を鎮める妙薬として知られておりますの。その皮に含まれる成分が喉の炎症を抑えてくれるのです。蜂蜜にもまた殺菌作用と滋養強壮の効果がございます」

私は湯気の立つ白湯にその金柑の蜂蜜漬けを数枚浮かべ、奥方様の前にそっと差し出した。
ふわりと甘く爽やかな香りが立ち上る。

「さあどうぞ。まずはあなた様がお味見くださいな」

奥方様はこくりと頷くと、その白湯を一口、口に含んだ。
その瞬間。
彼女の美しい目が驚きに大きく見開かれた。

「まあ……! なんと……!」

「どうですかな、奥方様?」
金さんがにやりと笑いながら尋ねる。

「……美味しい……。そして喉が……すうっと楽になるような……。温かくて甘くて……こんなに優しい飲み物は初めてでございます……」

奥方様はうっとりとした表情でその金柑湯を味わっている。
その顔にはもう心配の色はない。

「奥方様。よろしければこの金柑の蜂蜜漬けと良太の作る甘露湯、両方を若君様の元へお届けくださいな。きっとお気に召していただけるはずですわ」

「はい……! はい! おし乃様! 本当にありがとうございます!」

奥方様は私の手をぎゅっと握りしめ、何度も何度も頭を下げた。
その瞳には感謝の涙がきらりと光っていた。

***

その日の夕方。
やわらぎ亭に再びあの奥方様がやってきた。
しかしその表情は昼間とは打って変わって、この上なく晴れやかで喜びと興奮に輝いていた。

「おし乃様! 良太様!」
彼女は店に駆け込むなり、私と良太の前に深々と頭を下げた。
「この度は本当に本当に、ありがとうございました! 若君様が……! 若君様がおし乃様のおかげで、すっかりお元気になられました!」

「まあ、それはようございました!」

「はい! まずあの金柑湯を差し上げたところ『これは美味い』とそれはもう嬉しそうに飲んでくださり……その後、良太様の甘露湯を差し上げたところ『これもまた格別だ』と一滴残らず綺麗に平らげてくださったのです!」
奥方様は自分のことのように嬉しそうに語った。
「そして先ほど。あれほどかすれていた若君様のお声が……すっきりと元の美しいお声に戻られたのでございます! 宮中の名医もただただ驚くばかりで……」

その知らせに私と良太は、思わず顔を見合わせて笑い合った。
良太の目には大きな達成感と、そして安堵の涙が浮かんでいる。

「これ、若君様からのささやかなお礼にございます。どうぞお納めください」

奥方様が差し出したのは、見事な蒔絵の施された文箱だった。
中には若君様直筆の感謝の言葉が綴られた書状と、ずしりと重い小判の包みが入っていた。

「い、いえ、このようなものをいただくわけには……!」

恐縮する私と良太に、奥方様はにっこりと微笑んだ。

「お受け取りくださいな。これは若君様のお気持ち。そして何よりも、あなた様方の温かいお心遣いに対する感謝の印でございますから」

その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
私と良太は顔を見合わせ、そして深々と頭を下げた。

「……ありがたく頂戴いたします」

「うむ。……さて、おし乃様、良太様」
奥方様は改まった口調で、私と良太に向き直った。
「実はもう一つ、お願いがございまして」

「はい、何でございましょう?」

「若君様がぜひ一度このやわらぎ亭にお忍びで足を運びたいと、仰せなのでございます。あなた様のその素晴らしいお料理をこの店で直に味わってみたいと」

その、思いがけない言葉。
私と良太は驚いて言葉もなかった。
この小さな飯屋に、あのお方が。

「もちろんご迷惑であることは重々承知しております。ですが若君様のたってのご希望なのでございます。……いかが、でしょうか?」

すがるような、その瞳。
断る理由などどこにもなかった。

「……はい。喜んで。若君様のお越しを心よりお待ち申し上げております」

私の言葉に奥方様の顔がぱっと輝いた。

「ありがとうございます! では日を改めて、またご連絡させていただきますわ!」

奥方様は嵐のようにやって来て、そして嵐のように去っていった。
後に残されたのは私と良太、そしてにわかには信じがたい大きな出来事の予感だけだった。

「……おし乃さん。なんだか夢を見ているようです……」
良太が呆然と呟く。

私も同じ気持ちだった。
やわらぎ亭にまた一つ、とてつもなく大きな物語が始まろうとしていた。
私の胸は緊張と、そして大きな期待で高鳴っていた。

店の壁に飾られた一筆斎文吾の浮世絵。
その中で笑う常連さんたちの顔が、まるで私の背中を押してくれているかのようだった。

さあ、腕が鳴る。
江戸一番、いや日ノ本一の料理で若君様をお迎えしようじゃないか。
そんな熱い思いを胸に、私はしゃもじをぎゅっと握りしめた。
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