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若君様がお忍びで来店されたという話は、どこからか漏れ伝わったのか、やわらぎ亭の評判をさらに押し上げることになった。
もっとも、私としてはこれまでと何も変わらない。一人一人のお客様と真摯に向き合い、心と体が温まる一膳をお出しする。ただ、それだけのことだ。
店の賑わいが増したある日の昼下がり。
一人の年嵩の男が、むすりとした顔で店の暖簾をくぐってきた。
年の頃は六十を過ぎたあたり。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、節くれだった大きな手は、彼が長年手仕事で生きてきた職人であることを示している。
「……いらっしゃいませ」
私が声をかけると、男は私をじろりと一瞥し、無言のまま一番端の席にどかりと腰を下ろした。
その只ならぬ雰囲気に、店の客たちも少し遠巻きにしている。
「酒だ。一番辛いやつを」
吐き捨てるような、ぶっきらぼうな物言い。
私は静かに頷き、きりりと冷やした酒と、お通しに蕗味噌を添えて出した。
男はそれを受け取ると、ぐいと一息に杯を煽り、あとは腕を組んで窓の外を睨みつけている。
その横顔はひどく不機嫌で、そしてどこか寂しそうにも見えた。
その男、名を源五郎さんという彼は、それから数日、毎日同じ時間にやってきては、同じように酒を一杯だけ呷り、一言も発さずに帰っていくのだった。
「おし乃さん、あのお爺さん、一体何なんでしょうね。いつも怒っているみたいで、ちょっと怖いですよ」
良太が、心配そうに私に囁く。
「そうね……。でも、ただ怒っているわけではなさそうよ」
私の目には、彼の心の奥底に深い悲しみと、そして諦めのようなものが渦巻いているのが見て取れた。長年連れ添った道具のように、彼の体には使い込まれた職人の誇りが染みついている。だが、その誇りが今、何かに行き場をなくしているようだった。
そんなある日、良太が慌てた様子で私のところにやってきた。
「おし乃さん、大変です! さっき、源五郎さんが独り言を……」
「独り言?」
「はい。『もう、わしの仕事も終わりかのう……。この指じゃあ、もう……』って。そう言って、自分の指をじっと見つめていたんです。なんだか、震えているみたいでした」
指の震え。そして、仕事の終わり。
私は、ぴんと来た。
「良太、少し調べてみてくれるかしら。この辺りに源五郎さんという名の腕の良い職人さんがいないかどうか」
「はい、わかりました!」
良太が町へ聞き込みに走っていく。
その間に、私は源五郎さんの前に熱いお茶を一杯、そっと置いた。
「……お節介だな」
源五郎さんは顔をしかめてそう言ったが、お茶を下げようとはしなかった。
やがて、息を切らした良太が店に戻ってきた。
「おし乃さん! わかりました! 源五郎さんは、この辺りじゃ知らぬ者のない、腕利きの指物師だそうです!」
指物師。釘を使わずに、木と木を組み合わせて箪笥や建具を作る、高度な技術を持つ職人だ。
「ですが……最近は年のせいか、思うように指が動かなくなってきたらしくて……。それに、息子さんが一人いるんですが、その人が跡を継がずに別の仕事をしているそうで。それが気に食わなくて、親子仲もずっとうまくいっていない、とのことです」
なるほど。そういうことだったのか。
長年培ってきた己の腕への誇り。そして、それが失われていくことへの恐怖と焦り。後継者であるべき息子との断絶。それらが、彼の心を頑なにしてしまっているのだ。
この凝り固まった職人の心を解きほぐすには、小手先の料理では駄目だ。
体の芯から温め、そして彼の心の故郷に語りかけるような、そんな一品が必要だ。
「良太、源五郎さんの故郷がどこか、わかるかしら?」
「はい! 加賀の国のご出身だそうです!」
加賀。それならば、決まりだ。
私は炊き場に立つと、心を込めて調理に取り掛かった。
翌日、いつものようにやってきた源五郎さんの前に、私は一つの椀をことりと置いた。
湯気の向こうに見えるのは、とろりとした餡に包まれた鴨肉と根菜だ。
「……なんだ、こりゃあ。頼んでねえぞ」
「私からのほんの気持ちでございます。加賀の郷土料理、治部煮ですわ」
その名を聞いた瞬間、源五郎さんの目がわずかに見開かれた。
小麦粉をまぶして旨味を閉じ込めた鴨肉を、出汁と醤油、みりん、砂糖で煮立てる。そこに、すだれ麩や里芋、人参といった根菜を加え、ことことと煮込む。最後に水溶き片栗粉でとろみをつけ、薬味にわさびを添える。
とろりとした汁が具材の一つ一つに絡みつき、冷めにくく、体の芯から温めてくれる一品だ。
源五郎さんは、疑うような目で私と治部煮を交互に見ていたが、やがて諦めたように、おずおずと箸を取った。
そして、鴨肉を一口。
その瞬間、頑なだった彼の表情が、ふっと崩れた。
皺だらけの目元から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……かかあの、味だ」
それは、ほとんど声にならないようなか細い呟きだった。
「なんで……なんで、おめえなんかがこの味を知ってやがる……。こいつは、あいつが、わしが寒い日に仕事から帰ると、いつもこしらえて待っていてくれた……」
源五郎さんは、子供のようにしゃくり上げながら、夢中で治部煮を口に運んでいた。
その一椀に込められた、今は亡き妻の愛情を、そして遠い故郷の温もりを思い出すかのように。
「源五郎さん」
私は、静かに語りかけた。
「その素晴らしい指先が、今までどれほど多くの人を喜ばせてきたことでしょう。その技を待っている人が、今もいるのではございませんか」
私の言葉に、源五郎さんははっと顔を上げた。
その時、店の戸がからりと開き、一人の若者が入ってきた。年の頃は三十代半ば。源五郎さんによく似た、実直そうな顔つきの男だった。
「親父……」
「……幸助。な、なんでてめえがここに……」
息子の幸助さんだった。実は、良太に頼んでそっと来てもらうように手配しておいたのだ。
幸助さんは、父の前の治部煮を見ると、驚いたように目を見開いた。
「治部煮……母さんの……」
「幸助さん。お父様は、あなたのことをお待ちですよ」
私の言葉に、親子は互いに顔を見合わせた。
長い間のわだかまりが、この一椀の治部煮を前に少しずつ解けていくのがわかった。
「親父……すまなかった。俺、親父の腕が偉大すぎて怖かったんだ。俺なんかが跡を継げるわけがないって……」
「馬鹿野郎……。わしの方こそ、すまなかった。おめえの気持ちも考えずに、ただ当たり散らして……。もうこの指も言うことをきかねえ。わしの代でこの技も終わりかと思うと、情けなくてな……」
初めて吐き出された、互いの本心。
幸助さんは、父の震える手をそっと両手で包み込んだ。
「親父、俺にもう一度教えてくれ。親父の技を。二人でなら、きっとやれる。この店を、俺たちの手で守っていこう」
「……幸助」
源五郎さんの目から、再び涙が溢れ出した。しかし、それはもう悲しみや諦めの涙ではなかった。
やわらぎ亭に、また一つ、温かい絆が結ばれる。一杯の治部煮が、時を越え、親子の心を再び繋ぎ合わせてくれた瞬間だった。
もっとも、私としてはこれまでと何も変わらない。一人一人のお客様と真摯に向き合い、心と体が温まる一膳をお出しする。ただ、それだけのことだ。
店の賑わいが増したある日の昼下がり。
一人の年嵩の男が、むすりとした顔で店の暖簾をくぐってきた。
年の頃は六十を過ぎたあたり。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、節くれだった大きな手は、彼が長年手仕事で生きてきた職人であることを示している。
「……いらっしゃいませ」
私が声をかけると、男は私をじろりと一瞥し、無言のまま一番端の席にどかりと腰を下ろした。
その只ならぬ雰囲気に、店の客たちも少し遠巻きにしている。
「酒だ。一番辛いやつを」
吐き捨てるような、ぶっきらぼうな物言い。
私は静かに頷き、きりりと冷やした酒と、お通しに蕗味噌を添えて出した。
男はそれを受け取ると、ぐいと一息に杯を煽り、あとは腕を組んで窓の外を睨みつけている。
その横顔はひどく不機嫌で、そしてどこか寂しそうにも見えた。
その男、名を源五郎さんという彼は、それから数日、毎日同じ時間にやってきては、同じように酒を一杯だけ呷り、一言も発さずに帰っていくのだった。
「おし乃さん、あのお爺さん、一体何なんでしょうね。いつも怒っているみたいで、ちょっと怖いですよ」
良太が、心配そうに私に囁く。
「そうね……。でも、ただ怒っているわけではなさそうよ」
私の目には、彼の心の奥底に深い悲しみと、そして諦めのようなものが渦巻いているのが見て取れた。長年連れ添った道具のように、彼の体には使い込まれた職人の誇りが染みついている。だが、その誇りが今、何かに行き場をなくしているようだった。
そんなある日、良太が慌てた様子で私のところにやってきた。
「おし乃さん、大変です! さっき、源五郎さんが独り言を……」
「独り言?」
「はい。『もう、わしの仕事も終わりかのう……。この指じゃあ、もう……』って。そう言って、自分の指をじっと見つめていたんです。なんだか、震えているみたいでした」
指の震え。そして、仕事の終わり。
私は、ぴんと来た。
「良太、少し調べてみてくれるかしら。この辺りに源五郎さんという名の腕の良い職人さんがいないかどうか」
「はい、わかりました!」
良太が町へ聞き込みに走っていく。
その間に、私は源五郎さんの前に熱いお茶を一杯、そっと置いた。
「……お節介だな」
源五郎さんは顔をしかめてそう言ったが、お茶を下げようとはしなかった。
やがて、息を切らした良太が店に戻ってきた。
「おし乃さん! わかりました! 源五郎さんは、この辺りじゃ知らぬ者のない、腕利きの指物師だそうです!」
指物師。釘を使わずに、木と木を組み合わせて箪笥や建具を作る、高度な技術を持つ職人だ。
「ですが……最近は年のせいか、思うように指が動かなくなってきたらしくて……。それに、息子さんが一人いるんですが、その人が跡を継がずに別の仕事をしているそうで。それが気に食わなくて、親子仲もずっとうまくいっていない、とのことです」
なるほど。そういうことだったのか。
長年培ってきた己の腕への誇り。そして、それが失われていくことへの恐怖と焦り。後継者であるべき息子との断絶。それらが、彼の心を頑なにしてしまっているのだ。
この凝り固まった職人の心を解きほぐすには、小手先の料理では駄目だ。
体の芯から温め、そして彼の心の故郷に語りかけるような、そんな一品が必要だ。
「良太、源五郎さんの故郷がどこか、わかるかしら?」
「はい! 加賀の国のご出身だそうです!」
加賀。それならば、決まりだ。
私は炊き場に立つと、心を込めて調理に取り掛かった。
翌日、いつものようにやってきた源五郎さんの前に、私は一つの椀をことりと置いた。
湯気の向こうに見えるのは、とろりとした餡に包まれた鴨肉と根菜だ。
「……なんだ、こりゃあ。頼んでねえぞ」
「私からのほんの気持ちでございます。加賀の郷土料理、治部煮ですわ」
その名を聞いた瞬間、源五郎さんの目がわずかに見開かれた。
小麦粉をまぶして旨味を閉じ込めた鴨肉を、出汁と醤油、みりん、砂糖で煮立てる。そこに、すだれ麩や里芋、人参といった根菜を加え、ことことと煮込む。最後に水溶き片栗粉でとろみをつけ、薬味にわさびを添える。
とろりとした汁が具材の一つ一つに絡みつき、冷めにくく、体の芯から温めてくれる一品だ。
源五郎さんは、疑うような目で私と治部煮を交互に見ていたが、やがて諦めたように、おずおずと箸を取った。
そして、鴨肉を一口。
その瞬間、頑なだった彼の表情が、ふっと崩れた。
皺だらけの目元から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……かかあの、味だ」
それは、ほとんど声にならないようなか細い呟きだった。
「なんで……なんで、おめえなんかがこの味を知ってやがる……。こいつは、あいつが、わしが寒い日に仕事から帰ると、いつもこしらえて待っていてくれた……」
源五郎さんは、子供のようにしゃくり上げながら、夢中で治部煮を口に運んでいた。
その一椀に込められた、今は亡き妻の愛情を、そして遠い故郷の温もりを思い出すかのように。
「源五郎さん」
私は、静かに語りかけた。
「その素晴らしい指先が、今までどれほど多くの人を喜ばせてきたことでしょう。その技を待っている人が、今もいるのではございませんか」
私の言葉に、源五郎さんははっと顔を上げた。
その時、店の戸がからりと開き、一人の若者が入ってきた。年の頃は三十代半ば。源五郎さんによく似た、実直そうな顔つきの男だった。
「親父……」
「……幸助。な、なんでてめえがここに……」
息子の幸助さんだった。実は、良太に頼んでそっと来てもらうように手配しておいたのだ。
幸助さんは、父の前の治部煮を見ると、驚いたように目を見開いた。
「治部煮……母さんの……」
「幸助さん。お父様は、あなたのことをお待ちですよ」
私の言葉に、親子は互いに顔を見合わせた。
長い間のわだかまりが、この一椀の治部煮を前に少しずつ解けていくのがわかった。
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初めて吐き出された、互いの本心。
幸助さんは、父の震える手をそっと両手で包み込んだ。
「親父、俺にもう一度教えてくれ。親父の技を。二人でなら、きっとやれる。この店を、俺たちの手で守っていこう」
「……幸助」
源五郎さんの目から、再び涙が溢れ出した。しかし、それはもう悲しみや諦めの涙ではなかった。
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