【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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梅雨の晴れ間、紫陽花の花が雨の雫に濡れて、ひときわ美しく輝いている。
やわらぎ亭も、しっとりとした空気に包まれ、穏やかな時間が流れていた。

そんな日の夕暮れ時、金さんが、いつもの遊び人の風体とは少し違う、真面目な顔つきで店を訪れた。

「おし乃さん。ちいと、厄介な頼みがあるんだが、聞いちゃあもらえねえか」

金さんが私に頼み事をするのは珍しい。ましてや「厄介な」とまで言うからには、よほどのことに違いない。

「はい、金さん。私にできることであれば」

「実はな。今、長崎の出島から、阿蘭陀(オランダ)の商人が一人、公務で江戸に来ていてな。だが、その男が江戸に来てからというもの、どうにも体調が優れねえようなんだ」

阿蘭陀の、商人。いわゆる、紅毛人というわけか。

「医者にも診せたんだが、病というわけじゃねえ。ただ、江戸の食べ物が、どうにもこうにも口に合わねえらしくてな。ほとんど何も喉を通らず、日増しに弱っていくばかり。このままでは、肝心の話し合いもままならねえ。……そこで、おし乃さんの知恵を借りてえんだ。あの紅毛人が、故郷を思い出して元気になるような、そんな料理を作ってはもらえねえだろうか」

南町奉行、遠山金四郎としての、公の依頼。
しかし、これは並大抵のことではない。私は、紅毛人が何を食べるかなんて、書物でしか知らないのだから。

「……ずいぶんと、難しいご相談ですこと」

私がそう言うと、金さんは「無理を承知で頼んでる」と、申し訳なさそうに頭を掻いた。

だが、私の心の中では、既に好奇心と料理人としての探求心が、むくむくと湧き上がっていた。
未知の料理への挑戦。そして、食で人を救うという、やわらぎ亭の信条。断る理由など、どこにもなかった。

「……かしこまりました。そのお役目、このおし乃、謹んでお受けいたします」

私の力強い返事に、金さんの顔がぱっと輝いた。

「本当か! さすがはおし乃さんだ!」

「ただし、いくつか特別な材料が必要になります。手に入れることはできますでしょうか」

私は、父の書斎で読んだ南蛮料理に関する書物の記憶をたぐり寄せた。
牛や豚の乳を加工したという「ぼたん」。そして、同じく乳から作るという「らんびき」。それから、小麦をこねて焼いたという「ぱん」という食べ物……。

それらの珍しい食材の名を告げると、金さんは「任せておけ」と、力強く胸を叩いた。薬種問屋の宗太郎さんなら、あるいは特別な繋がりで手に入れられるかもしれない、と。

数日後。金さんと宗太郎さんの尽力により、私の手元には、見たこともないような食材が届けられた。
白い塊の「ぼたん」は、こっくりとした乳の香りがする。黄色く、とろりとした「らんびき」も、滋養に満ちた匂いがした。

「これさえあれば、きっと……」

私は、炊き場に立つと、未知の料理への挑戦を開始した。
まず、取り掛かったのは、温かい汁物だ。紅毛人は、こういうものを「ぽたあじゅ」と呼ぶらしい。
かぼちゃを柔らかく蒸し、裏ごしして、なめらかな状態にする。鍋にそれを移し、出汁を少しずつ加えて伸ばしていく。そして、隠し味に白味噌をほんの少し。これで、味にぐっと深みが出る。
最後に、貴重な「らんびき」を加え、とろりとするまでゆっくりと火を入れる。仕上げに塩で味を整えれば、美しい黄金色のかぼちゃのぽたあじゅの完成だ。

次に、魚料理。
新鮮な鱸(すずき)の切り身に塩胡椒をして、小麦粉を薄くまぶす。
鉄鍋を熱し、「ぼたん」を溶かす。じゅわ、と音を立てて溶けた「ぼたん」の香ばしい匂いが、炊き場に満ちる。
そこに鱸を入れ、皮目からこんがりと焼き上げる。両面が美しい焼き色になったら、皿に盛る。

これらの料理を、立派な塗りのお重に詰め、金さんに託した。

「頼んだぜ、おし乃さん」

「はい。彼の人の口に合うことを、祈っております」

私の料理が、異国の人の心を癒やすことができるだろうか。
期待と不安を胸に、私は吉報を待った。

その日の夜。
金さんが、興奮した様子でやわらぎ亭に駆け込んできた。

「おし乃さん! やったぞ! あの阿蘭陀人が、あんたの料理を綺麗さっぱり平らげたそうだ!」

「まあ、本当ですか!」

「ああ! なんでも、故郷の母親が作ってくれた料理と、そっくりな味がしたらしい。『奇跡だ! この国にも、神の心を持つ料理人がいたのか!』と、涙を流して喜んでいたそうだぞ!」

その知らせに、私と良太は、思わず顔を見合わせて笑った。
言葉も、文化も、生まれ育った場所も違う。けれど、人を想う心がこもった料理は、きっとどこまでも届くのだ。

「おかげで、体調もすっかり回復してな。明日からの話し合いも、上手く進みそうだ。おし乃さん、あんたは、この江戸の町、いや、日ノ本を救ってくれたんだぜ!」

金さんの大袈裟な言葉に、私はただ、はにかむばかりだった。

後日、阿蘭陀の商人から、お礼として美しい模様が描かれた「びいどろ」の杯と、見たこともないような甘い菓子が、やわらぎ亭に届けられた。
その菓子をつまみながら、良太がしみじみと言った。

「料理って、本当にすごいですね。国境さえも、越えちまうんですから」

「ええ、本当に。……さあ、次はどんなお客様が、どんな物語を運んできてくれるかしらね」

私の言葉に、良太は「はい!」と元気よく返事をした。
梅雨明けの近い青い空を見上げながら、私はこのやわらぎ亭に吹く風が、ますます多くの人々を幸せにしていくような、そんな確かな予感に包まれていた。
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