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秋風が心地よく吹き抜け、江戸の町が美しい紅葉に染まり始めた頃だ。やわらぎ亭の暖簾もからりとした空気の中で軽やかに揺れていた。店の竈から立ち上る湯気も、どこか秋の澄んだ香りをまとっているように感じられる。
「おし乃さん、今日の松茸は見事なもんですねえ」
炊き場の良太が籠に山と盛られた松茸を眺めながら感嘆の声を上げた。その顔は極上の食材を前にした料理人としての喜びに輝いている。今朝、懇意にしている丹波の商人から特別に分けてもらった今年一番の出来だという代物だ。
「ええ、本当に。傘の開き具合もこの香りもまさに極上ね。今夜のお客様は幸運だわ」
私はにっこりと微笑むと、その松茸を一本そっと手に取った。土の香りと木々の匂い、そして秋の森の澄んだ空気が凝縮されているかのような芳香。これだけで酒が三合は飲めてしまいそうだ。
やわらぎ亭の評判はいつしか江戸の食通たちの間でも囁かれるようになっていた。もちろん私自身はそんなことに関心はない。けれど店の評判が一人歩きを始めると、時には招かれざる客がやってくることもある。
からり、と威勢よく店の暖簾をくぐってきたのはいかにも粋な身なりの男だった。年の頃は四十路手前だろうか。派手な縞の着流しに腰には洒落た印籠を提げている。その顔には自信と、そしてどこか人を食ったような笑みが浮かんでいた。
「ここが噂のやわらぎ亭かい。思ったよりこぢんまりとした店だな」
男は値踏みするような目で店内を見回すと、良太が案内する前にずかずかと上がり框に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
私が静かに声をかけると、男は私をちらりと見てにやりと笑った。
「あんたがここの女将か。噂じゃあ、どんな頑固な客の舌も唸らせる大層な腕前だそうじゃねえか」
「とんでもない。私はただお客様に喜んでいただきたい一心で、料理をお作りしているだけでございます」
「ふん、謙遜するねえ。まあいい。俺を満足させるような料理を何か出してみな。俺は江戸で知らぬ者のない戯作者、山東京伝だ。まずいものを食わされた日には、明日からの草双紙であんたの店の悪口を面白おかしく書き立ててやるから、そのつもりでな」
そのあまりにも不遜な物言いに、店の中にいた常連たちがざわりと色めき立つ。良太も悔しそうに唇を噛んでいた。
けれど私は少しも動じなかった。彼の挑戦的な態度の奥に、新しい刺激を求める作り手としての渇望と、そしてほんの少しの寂しさのようなものが見えたからだ。
「かしこまりました京伝様。では今宵はやわらぎ亭の秋の味覚を存分にご用意させていただきますわ。ただしお口に合わなかったとしても、悪口だけはご勘弁を」
私は悪戯っぽくそう言って笑うと炊き場へと向かった。
彼のようなひねくれ者で、しかし本物の味を知る男を満足させるには小手先の料理では駄目だ。素材の持つ力と料理人の心を真っ直ぐに届けるしかない。
私が京伝様のために用意したのは「松茸の土瓶蒸し」だった。
土瓶の中に薄切りにした松茸、さっと湯通しした海老、そして旨味の強い鶏肉を入れ一番出汁をそそぐ。仕上げに彩りの三つ葉を浮かべ蓋をして火にかける。ただそれだけの、ごまかしのきかない料理だ。
やがて土瓶の口からふわりと湯気が立ち上り、松茸と出汁の気品ある香りが店の中に満ちていく。その香りを嗅いだだけで京伝様の険しい顔がほんの少し和らいだのがわかった。
「さあ、どうぞ。熱いうちにまずはお猪口で、この香り高いお汁からお楽しみくださいな」
私は小さな猪口にすだちを添えて彼の前にそっと置いた。
京伝様は訝しげな顔で私と土瓶を交互に見ていたが、やがて諦めたように猪口に汁を注いだ。
そしてその香りを確かめるようにゆっくりと口に運ぶ。
その瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
その見開かれた目には信じられないものを見たかのような、驚きと感動の色が浮かんでいる。
「……なんだ、これは……」
ぽつりと漏れたのは心の底からの声だった。
「……ただの出汁ではない。松茸の気高い香りと海老の甘み、鶏のコク……。それら全てがこの小さな猪口の中で完璧に溶け合っている。それでいて少しも互いを邪魔することなくどこまでも澄み切った味わい……。こんな……こんな吸い物を俺は飲んだことがない……!」
京伝様は我を忘れたように次々とお猪口に汁を注ぎ、その至福の味わいに酔いしれている。
やがて土瓶の中の具材にも箸を伸ばし、その一つ一つの味を確かめるように味わっていた。
「……参った。……参ったな、こいつは」
全てを食べ終えた頃、京伝様は深く長いため息をつくと、まるで憑き物が落ちたかのような穏やかな顔で私を見つめた。
「女将。あんたの勝ちだ。こんな見事な料理を出されちまったら、悪口なんぞ書けるはずもねえや」
「お口に合いましたようで、何よりでございます」
「ああ。……なあ女将。少し話を聞いてくれねえか」
京伝様はぽつりぽつりと自分の胸の内を語り始めた。
江戸一番の戯作者としての重圧。新しいものを生み出し続けなければならない焦り。そして最近どうにも面白い話が思い浮かばず、筆が進まないという苦しみ。
「江戸中の人間が俺の次の戯作を待っている。その期待が重くて苦しくてな。何を書けばいいのか何が面白いのか、自分でもわからなくなっちまったんだ」
その横顔はひどく寂しそうだった。
私は黙って彼の話を聞いていた。そして炊き場からそっと一つの土鍋を運んできた。
「京伝様。よろしければこちらも召し上がってくださいな」
蓋を開けると湯気と共に、ふわりと甘い香りが立ち上った。
土鍋の中にはつやつやと輝く栗ご飯。
「……栗ご飯か。ずいぶんと素朴なものが出てきたな」
「はい。時には奇をてらったお話ばかりでなく、このような素朴な味もよろしいのではございませんか。人の心に本当に届くのは案外、このような飾らない温かさなのかもしれませんわ」
私の言葉に京伝様ははっとしたように顔を上げた。
彼はしばらくの間黙って栗ご飯を見つめていたが、やがてゆっくりとそれを一口、口に運んだ。
栗のほっくりとした優しい甘みと、もちもちとしたご飯の食感。隠し味の塩昆布が全体の味をきりりと引き締めている。
「……そうか。……そうだったな」
京伝様の目からぽろりと一筋、涙がこぼれ落ちた。
「俺は忘れちまってたんだ。一番大切なことを。……人を喜わ喜ばせたい、楽しませたい。ただその一心で物語を書いていた、あの頃の気持ちを。……ありがとうよ女将。あんたのこの栗ご飯が俺に思い出させてくれたぜ」
京伝様は涙で濡れた顔のまま、にかりと笑った。その顔は店に来た時とは比べ物にならないほど晴れやかで、そして力強かった。
後日、京伝様が書いた新しい草双紙は江戸中の大評判となった。
それはやわらぎ亭をモデルにした、一人の料理屋の女将が様々な客の心を温かい料理で解きほぐしていく、心温まる人情話だったという。
「おし乃さん、今日の松茸は見事なもんですねえ」
炊き場の良太が籠に山と盛られた松茸を眺めながら感嘆の声を上げた。その顔は極上の食材を前にした料理人としての喜びに輝いている。今朝、懇意にしている丹波の商人から特別に分けてもらった今年一番の出来だという代物だ。
「ええ、本当に。傘の開き具合もこの香りもまさに極上ね。今夜のお客様は幸運だわ」
私はにっこりと微笑むと、その松茸を一本そっと手に取った。土の香りと木々の匂い、そして秋の森の澄んだ空気が凝縮されているかのような芳香。これだけで酒が三合は飲めてしまいそうだ。
やわらぎ亭の評判はいつしか江戸の食通たちの間でも囁かれるようになっていた。もちろん私自身はそんなことに関心はない。けれど店の評判が一人歩きを始めると、時には招かれざる客がやってくることもある。
からり、と威勢よく店の暖簾をくぐってきたのはいかにも粋な身なりの男だった。年の頃は四十路手前だろうか。派手な縞の着流しに腰には洒落た印籠を提げている。その顔には自信と、そしてどこか人を食ったような笑みが浮かんでいた。
「ここが噂のやわらぎ亭かい。思ったよりこぢんまりとした店だな」
男は値踏みするような目で店内を見回すと、良太が案内する前にずかずかと上がり框に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
私が静かに声をかけると、男は私をちらりと見てにやりと笑った。
「あんたがここの女将か。噂じゃあ、どんな頑固な客の舌も唸らせる大層な腕前だそうじゃねえか」
「とんでもない。私はただお客様に喜んでいただきたい一心で、料理をお作りしているだけでございます」
「ふん、謙遜するねえ。まあいい。俺を満足させるような料理を何か出してみな。俺は江戸で知らぬ者のない戯作者、山東京伝だ。まずいものを食わされた日には、明日からの草双紙であんたの店の悪口を面白おかしく書き立ててやるから、そのつもりでな」
そのあまりにも不遜な物言いに、店の中にいた常連たちがざわりと色めき立つ。良太も悔しそうに唇を噛んでいた。
けれど私は少しも動じなかった。彼の挑戦的な態度の奥に、新しい刺激を求める作り手としての渇望と、そしてほんの少しの寂しさのようなものが見えたからだ。
「かしこまりました京伝様。では今宵はやわらぎ亭の秋の味覚を存分にご用意させていただきますわ。ただしお口に合わなかったとしても、悪口だけはご勘弁を」
私は悪戯っぽくそう言って笑うと炊き場へと向かった。
彼のようなひねくれ者で、しかし本物の味を知る男を満足させるには小手先の料理では駄目だ。素材の持つ力と料理人の心を真っ直ぐに届けるしかない。
私が京伝様のために用意したのは「松茸の土瓶蒸し」だった。
土瓶の中に薄切りにした松茸、さっと湯通しした海老、そして旨味の強い鶏肉を入れ一番出汁をそそぐ。仕上げに彩りの三つ葉を浮かべ蓋をして火にかける。ただそれだけの、ごまかしのきかない料理だ。
やがて土瓶の口からふわりと湯気が立ち上り、松茸と出汁の気品ある香りが店の中に満ちていく。その香りを嗅いだだけで京伝様の険しい顔がほんの少し和らいだのがわかった。
「さあ、どうぞ。熱いうちにまずはお猪口で、この香り高いお汁からお楽しみくださいな」
私は小さな猪口にすだちを添えて彼の前にそっと置いた。
京伝様は訝しげな顔で私と土瓶を交互に見ていたが、やがて諦めたように猪口に汁を注いだ。
そしてその香りを確かめるようにゆっくりと口に運ぶ。
その瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
その見開かれた目には信じられないものを見たかのような、驚きと感動の色が浮かんでいる。
「……なんだ、これは……」
ぽつりと漏れたのは心の底からの声だった。
「……ただの出汁ではない。松茸の気高い香りと海老の甘み、鶏のコク……。それら全てがこの小さな猪口の中で完璧に溶け合っている。それでいて少しも互いを邪魔することなくどこまでも澄み切った味わい……。こんな……こんな吸い物を俺は飲んだことがない……!」
京伝様は我を忘れたように次々とお猪口に汁を注ぎ、その至福の味わいに酔いしれている。
やがて土瓶の中の具材にも箸を伸ばし、その一つ一つの味を確かめるように味わっていた。
「……参った。……参ったな、こいつは」
全てを食べ終えた頃、京伝様は深く長いため息をつくと、まるで憑き物が落ちたかのような穏やかな顔で私を見つめた。
「女将。あんたの勝ちだ。こんな見事な料理を出されちまったら、悪口なんぞ書けるはずもねえや」
「お口に合いましたようで、何よりでございます」
「ああ。……なあ女将。少し話を聞いてくれねえか」
京伝様はぽつりぽつりと自分の胸の内を語り始めた。
江戸一番の戯作者としての重圧。新しいものを生み出し続けなければならない焦り。そして最近どうにも面白い話が思い浮かばず、筆が進まないという苦しみ。
「江戸中の人間が俺の次の戯作を待っている。その期待が重くて苦しくてな。何を書けばいいのか何が面白いのか、自分でもわからなくなっちまったんだ」
その横顔はひどく寂しそうだった。
私は黙って彼の話を聞いていた。そして炊き場からそっと一つの土鍋を運んできた。
「京伝様。よろしければこちらも召し上がってくださいな」
蓋を開けると湯気と共に、ふわりと甘い香りが立ち上った。
土鍋の中にはつやつやと輝く栗ご飯。
「……栗ご飯か。ずいぶんと素朴なものが出てきたな」
「はい。時には奇をてらったお話ばかりでなく、このような素朴な味もよろしいのではございませんか。人の心に本当に届くのは案外、このような飾らない温かさなのかもしれませんわ」
私の言葉に京伝様ははっとしたように顔を上げた。
彼はしばらくの間黙って栗ご飯を見つめていたが、やがてゆっくりとそれを一口、口に運んだ。
栗のほっくりとした優しい甘みと、もちもちとしたご飯の食感。隠し味の塩昆布が全体の味をきりりと引き締めている。
「……そうか。……そうだったな」
京伝様の目からぽろりと一筋、涙がこぼれ落ちた。
「俺は忘れちまってたんだ。一番大切なことを。……人を喜わ喜ばせたい、楽しませたい。ただその一心で物語を書いていた、あの頃の気持ちを。……ありがとうよ女将。あんたのこの栗ご飯が俺に思い出させてくれたぜ」
京伝様は涙で濡れた顔のまま、にかりと笑った。その顔は店に来た時とは比べ物にならないほど晴れやかで、そして力強かった。
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