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◇◇◇コバンザメ◇◇◇
◇3◇ 初恋
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マリに連れられて行ったライブで、珠子はソノヤ先輩と出会った。高校一年の秋だった。
軽音部で活動しているバンドばかりが集まって、年に一度開催する、発表会のようなライブ。マリの彼氏がボーカルのバンドを、付き添いのような感じで観に行った。そのバンドのギタリストがソノヤ先輩だった。
軽音部と、在校生に限らず近隣の高校に通う生徒や先輩なんかがごっちゃりと集まった満員のライブハウスは、ただ観ているだけの珠子の気持ちまでも高揚させた。薄暗いフロアの所々で派手なカラーを放つネオン管の光が、楽しそうに笑う人の横顔を照らしている。チケットと交換でもらえるソフトドリンクを目当てに並んだ人たちからは陽気なおしゃべりも聞こえてくる。人が発する熱気で室温も高い。手にした紙コップの中の氷がひんやりして気持ちいい。
出演バンドが代わる代わる演奏する。特別に音楽が好きということもなかったけれど、自分がかなりの音楽ファンで、今まさにブレイクしそうなバンドを追いかけている、そんな感じがした。たぶん、あの日あそこにいたみんなが、おなじ気持ちだったと思う。ライブが終わっても帰る気にはなれず、道端でだらだらとおしゃべりを続け、いつのまにかマクドナルドに場所を変えての打ち上げになった。そしてそこで、珠子はソノヤ先輩に電話番号を訊かれた。
軽音男子は人気があった。とくにソノヤ先輩のまわりには、いつも後輩女子がわさわさとひっついていた。
「先輩いちども電話くれないの、なんでー?」
女の子はいつでも甘い声をだし、
「オレはチャラチャラするつもりはないから」
「えーっ、いじわるーっ」
ソノヤ先輩が相手にしないと、さらに甘えた声をだした。
そんなソノヤ先輩だったけれど、珠子には電話をしてきた。
「オレが電話をかけるのはタマコちゃんだけ。秘密な」
人気者の先輩にそんなふうに言われたら、誰でも舞い上がってしまうに決まっている。珠子はソノヤ先輩に恋をした。
はじまりはそんなだった。初恋だった。ソノヤ先輩の態度に好意を感じたから好きになったのかもしれない。マリには彼氏がいたから私もって、思っただけかもしれない。けれど初めて観たライブで演奏するソノヤ先輩はキラキラしてみえた。笑顔がステキだって思った。目が離せなかった。それは本当のことだった。
ときどきかかってくる電話が嬉しかった。今日、かかってきてほしいと電話を待ったり、もしかしたらかかってくるかもしれないと気になってなかなかお風呂にはいれなかったり。先輩の発する「タマコちゃん」が「タマコ」に変わったときは、なにかあるんじゃないかとドキドキした。
一度だけ、校門を出てすぐの角の公園で待ち合わせをして、一緒に帰った。ギターケースを背負い、自転車を押して歩いている先輩に申し訳ない気がして、何度も謝って笑われた。
「タマコは気にしいだな」
そういって先輩は珠子の頭を優しくポンポンした。
東京の大学に進学すると聞いたときは胸が張り裂けそうだった。でも、合格したと聞いたときは嬉しかった。喜んでいるソノヤ先輩の声にワクワクした。先輩は、東京へ引っ越していってしまってからも、一か月に一度か二度、珠子に電話をくれた。
そうして気が付いたら、出会いから二年が経っていた。
東京駅に着くと珠子は電話をした。ソノヤ先輩に、初めて自分からする電話。公衆電話の固いボタンを押す指が震えた。呼び出し音が始まる前に深呼吸をした。つながった瞬間は胸がドキリとした。けれど先輩の声は聞こえない。機械的な女の人の声で留守電が応答しただけだった。
「タマコです。かけなおします」
それだけ言って電話を切る。
どうしよう。あたりの騒々しさが急に、珠子には恐ろしいもののように感じられた。大勢の人が行き交う通路から逃れるように少し外れて、それでも追いかけてくるザワザワとした感じに、耳を塞ぎたくなる。なるべくはやく、ここを離れたいと思う。
そうだ、東中野。駅の名前が頭に浮かんだ。ソノヤ先輩が話題にするたびに、路線図を調べ、街の様子を想像してきた場所。先輩は駅前のコンビニのすぐ裏のマンションの、八階に住んでいると言っていた。探せばわかるかもしれない。
そう思ったら、まわりの騒々しさも、足早に歩く大勢の人影も気にならなくなった。軽やかになった頭で案内板を確認し、身体を動かす。
駅も、コンビニも、珠子が頭の中に思い浮かべていたとおりで、嬉しくなった。ここでソノヤ先輩が暮らしている。そう思うとポストも自動販売機も見逃してはいけないような気がした。年季の入った電話ボックスが目に留まる。ここに引っ越してきたばかりのとき、ソノヤ先輩はこの公衆電話を使って、珠子に電話をしたのかもしれない。受話器に触れたい。そう思ったけれど、先を急ぐ。
コンビニの裏のマンションはすぐに見つかった。小さなエントランスの扉は開けっぱなしになっている。入ってすぐのところには名札のついた集合ポストがある。
「ソノヤ、園谷」
先輩の名前を探してハッとした。部屋番号は500番台までしかない。マンションは五階建てだった。
建物をまちがえたのだ。慌ててコンビニまで戻り、あたりを見回わす。けれど、さっきのビル以外は明らかに住宅用ではない建物ばかりだった。
「なんでー?」
一瞬にして、わけがわからなくなる。
何度も聞いた東中野という地名にまちがいはないはず。他に手掛かりになるような話はなかったっけ。駅の反対側だったのかも。思いつくとすぐ、駅に戻った。改札の前を通り過ぎ、反対口へ出る。見える範囲にコンビニはない。
珠子はすぐわきにあった電話ボックスに入った。先輩に電話する。今度はすぐにつながった。
「どうした、タマコ。珍しいな、電話してくるの」
「先輩、私、東京に来ちゃいました」
「なによ、卒業旅行? ディズニー行くとか?」
「そういうんじゃなくって……あの、先輩のとこ、行ってもいいですか? 近くまで来てるんで」
「え、なに? どういう意味?」
「駅にいます……東中野駅です」
「は?」
「先輩の家、探せると思ったんだけと見つからなくって」
「探すって……悪いけどオレ、引っ越したんだわ」
「えっ、引っ越し?」
「つうか、おまえ、まさか家出? なに考えてんだか。悪いことは言わねえから、夕方まで遊んで帰れ。新幹線は終電早いから気をつけんだぞ。またそのうち電話すっから。じゃあな」
「せ……」
珠子が言葉を発する前にガチャリと、電話は切られた。
こんなふうに、珠子は昨日、失恋した。憧れていた場所であるはずの東京の、駅前の電話ボックスの中で。
軽音部で活動しているバンドばかりが集まって、年に一度開催する、発表会のようなライブ。マリの彼氏がボーカルのバンドを、付き添いのような感じで観に行った。そのバンドのギタリストがソノヤ先輩だった。
軽音部と、在校生に限らず近隣の高校に通う生徒や先輩なんかがごっちゃりと集まった満員のライブハウスは、ただ観ているだけの珠子の気持ちまでも高揚させた。薄暗いフロアの所々で派手なカラーを放つネオン管の光が、楽しそうに笑う人の横顔を照らしている。チケットと交換でもらえるソフトドリンクを目当てに並んだ人たちからは陽気なおしゃべりも聞こえてくる。人が発する熱気で室温も高い。手にした紙コップの中の氷がひんやりして気持ちいい。
出演バンドが代わる代わる演奏する。特別に音楽が好きということもなかったけれど、自分がかなりの音楽ファンで、今まさにブレイクしそうなバンドを追いかけている、そんな感じがした。たぶん、あの日あそこにいたみんなが、おなじ気持ちだったと思う。ライブが終わっても帰る気にはなれず、道端でだらだらとおしゃべりを続け、いつのまにかマクドナルドに場所を変えての打ち上げになった。そしてそこで、珠子はソノヤ先輩に電話番号を訊かれた。
軽音男子は人気があった。とくにソノヤ先輩のまわりには、いつも後輩女子がわさわさとひっついていた。
「先輩いちども電話くれないの、なんでー?」
女の子はいつでも甘い声をだし、
「オレはチャラチャラするつもりはないから」
「えーっ、いじわるーっ」
ソノヤ先輩が相手にしないと、さらに甘えた声をだした。
そんなソノヤ先輩だったけれど、珠子には電話をしてきた。
「オレが電話をかけるのはタマコちゃんだけ。秘密な」
人気者の先輩にそんなふうに言われたら、誰でも舞い上がってしまうに決まっている。珠子はソノヤ先輩に恋をした。
はじまりはそんなだった。初恋だった。ソノヤ先輩の態度に好意を感じたから好きになったのかもしれない。マリには彼氏がいたから私もって、思っただけかもしれない。けれど初めて観たライブで演奏するソノヤ先輩はキラキラしてみえた。笑顔がステキだって思った。目が離せなかった。それは本当のことだった。
ときどきかかってくる電話が嬉しかった。今日、かかってきてほしいと電話を待ったり、もしかしたらかかってくるかもしれないと気になってなかなかお風呂にはいれなかったり。先輩の発する「タマコちゃん」が「タマコ」に変わったときは、なにかあるんじゃないかとドキドキした。
一度だけ、校門を出てすぐの角の公園で待ち合わせをして、一緒に帰った。ギターケースを背負い、自転車を押して歩いている先輩に申し訳ない気がして、何度も謝って笑われた。
「タマコは気にしいだな」
そういって先輩は珠子の頭を優しくポンポンした。
東京の大学に進学すると聞いたときは胸が張り裂けそうだった。でも、合格したと聞いたときは嬉しかった。喜んでいるソノヤ先輩の声にワクワクした。先輩は、東京へ引っ越していってしまってからも、一か月に一度か二度、珠子に電話をくれた。
そうして気が付いたら、出会いから二年が経っていた。
東京駅に着くと珠子は電話をした。ソノヤ先輩に、初めて自分からする電話。公衆電話の固いボタンを押す指が震えた。呼び出し音が始まる前に深呼吸をした。つながった瞬間は胸がドキリとした。けれど先輩の声は聞こえない。機械的な女の人の声で留守電が応答しただけだった。
「タマコです。かけなおします」
それだけ言って電話を切る。
どうしよう。あたりの騒々しさが急に、珠子には恐ろしいもののように感じられた。大勢の人が行き交う通路から逃れるように少し外れて、それでも追いかけてくるザワザワとした感じに、耳を塞ぎたくなる。なるべくはやく、ここを離れたいと思う。
そうだ、東中野。駅の名前が頭に浮かんだ。ソノヤ先輩が話題にするたびに、路線図を調べ、街の様子を想像してきた場所。先輩は駅前のコンビニのすぐ裏のマンションの、八階に住んでいると言っていた。探せばわかるかもしれない。
そう思ったら、まわりの騒々しさも、足早に歩く大勢の人影も気にならなくなった。軽やかになった頭で案内板を確認し、身体を動かす。
駅も、コンビニも、珠子が頭の中に思い浮かべていたとおりで、嬉しくなった。ここでソノヤ先輩が暮らしている。そう思うとポストも自動販売機も見逃してはいけないような気がした。年季の入った電話ボックスが目に留まる。ここに引っ越してきたばかりのとき、ソノヤ先輩はこの公衆電話を使って、珠子に電話をしたのかもしれない。受話器に触れたい。そう思ったけれど、先を急ぐ。
コンビニの裏のマンションはすぐに見つかった。小さなエントランスの扉は開けっぱなしになっている。入ってすぐのところには名札のついた集合ポストがある。
「ソノヤ、園谷」
先輩の名前を探してハッとした。部屋番号は500番台までしかない。マンションは五階建てだった。
建物をまちがえたのだ。慌ててコンビニまで戻り、あたりを見回わす。けれど、さっきのビル以外は明らかに住宅用ではない建物ばかりだった。
「なんでー?」
一瞬にして、わけがわからなくなる。
何度も聞いた東中野という地名にまちがいはないはず。他に手掛かりになるような話はなかったっけ。駅の反対側だったのかも。思いつくとすぐ、駅に戻った。改札の前を通り過ぎ、反対口へ出る。見える範囲にコンビニはない。
珠子はすぐわきにあった電話ボックスに入った。先輩に電話する。今度はすぐにつながった。
「どうした、タマコ。珍しいな、電話してくるの」
「先輩、私、東京に来ちゃいました」
「なによ、卒業旅行? ディズニー行くとか?」
「そういうんじゃなくって……あの、先輩のとこ、行ってもいいですか? 近くまで来てるんで」
「え、なに? どういう意味?」
「駅にいます……東中野駅です」
「は?」
「先輩の家、探せると思ったんだけと見つからなくって」
「探すって……悪いけどオレ、引っ越したんだわ」
「えっ、引っ越し?」
「つうか、おまえ、まさか家出? なに考えてんだか。悪いことは言わねえから、夕方まで遊んで帰れ。新幹線は終電早いから気をつけんだぞ。またそのうち電話すっから。じゃあな」
「せ……」
珠子が言葉を発する前にガチャリと、電話は切られた。
こんなふうに、珠子は昨日、失恋した。憧れていた場所であるはずの東京の、駅前の電話ボックスの中で。
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