1 / 3
1/3話
しおりを挟む
声をかけたら負けだ。
誰に負けるかって? そんなの、自分に決まっている。ドキドキに耐えて待って、耐え切れないという自分の弱さに勝つ。耐え難き動悸に打ち勝ってこそ、喜びも大きいというもの。どっちが先に好きだと告白するか、そういうのに似ている。好きなになったのはこちらが先だとしても、先に行ってはダメだ。好きだと言われたい。言って欲しい。言わせたい。
手にしたスマホのむこうにバレエシューズのつま先が見えた。近づこうか、声をかけようか、どうしようか、そんなふうに迷っている気配がうかがえる。
まだだ。まだ顔をあげてはいけない。わたしはギリギリまで気が付かないフリをする。
「あのう、すみません、ひとえうめさんですか?」
名前を言われる直前くらい、「あのう、すみません」くらいのタイミングで顔をあげる。
「はい、ひとえうめです。ええっと、チップさんですか? はじめまして」
小さすぎず、大きすぎもしない声がでるように気をつけて挨拶をする。
お互いになんとなくホッとするような、それでいて緊張するような、複雑な表情を浮かべて向かい合うこのときが、わたしは好きだ。
二回目があるわけでもないのに、「はじめまして」の挨拶は必要だろうか、とか、待ち合わせしている相手以外が名前を確認して話しかけて来るなんてことはないってわかっているのに相手の名前を問い返す必要があるのだろうか、とか、冷静に考えるとツッコミどころが満載の会話なのだけれど、こういうときのやりとりすべてが、わたしは好きだった。
相手の顔を眺めてニヤニヤしていたいような気持ちになる。それでも、ずっとこうしてはいられない。
挨拶のあとはテキパキと、さりげなく人通りを妨げない場所へと避けるようにする。リードしていることを悟られないくらい自然な感じで身体を動かす。相手から話を切り出される前に先にチケットを、きちんと袋から取り出した状態で見せる。「やましいことはありませんから、どうぞ確認してください」、そういう姿勢をきちんと示す。「どうぞそのままチケットは仕舞ってくれてもいいですよ」、そんな気持ちも前面に出す。
なまなましいから支払いの現金は封筒に入れて渡してくれる、そういう人がほとんどだけれど、封筒を受け取ったらコソコソしたりせずに堂々と、
「ありがとうございます」
言葉とともに中身を確認する。
「まちがいなくいただきました」
はっきりさっぱり、軽やかに明るく。短時間のやりとりですべてを示す。この過程のひとつひとつが、わたしにとっては楽しくてたまらない。
いくらでも続けていたいくらいだけれど、そうもしてはいられない。楽しい時間はあっという間に過ぎ、すぐに終わりを迎えなければいけないと相場が決まっている。
「空席を作っちゃうことにならなくてよかった。ありがとうございました」
別れの言葉も先に切り出さなければならない。やんわりと心から思っている言葉を口にして、「また」とか、「連絡する」とか、そういうことは言わないようにする。言ってしまったら負けなのだ。自分自身の欲望に負けることになる。そんなものに負けてはいけない。
そしてどんなに後ろ髪を引かれようと、さくっとその場を離れる。決していつまでも手を振って見送ったりしてはいけない。種まきは終わったのだ。芽が出て実を結ぶ運命の出会いならば、自然とその機会は訪れる。そのためにも気持ちよく別れておこう。
わたしはこうと信じるセオリー通り、振り返ることなく足早に、わざと人の多い方向を選んで歩みを進めた。
こんなことを月に何度かしている。インターネットの世界には、「譲ります」、「譲ってください」、そんな言葉が溢れている。わたしもおなじフレーズを投稿し、譲ったり、譲られたりを繰り返している。譲ることのほうが圧倒的に多いのだけれど。
近頃は転売を問題視して、いろいろな策が練られているようだけれど、チケットの発売方法には問題がある。早い者勝ちの電話受付をしていた時代を経て、抽選というシステムが導入されてはいるけれど、それでもあまり目覚ましい変化が遂げられていないところをみると、解決不能な問題なのかもしれない。
人気のチケットに申し込みは殺到する。だから抽選販売にする。それはわかる。そうなると、当たらないから何口も申し込む人が出て来る。それもわかる。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産される。ぜんぶ自然なことだ。譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくるということも。
電話がつながらないから、何度も何度も連続してかける。それでもつながらないから、かける人を増やす。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産され、譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくる。今も昔もおんなじだ。
そしてそんな状況は、わたしもおなじ。わたしも譲ったり、譲られたりしている。ただ、わたしの場合は、譲ったり譲られたりがしたくてしているから、そこだけはちがっている。高値で転売して差額利益を得たいとか、そういうのではない。ただわたしは譲ったり譲られたりというプロセスを行いたいのだ。
手間暇をかけてチケットを譲ったり譲られたりする。それ自体が目的でしているという点において、わたしの行為は他の人とはちがっていた。
誰に負けるかって? そんなの、自分に決まっている。ドキドキに耐えて待って、耐え切れないという自分の弱さに勝つ。耐え難き動悸に打ち勝ってこそ、喜びも大きいというもの。どっちが先に好きだと告白するか、そういうのに似ている。好きなになったのはこちらが先だとしても、先に行ってはダメだ。好きだと言われたい。言って欲しい。言わせたい。
手にしたスマホのむこうにバレエシューズのつま先が見えた。近づこうか、声をかけようか、どうしようか、そんなふうに迷っている気配がうかがえる。
まだだ。まだ顔をあげてはいけない。わたしはギリギリまで気が付かないフリをする。
「あのう、すみません、ひとえうめさんですか?」
名前を言われる直前くらい、「あのう、すみません」くらいのタイミングで顔をあげる。
「はい、ひとえうめです。ええっと、チップさんですか? はじめまして」
小さすぎず、大きすぎもしない声がでるように気をつけて挨拶をする。
お互いになんとなくホッとするような、それでいて緊張するような、複雑な表情を浮かべて向かい合うこのときが、わたしは好きだ。
二回目があるわけでもないのに、「はじめまして」の挨拶は必要だろうか、とか、待ち合わせしている相手以外が名前を確認して話しかけて来るなんてことはないってわかっているのに相手の名前を問い返す必要があるのだろうか、とか、冷静に考えるとツッコミどころが満載の会話なのだけれど、こういうときのやりとりすべてが、わたしは好きだった。
相手の顔を眺めてニヤニヤしていたいような気持ちになる。それでも、ずっとこうしてはいられない。
挨拶のあとはテキパキと、さりげなく人通りを妨げない場所へと避けるようにする。リードしていることを悟られないくらい自然な感じで身体を動かす。相手から話を切り出される前に先にチケットを、きちんと袋から取り出した状態で見せる。「やましいことはありませんから、どうぞ確認してください」、そういう姿勢をきちんと示す。「どうぞそのままチケットは仕舞ってくれてもいいですよ」、そんな気持ちも前面に出す。
なまなましいから支払いの現金は封筒に入れて渡してくれる、そういう人がほとんどだけれど、封筒を受け取ったらコソコソしたりせずに堂々と、
「ありがとうございます」
言葉とともに中身を確認する。
「まちがいなくいただきました」
はっきりさっぱり、軽やかに明るく。短時間のやりとりですべてを示す。この過程のひとつひとつが、わたしにとっては楽しくてたまらない。
いくらでも続けていたいくらいだけれど、そうもしてはいられない。楽しい時間はあっという間に過ぎ、すぐに終わりを迎えなければいけないと相場が決まっている。
「空席を作っちゃうことにならなくてよかった。ありがとうございました」
別れの言葉も先に切り出さなければならない。やんわりと心から思っている言葉を口にして、「また」とか、「連絡する」とか、そういうことは言わないようにする。言ってしまったら負けなのだ。自分自身の欲望に負けることになる。そんなものに負けてはいけない。
そしてどんなに後ろ髪を引かれようと、さくっとその場を離れる。決していつまでも手を振って見送ったりしてはいけない。種まきは終わったのだ。芽が出て実を結ぶ運命の出会いならば、自然とその機会は訪れる。そのためにも気持ちよく別れておこう。
わたしはこうと信じるセオリー通り、振り返ることなく足早に、わざと人の多い方向を選んで歩みを進めた。
こんなことを月に何度かしている。インターネットの世界には、「譲ります」、「譲ってください」、そんな言葉が溢れている。わたしもおなじフレーズを投稿し、譲ったり、譲られたりを繰り返している。譲ることのほうが圧倒的に多いのだけれど。
近頃は転売を問題視して、いろいろな策が練られているようだけれど、チケットの発売方法には問題がある。早い者勝ちの電話受付をしていた時代を経て、抽選というシステムが導入されてはいるけれど、それでもあまり目覚ましい変化が遂げられていないところをみると、解決不能な問題なのかもしれない。
人気のチケットに申し込みは殺到する。だから抽選販売にする。それはわかる。そうなると、当たらないから何口も申し込む人が出て来る。それもわかる。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産される。ぜんぶ自然なことだ。譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくるということも。
電話がつながらないから、何度も何度も連続してかける。それでもつながらないから、かける人を増やす。その結果、当たり過ぎる人と当たらない人が量産され、譲りたい、譲ってほしい、そう願う人が出てくる。今も昔もおんなじだ。
そしてそんな状況は、わたしもおなじ。わたしも譲ったり、譲られたりしている。ただ、わたしの場合は、譲ったり譲られたりがしたくてしているから、そこだけはちがっている。高値で転売して差額利益を得たいとか、そういうのではない。ただわたしは譲ったり譲られたりというプロセスを行いたいのだ。
手間暇をかけてチケットを譲ったり譲られたりする。それ自体が目的でしているという点において、わたしの行為は他の人とはちがっていた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる