恋風

高千穂ゆずる

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月季花

(2)

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 騒々しい音を立てながら、二十歳を過ぎた大の男がアニキと連呼しながら廊下を駆け抜けていく。
 壁一枚向こうには、診察に訪れている患者が数人。いつものことよと笑っている。
 診察室では、診療中の院長が苦虫を噛み潰したような顔で、愚息の名前を舌打ちしながら呟いた。
 居合わせた患者と看護婦が同時に吹き出し、院長の表情とは正反対の、和んだ空気に診察室は包まれた。
 大学の卒業旅行から兄、雪也が戻ったという報せを聞いた喬一が、出先から慌てて戻ってきたのである。
 ノックもしないでいきなり部屋に飛び込むと、兄は戻ったばかりのようで、旅行鞄から着替えなどを取り出しているところだった。
「おかえり! 旅行は楽しかったか?」
 無邪気に腕を絡ませてくる弟のはしゃぎ振りに、半ば呆れたような笑みを浮かべ、雪也は、ああ楽しかったよと答えた。
「向こうはまだ雪が残っていてとても綺麗だった。今度は喬一も一緒に行こうな」
 身体をぴたりと寄せてくる弟の頭を撫でながら、激しく脈打つ鼓動を静めようと雪也は必死になる。
 触れ合っている箇所が次第に熱を帯び始め、それはじわりじわりと身体を侵蝕し始める。その心中に気づかない喬一は、先ほどの誘いに屈託のない笑顔で大きく頷いて答えていた。
 片付けがあるから部屋を出るように言うと、喬一が子供のような不平を漏らす。
 機嫌を取るように、「コーヒーでも飲みに行こう」と喫茶店へ誘ってやると、喬一はいくらかの未練を残しながら、絡めた腕を解いた。
「じゃあ、下で待ってるからな!」
 扉が小さな音を立てて閉まる。喬一の軽やかな足音が廊下を進み、階段へ差し掛かる辺りで静かに消えた。
 扉の向こうから一切の音が消えると、雪也の全身からどっと汗が噴き出した。
 脳裏には、旅行前夜に盗み見た弟の自慰に耽る姿が思い出されていて、下肢に甘い痺れが走る。
 喬一に触れられた腕を擦りながら、その名前を呟いた。蘇る記憶を抑えようとすればするほど、自慰に耽る弟の淫靡な姿が鮮明に思い起こされてよけいに疼く。
 触れているわけでもないのに、卑猥な姿を思い起こすだけでそこは滾り始め、吐き出すしか方法はなくなる。
 雪也はそろりと立ち上がり、先ほど喬一が出て行った扉を施錠した。戻っては来ないとわかっていても、これから行う行為に少なからず罪悪感を抱いているから、不安がよぎる。
 雪也はドアに凭れながら座り込んだ。足をゆっくりと広げ、はちきれそうになっている自身をズボンの中から解放してやる。茎を柔らかく握りこみ、すでに先端から滲み出ているぬめりを人差し指で拭い、茎全体に塗りこんだ。緩やかな手の動きに、焦れったそうに腰を浮かせた。
 両膝を立て、あの晩の喬一と同じ格好で自慰に耽る。その中で、雪也はけして喬一を抱くこともなく、また抱かれてもいない。
 乱れた姿を思うだけで達することができる。
 ぎしぎしと規則的に軋むベッドに合わせ、部屋に響く喬一の喘ぎ声。吐息と共に吐き出される白濁の液体──。
 それらがみな愛しかった。
 見ているだけでいいと思っていたのに、ふと喬一の無邪気な笑顔を思い出した。
 密度を増すその欲情は、天真爛漫な笑顔にすら欲情してしまえるのだ。胸を襲う虚しさは日を追うごとに酷くなっていく。
「腹を決める頃か……」
 いっそ罵られ、貶められる方が気が楽になる、と雪也は一切を明かす決心をした。

 喬一は自分の耳を疑った。
 二人のいる喫茶店はそこそこ混んではいたが、目の前の兄の言葉を聞き違えるほどではないし、なにより雪也の言葉を俄かに信じることができなかったのだ。
「何度も同じことを言わせるなよ」
 雪也は視線をコーヒーの中へと泳がせ、自嘲気味に笑った。喬一は黙ったままこちらをみつめている。雪也はカップを持ち上げ、一旦は口元に運んだ手を止めた。
「軽蔑するか? 俺のこと……」
 そう問うた後、コーヒーを一口含んだ。
 喬一はふるふると小さく頭を振り、落ち着きなくカップの縁をなぞった。
「しないさ、そんなの。だって……アニキはアニキだからさ」
 ただ、と言って喬一は口を閉じた。逡巡しているようだ。雪也はその後の言葉を聞くのが怖くて仕様がなかった。兄は兄だからと言ってくれているが、果たして額面通りに受け取っていいものだろうか。
 掌にじわりと汗が滲み出てくる。
 喬一は喬一でこの兄の告白を、胸をときめかせて聞いていたのだ。俄かには信じられないと思ったのは、兄の性癖が特異だからなどではない。自分の自慰を見て興奮し、自らも同じ行為に走り満足したと言ったからだ。
 物心ついた時から邪まな想いを秘めていた喬一にとって、これは兄からの愛の告白だった。長年の片思いが成就した瞬間なのである。
 だからこそ俄かには信じられなかった。性癖の問題など瑣末なことだ。
 両手で握り込んでいるカップの中身がすでに冷え始めていた。雪也は、涼しげな表情で何事もないようにコーヒーを飲んでいる。
 喬一は口内に溜まっていた唾液を飲み込み、俺は嬉しいとぽつりと呟いた。
 雪也がカップを置いた。その顔は驚きを隠せないでいるようだ。喬一はたどたどしく言葉を続けた。
「気の利いたことが言えたらいいんだろうけど。生憎オレはバカだからそんなものは出てこない」
「喬一の口から気の利いた言葉なんて、期待していないさ」
 そう答える雪也の顔は安堵で綻んでいた。
「もう一度訊くけど。アニキはオレの……そういうところを見ると……興奮するのか?」
 雪也は躊躇いがちに、ああ、と頷いた。
「俺は視ることでしか快楽を得られない類の人間なんだろう。だから、喬一とどうにかなりたいとか、そういうことじゃないんだ。ただ、こうして真実を打ち明けて楽になりたかっただけのように思う。お前の気持ちなんて何も考えてやしないロクでもない兄だ、俺は」
「いいや、そんなことはないよ。オレは嬉しいんだ。本当に嬉しいと思っているんだ。だってオレは……子供の頃から、もうずっと好きだったんだから」
 喬一はいつになく真剣な面持ちで気持ちを吐露した。
「このオレがアニキを満足させているのかって思うと、心が震えるよ」
「だけどな喬一。俺はお前に触れようとは思わない」
 雪也はカップをソーサーごと横にずらした。
「俺は触れては感じられないんだ。視るだけだ。お前の痴態を視ることでしか俺は達することができない」
 視ているだけなんだと、念を押すように雪也は言う。喬一は頷くことしか出来なかった。頷いて、それでいて頭の中では兄を満足させるための青写真を描いていた。

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