恋風

高千穂ゆずる

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最たる薫風

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 仏文学を専攻するならこれぐらいは読んでおけと、兄に手渡されたメモに目を通しながら、喬一は目当ての本を物色していた。特に仏文学が好きというわけではなかった。専攻科目に頭を悩ませていた時に、たまたまテレビでやっていた映画の内容がそうだったというだけで、面白いかなと呟いたのを兄が聞き逃さずにいて、それならこれを読んでおけということになったのだ。
 小難しい表題ばかりで喬一は閉口した。それでも兄の言うことには逆らわず、こうして本屋まで探しに来ている辺りが喬一らしいところでもあった。
 目的の本を見つけ、レジスターへと向かう。会計を済ませ釣りを受け取ると、店主の背後の窓越しにいつかの少年の姿をみつけた。店を飛び出し、後を追う。
「亮!」
 数メートル先の歩道をとぼとぼと歩いていた少年が、くいっと振り返り、こちらをじっと見たまま首を傾げている。
 喬一は胸を高鳴らせていた。別れ際に告げられた、もう会うことはないという台詞。しかし、こうして彼は今自分の目の前にいる。
「どうした? またお遣いに出されているのか?」
 目を見開いたままの少年の頬が、一気に赤く染め上がった。
「ど、どうした」
 喬一はみっともなく狼狽えた。こんな反応を予想していたわけではなかったからだ。少年は喬一の顔をみつめたまま、会えて嬉しいと言って微笑んだ。亮の素直な言葉に喬一の顔も綻ぶ。
「今、忙しいか?」
「いいえ。大丈夫です」
 本当は早く帰らなければならなかったが、喬一に会えた嬉しさから、亮はつい嘘を吐いた。
「どこか二人になれる場所へ移動しよう」
 掌に収めた少年の華奢な指先を、喬一は嬉しく思いながら握り締め、歩き出した。

「オレのお気に入りの場所だ」
 喬一は亮を川原に連れて来た。広々とした土手沿いに道が一本あり、人通りも少ないここなら人目にもつかないだろう。喬一は少し傾斜になった草原にごろりと横になった。亮はその傍らに腰を下ろし、自分から離れてしまった喬一の手を名残惜しそうにみつめた。
「どうした? なんか言いたげだな」
横になったままの喬一が声を掛けた。
 亮は、あの、と言いかけて口篭る。恥ずかしそうに俯いて、視線だけを向ける。
 喬一がその手を膝に乗せてやると、弾けるように亮は目を瞑り、自分の手をその上に重ねた。
「まだ離して欲しくなかったから」
 小さく呟く亮の手を、喬一は握り締めた。柔らかな手がぴくりと反応して、恐る恐る指を絡めてくる。それを捕らえるように強く握り締めると、息を飲むように亮は小さな声をあげた。
 少年の掌で喬一の指が怪しく蠢く。くすぐったいその感覚が堪えきれず、亮は止めてくれるよう懇願した。喬一が身体を起こして見ると、亮は耳朶まで赤くして我慢していた。
 庇護欲をそそるその様であるのに、喬一の中にひとつの思いが生まれた。
 この身体を押さえつけて征服してみたい。亮はいったいどんな声で泣くだろう。どんな声をあげるのだろう。
 喬一はその手を引き寄せた後、亮を草むらに押し倒した。少年は容易に倒れこみ、慌てて起き上がろうとしたところを喬一が覆い被さった。
 あまりの唐突な出来事に亮は驚いて、腕を伸ばし、迫る青年の身体を押し留めようとする。
泣きそうになりながら自分の名前を呼ぶ亮の声で、喬一ははたと我に返った。腕の下で、瞳を潤ませ見上げている無垢な少年は、かたかたと歯を鳴らして震えている。
 喬一は亮の言葉を思い出していた。
 ──ぼくは男だから客を取ったりしません──。
 下働きとして奉公している少年に懸想しても、報われるわけがない。
 それでも力ずくで陵辱すれば、最後には言うことを聞くのではないかという、恐ろしい自分の考えに喬一は頭を振った。
 月季花での扱われようを知っているのに、更なる仕打ちをするというのか。喬一が怖い思いをさせて悪かったと謝ると、亮の声は意外にも落ち着いていた。
「少し驚いてしまったけど、ぼく。嫌じゃありません」
 喬一は自分の耳を疑った。唾をごくりと飲み込み、その言葉の続きを待った。
 亮は喬一の手を自分の胸に宛がい、ほらと言って上目遣いで見た。
「ぼくの鼓動を感じますか? ドキドキいってる。でもこれは喬一さんを怖がっているからじゃありません。その逆です。ぼくは……。ぼくは喬一さんに触れてもらえてとても嬉しいんです。もっともっと喬一さんにはぼくに触れて欲しいと思っています。……喬一さんが嫌でなければ」
「嫌なわけがあるか」
 亮が言い終えないうちに喬一は答えていた。
「オレもお前に触れたくて。抑えが利かなくなって。それで何も訊かずに押し倒したんだ」
「喬一さんが……ぼくを、……抱こう、としたのなら……――お願いがあります」
「オレも亮に頼みがあるんだ」
「抱いて欲しい」
「抱かせてくれ」
 亮は生きていく価値を求める為に──。
 喬一は慕う兄の欲を満たす為に──。

 喬一は、亮の手を引き月季花へと向かっていた。時折視線が絡まると、決まって彼は赤くなって下を向いた。その様がとても可愛らしくて、店へと向かう足取りが急いてしまうのも頷ける話だ。
 亮を買い受ける契約のために、二人は月季花へ急いでいた。彼自身が何も知らないために、店主からいったい幾ら吹っかけられるか見当もつかなかったが、それでも喬一の腹は決まっていた。
 だから、どんな金額を提示されても受けて立つ覚悟であったし、それくらいしてもいいと思えるほどに思慕は高まっていた。
 夕暮れ前の花街はどこか物悲しげな雰囲気に包まれていたが、今の二人にそんなものは感じられない。どんな形であれ、亮は望んだ相手と結ばれるのだし、喬一は慕う兄の欲求に答えることができるのだから、互いの心は喜びに満ち溢れていた。
 亮が店の表玄関の引き戸を開けると、入れ違いに人が出てきた。娼妓たちの支度も整わないこんな早い時間に客だろうかと、客と思しきその人物に目をやった。するとその脇から女将が例の猫撫で声を出していた。
「田畑さん。それじゃあ、よしなにね」
 女将は意味有りげにこちらを見た後、すぐさまその視線を田畑と呼んだ中年男へと戻し、いいお返事を期待していますよ、旦那と続けた。
 中年男はまず喬一に一瞥をくれた後、その横で寄り添うように立っている亮を見た。
 喬一が、男の不躾な視線からかばうように亮の前に立つ。
「ま。期待は程々にな。今日び、懐の温かい話なんざ聞かないご時世だ」
 帽子を目深に被り、それじゃ失礼するよと男は言って店を出た。
 喬一は小さく舌打ちをしてから女将に声を掛けた。
「女将。ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
 喬一のぞんざいな物言いに女将の顔が一瞬曇ったが、金に関して鼻の利く女である。目の前の横柄な態度を取っている若造が、町一番の病院の息子と知っていて無下にするはずがなかった。
 女将は奥の座敷へと喬一を案内した。
 亮は座敷の戸口の傍へ控えるように座った。喬一は火鉢を挟んで女将と向かい合っている。
「単刀直入に言う。亮を買い受けたい」
 へえそうかいと、女将は気のない返事をしながら、ごそごそと文机の引き出しを引っ掻き回している。
 喬一の顔が苛立ちからか強張った。それをどうにか押さえ込み、幾らでも出すと続けると、文机をかき回す女将の手がぴたりと止まった。
「さすが大病院のお坊ちゃんは言うことが違うね。幾らでも出すときたもんだ。豪気だねえ」
「ああ。だから金額を言え」
「金額ってぇのは、いったい誰のだい?」
 喬一を焦らしているのは明白だった。
 亮と一緒に戻って来て、交渉の場にも居合わせているのに、誰の買い受けの話をしているのかわからないはずがない。
 喬一は戸口へと視線を走らせた。案の定、亮の顔には不安の色が浮かんでいる。先ほどまでの甘い気分はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「亮だよ。決まってるだろう」
「亮? おやおや。お金持ちには衆道なんてぇ高尚な趣味があるもんなんだね。女のあたしから見りゃ、花街までやって来て男を買うなんて信じらんないが。ま、人の趣味をどうこう言えるほどあたしゃ偉くはないんでねぇ」
「無駄口を叩くのは後にしろよ。オレは亮を買い受ける話をしてるんだ。とっとと本題に入れ」
「そうかい、そうかい。せっかちだねぇ」
 女将は、文机を掻き回して探し出した一通の封筒から書簡を取り出し、それに目を通した。
 亮にはそれに見覚えがあった。月季花で働くきっかけになった、伯父から持たされた手紙だ。
 女将は喬一の顔色を窺うような視線を向けた。
「十万は頂かないと足が出ちゃうね」
「十万だと?」
 喬一は法外な金額に大声をあげた。大卒の平均月収が三千円あたりだというのに、およそその三年分をよこせと女将は言っているのだ。戸口に顔を向けると、案の定亮が青ざめた顔で呆然としていた。
「おい、女将。ぼったくってんじゃねえぞ?」
 喬一は凄んで見せたが、ここは場数を踏んでいる女の方が上手だった。
「こちとら足が出るって言ってんですよ。慈善事業じゃないんだ。こっちも商売なんでね。貸したものには、利子ってモンが付くんですよ、え? おニイさん。大マケにマケて十万ってあたしは言ってるんだ。嫌なら無理に買うことはないさ。亮には全額働いて返してもらうだけだからね」
 ただ、と女将は声を潜めて言うと、顔を喬一の方へ向けた。
「働くって言ってもね、いろいろあるでしょう? 亮は衆道の気があるらしいし、買ってくれるってぇ人を選り好みさえしなきゃいい儲けになるじゃないか」
 喬一の頭に一瞬で血が昇る。
「金持ちはね。あんただけじゃないってことさ。坊ちゃん。世の中──金に物を言わせて好きなことをやっている好色爺いなんて、ゴロゴロいんのさ」
 喬一は血が滲むほどに拳を握ると、十万は無理だと唸るように答えた。女将は、ふふんと鼻で笑い、
「なにも身請けしなくったっていいじゃないか」
 女将は指を三本立てた。
「週に三日間だけ。亮を預けてやろうじゃないか」
 その条件に喬一は逡巡し、小さく嘆息した後了承した。こちらの条件として契約書と共に亮を第三者には売らないという誓約書も書くよう指示した。
 女将は素直にそれらをすぐさま用意し、今週の身請け代と交換させた。
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