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思いの果て
(3)
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意を決し、叩いた扉が派手な音を立てた。
中から聞き慣れた声が、どうぞと答える。訪ねて来たのが、よもや亮だとは思わなかった部屋の主はその姿を認めると、酷く驚いた表情をして──そして悲しそうに眉を寄せ笑った。
少しずつ早くなっていく鼓動を感じ、大きく息を吸って呼吸を整え、ここへは確かめに来たのだと自分に言い聞かせるが足が思うように動かなかった。入り口で固まっている客人に、雪也はこちらへおいでと手招きをする。亮は小さく会釈をして、それに従った。
椅子を勧められて腰を下ろす。机に向かって書き物をしていたらしい雪也は、ペンを置き、改めて向き直るとここへ来た理由を尋ねた。
「こんな夜半にどんな用向きなのかな」
確かに消灯時間はとっくに過ぎていた。しかし、亮はあえてこの時間を選んで訪ねて来た。人目を気にしてのことだった。
躊躇いがちに、今日のことですと口を開く。雪也の座る椅子が軋むと、亮は肩を窄めた。部屋着で寛ぐ彼が足を組み替えただけだった。
亮は上目遣いで何事もないことを確認すると言葉を続けた。
「雪也さんの顔がとても辛そうに見えたから……ぼくがなにか……いけないことでもして雪也さんを悲しませているのかなって……」
俯いたままそう呟く亮に、雪也の胸が切なく痛む。
「あんな目に遭っておきながら、俺の心配かい? 亮は優しい子だね」
半分は嫌がらせのつもりで、もう半分は本音でもある言葉を吐く。
男にしては細く青白い手が握り込まれるのを眺めながら、雪也の口は饒舌になる。
「亮の声は可愛い。その白い肌に指を滑らせたら、とても気持ちがいいんだろうね。その唇は柔らかいのかな。触れたらどんな心地になるんだろう。その頬に手を宛てて、撫で上げたら……どんな表情で俺をみつめるんだろう。その髪に……指を滑り込ませたら──」
雪也の溢れる言葉はそこで途絶えた。
顔を上げて雪也を見る。彼は頬杖をついている左手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く唇が僅かに震えている。
その唇が小さく開いた。
「俺は触れられない。触れたところでなにも感じないんだ。それとも、亮。きみは違うのかな。見せるだけでなく、触れても俺を感じさせてくれるのかな……」
いつもは自信に溢れている声が震えていた。酷薄の笑みを浮かべつつ田畑を操り、尚もここの男たちに亮を辱めた人物とは到底思えない。彼の言葉は救いを求める懺悔のようにも思えて、むしろそれを聞かされている方がいたたまれなくなっていく。
「俺は喬一さえ居ればよかったんだ。俺のこの性癖を知っても尚、慕ってくれる喬一がとても愛しかった。それなのに喬一は亮を連れて来た。きみが俺と喬一のバランスを崩したんだ。俺から喬一を奪った。そして……俺の中から喬一への想いを消し去った」
苦しそうに息を吐き、呟いた。
部屋の中には重苦しい空気が立ち込めて、息を吸う音さえも雑音に聞こえた。
「ぼくが邪魔だったのですか?」
亮がぽつりと呟くように訊ねた。その言葉を跳ねつけるように邪魔だったと雪也は答える。
亮が今にも泣きそうな顔になる。しかし雪也の言葉はまだ続いた。
「だけどね、亮……信じてもらえるかな」
雪也の声音が優しい旋律へと変わる。
「きみを愛している」
悲しく切なげに呟いた雪也の眦から、雫がつうっと零れ落ちていった。
「喬一のように君を抱けないのにね……」
呻くような溜息をひとつ吐いて、
「きみへの想いが膨らんでいくのを止められずに俺が苦しんでいるのに、喬一はきみとだけの世界をどんどん創り上げていく。俺は部屋の外にいて……ただ覗いている。俺には入ることのできないきみ達だけの世界だ。あの……疎外感を受け入れたくはなかった。それなら……」
亮をじっと見据える。
「きみと二人になればいいと思った」
好きな人と二人でいたいという単純なことが、彼には酷く難しいことだったのだ。何て不器用な人なのだろうと思った。そしてそれを無意識に理解していたから、彼を跳ね除けることができなかったのだろうか。
喬一のように邪気のない真っ直ぐさはない。思い詰めたようにすべてを欲する雪也の視線はいつも怖かった。それなのに、その視線に囚われてしまう心地よさを知ってしまったというのだろうか……
「一度ぼくに触れてみますか?」
亮は椅子を離れ、心許無く震える青年の前で跪く。細かく揺れている膝に添えるように手を乗せて首を傾げた。さあどうぞと差し出しているように見える。
雪也はそろりと手を伸ばし、陽に焼けていない白いうなじに触れてみる。柔らかな髪の毛が指の間に滑り込んできて心地いい。上目遣いに自分を見る亮に攣れた笑顔を見せた。
なにも感じない。触感的な心地よさはあっても、性的興奮に繋がるものはなにもなかった。少年は誘っているわけではないのだし、ましてその身体が熱を帯びているのでもない。
しかし雪也には理解らない。燃え上がらせてくれたのは、亮の可愛い鳴き声であり、喘ぎ声であり……。その痴態を恥らいながら見せる苦悶の表情であり……。
「喬一さんなら、きっとわかってくれます」
亮の言葉が、雪也の思考を止めた。
「雪也さんは雪也さんのままでいいと、喬一さんは答えてくれます」
だって喬一さんはと続く言葉を、少年は飲み込んだ。暗闇から自分の手を取り、明るいお日さまの下に連れて行ってくれた喬一は、雪也に対しても、その救いの手を伸ばしてくれると信じている。
「だから、そんな悲しい顔をしないでください」
そう呟く亮に、雪也はやはり攣れた笑顔でしか答えられない。亮の優しい言葉は、雪也の心を抉るだけなのだ。その身体に付けた傷の多さは、つまり雪也が得た快楽の深さでもある。
それをけして喬一が許すはずがないことはわかっているし、この想いが報われることがないこともわかっている。
大丈夫ですと言いながら、眉を寄せる雪也の頬に触れると、青年は痺れたようにその頬を攣らせた。部屋を出る亮に声を掛け、一枚の書類を手渡した。
「贖罪のつもり、かな」
広げると、それは退院許可証だった。
「きみは、とっくにここを出ていい人間なんだ。喬一が面会に来たら一緒に帰るといい」
でも、と言いかける亮の唇に指を当てて噤ませると、いいんだと呟いた。
亮は複雑な気持ちでそれを受け取った。扉が閉まると、まるで雪也に拒絶されたようでなぜだか悲しい気持ちになる。彼を一人にさせていいのだろうかと、あれこれ逡巡する。
雪也を性癖という孤独から救い出したのなら、そこに戻してはいけない気がするのだ。
退院許可証を握り締めて、亮は踵を返した。非常灯しか点いていない薄暗い廊下を一人で歩くと、この世の中には自分しかいないのではないかと錯覚してしまいそうになる。
雪也をこの暗闇から救えるのは、自分と喬一しかいないのだと思う。そして喬一も……きっと自分と同じ答えを出すと信じていた。
喬一が面会にやって来たのは、それから数日経ってのことだった。
面会室の前に立ち、喬一になにを言わなければならないかを深呼吸しながら反芻する。
ノックするとすぐに扉が開き、中から姿を現したのは雪也だった。亮の心臓が早鐘のように激しく打ち始める。雪也はわざと視線を合わせずに、無言のままで亮の横をすり抜けていく。亮が慌てて振り返り、その後ろ姿を見送っていると、焦れたように喬一が中から声をかけてきた。
長椅子の真ん中に、ちょこんと腰掛けている喬一を見ると途端に亮の心が和み始める。やはり、会えて嬉しいものは嬉しいのだ。
ざわついていた心が嘘のように晴れていく。目尻を思い切り下げた喬一が、こっちへ来いと手招きしている。亮は、喬一の傍へ駆け寄った。
喬一も気が逸るのか、長椅子を立ち上がる。互いの名前を呼び、懐かしい匂いを確かめ合うように言葉も交わさず抱き合った。
名残惜しそうに、甘い吐息を吐きながら喬一は唇を離し、一緒に帰ろうと亮の耳朶に囁いた。
亮の身体が途端に強張る。喬一は、身体を離して亮の顔を覗きこんだ。亮は、少し思い詰めたような顔をして、喬一をじっとみつめている。甘い口づけの名残で、亮の頬は赤く染まっていて、双眸も潤んでいるのに、思い詰めた顔の亮は唇を噛み締めていた。
喬一の中に嫌な予感がよぎる。
月季花からここへ移る時も、こんな表情だった。あの時は、世話になった娼妓がいるからだと言っていたが、彼女はすでに息を引き取ったと聞いている。では誰が、亮にこんな表情をさせているのだろうか。考えても思い当たらない。そしてそれは、亮の口から告げられた。
「雪也さんと一緒にここを出たい」
喬一は、全身の血の気が引くのを感じると、抑えきれない感情から、亮の身体を激しく揺さぶった。
亮の唇から紡ぎ出される言葉は、どれもが愛の告白めいていて、喬一は激しい苛立ちを抑えるのに酷く苦労した。
亮はたどたどしく、喬一に理解してもらうために、自分の語彙の中から適切だと思われる言葉を選ぶ。それらすべてが雪也を思ってのことだと思うと、つい奥歯を噛み締めてしまう。必然的に亮を睨み据える表情にもなり、亮の声は次第に弱々しくなっていった。
手を伸ばせば届くところに亮がいるのに、彼はまるで代弁者のように、切々と雪也の心情を語るのだ。
どうして亮は、自分に酷い仕打ちをした男をこうも許せるのだろうか。
確かに、亮に性交渉を求めた喬一の理由も自慢できるものではない。亮に嫌われるのが嫌で、結局のところ、なにも言えなかったではないか。たとえ始まりが肉体関係だったとは言え、ゆっくりではあったにしても、確かに愛を育んでいたと自負していた喬一の自尊心が揺らいでいく。
雪也と亮の間で、自分は踊らされていたのだろうかと、考えたくもないことまでが頭に浮かぶ。
「お前が好きなのは誰だ……?」
亮の頬が瞬時に赤くなる。雪也の話をしている最中に頬を染めるなんて……それはどういう意味だと、さらに喬一は歯軋りをして乱暴に椅子を蹴った。
冷たく一瞥し、帰ると吐き捨てる。
亮が慌てて自分の横を通り過ぎる男の腕に取り縋った。尚も力ずくで押してくる喬一の身体を懸命に押さえてはいたが、体格の差は歴然としていて、亮は、結局喬一の腕に張りついたままの状態で、戸口まで押しやられた。
ここさえ通さなければいいのだからと、扉に身体を押し付けて最後の抵抗を試みる。
「待って、帰らないで。お願いだから……ぼくの話をちゃんと聞いてよ」
喬一のこの剣幕に亮は戸惑っていた。どうして、こんなに怒っているのか。どうして理解ってくれないのか。
喬一は、威圧的な視線を振り下ろし、無言でドアノブに手をかけた。亮はその手を押さえ込む。
「帰らないで。もう少しいてっ。喬一さん」
喬一の手に額を押し付けて叫ぶと、その手から力が抜けていく。そうしてもう一方の手が扉を激しく殴ると、亮の頭のすぐ上にあるガラス窓がびりびりと音を立てた。
「お前が本当に好きなのは……誰だ」
苦し紛れに囁いた後、いたたまれなかったのか、ノブを乱暴に回して部屋を出ようとする。
「喬一さんだよ!」
扉に張りついて、子供染みた通せんぼをしながら、喬一さんが好きと続けた。
「じゃあ、なんでアニキを気にするんだ? オレは亮さえいればそれでいいのに!」
見上げた喬一の顔は影になっていて、表情を汲み取ることができないが、聞き覚えのある言葉に、亮は涙目で苦笑した。
「雪也さんも同じことを言ってた。自分には喬一さえいればいいんだって」
「オレをからかってるのか? オレの気持ちとアニキのを混同させるな!」
同じなのに──そう呟くと、頬に落ちてくる温かい雫を数滴受け止めた。
喬一は亮の肩を抱き寄せると、顔を首筋に埋めた。いろいろ考えを巡らせてはみても、必ずその先には考えたくない答えばかりが浮かんできて、すべてのものから耳を塞ぎたくなる。亮の気持ちなど無視してここから攫ってしまおうかとも思った。
しかし、それは無理だろう。亮は、雪也と一緒にと言っていて、その気持ちを無視することなど……喬一にはできない。自分が愛しているほどに亮は愛してくれていなかったということだろうか。嫌な結論に達して泣けてくる。
「心変わりしたのなら、はっきりそう言えよ」
喬一の顔は、絶望と困惑が綯い交ぜになっていた。突き放すように少年の身体をドアから離れさせる。茫然自失の少年はよろめきながら壁に縋り、たった今、喬一が発した言葉を反芻してみる。
心変わりとは?
喬一がドアノブを回す音で我に返った。
廊下には医者も患者もいるのに、誰憚ることなく、亮は喬一の腕に取り縋り、引き止めようと足を踏ん張っている。その必死な様の亮に、喬一は視線をゆっくりと落としてごめんと呟く。
この言葉は、亮の全身からすべての力を奪った。がくんと膝からくず折れると、廊下に手をついて呆然とする。辺りのざわめきも、窓の外から聞こえる気の早い蝉の鳴き声も遠くなっていく。
頭の奥で、謝罪の言葉だけが繰り返される。床についた両手へ視線を移すと涙が堰を切って溢れ出した。
手を振り払われた。必ずこの手を取ってくれると信じていた人の手が……冷たく断罪するかのように激しく──。
中から聞き慣れた声が、どうぞと答える。訪ねて来たのが、よもや亮だとは思わなかった部屋の主はその姿を認めると、酷く驚いた表情をして──そして悲しそうに眉を寄せ笑った。
少しずつ早くなっていく鼓動を感じ、大きく息を吸って呼吸を整え、ここへは確かめに来たのだと自分に言い聞かせるが足が思うように動かなかった。入り口で固まっている客人に、雪也はこちらへおいでと手招きをする。亮は小さく会釈をして、それに従った。
椅子を勧められて腰を下ろす。机に向かって書き物をしていたらしい雪也は、ペンを置き、改めて向き直るとここへ来た理由を尋ねた。
「こんな夜半にどんな用向きなのかな」
確かに消灯時間はとっくに過ぎていた。しかし、亮はあえてこの時間を選んで訪ねて来た。人目を気にしてのことだった。
躊躇いがちに、今日のことですと口を開く。雪也の座る椅子が軋むと、亮は肩を窄めた。部屋着で寛ぐ彼が足を組み替えただけだった。
亮は上目遣いで何事もないことを確認すると言葉を続けた。
「雪也さんの顔がとても辛そうに見えたから……ぼくがなにか……いけないことでもして雪也さんを悲しませているのかなって……」
俯いたままそう呟く亮に、雪也の胸が切なく痛む。
「あんな目に遭っておきながら、俺の心配かい? 亮は優しい子だね」
半分は嫌がらせのつもりで、もう半分は本音でもある言葉を吐く。
男にしては細く青白い手が握り込まれるのを眺めながら、雪也の口は饒舌になる。
「亮の声は可愛い。その白い肌に指を滑らせたら、とても気持ちがいいんだろうね。その唇は柔らかいのかな。触れたらどんな心地になるんだろう。その頬に手を宛てて、撫で上げたら……どんな表情で俺をみつめるんだろう。その髪に……指を滑り込ませたら──」
雪也の溢れる言葉はそこで途絶えた。
顔を上げて雪也を見る。彼は頬杖をついている左手で顔を覆っていた。指の隙間から覗く唇が僅かに震えている。
その唇が小さく開いた。
「俺は触れられない。触れたところでなにも感じないんだ。それとも、亮。きみは違うのかな。見せるだけでなく、触れても俺を感じさせてくれるのかな……」
いつもは自信に溢れている声が震えていた。酷薄の笑みを浮かべつつ田畑を操り、尚もここの男たちに亮を辱めた人物とは到底思えない。彼の言葉は救いを求める懺悔のようにも思えて、むしろそれを聞かされている方がいたたまれなくなっていく。
「俺は喬一さえ居ればよかったんだ。俺のこの性癖を知っても尚、慕ってくれる喬一がとても愛しかった。それなのに喬一は亮を連れて来た。きみが俺と喬一のバランスを崩したんだ。俺から喬一を奪った。そして……俺の中から喬一への想いを消し去った」
苦しそうに息を吐き、呟いた。
部屋の中には重苦しい空気が立ち込めて、息を吸う音さえも雑音に聞こえた。
「ぼくが邪魔だったのですか?」
亮がぽつりと呟くように訊ねた。その言葉を跳ねつけるように邪魔だったと雪也は答える。
亮が今にも泣きそうな顔になる。しかし雪也の言葉はまだ続いた。
「だけどね、亮……信じてもらえるかな」
雪也の声音が優しい旋律へと変わる。
「きみを愛している」
悲しく切なげに呟いた雪也の眦から、雫がつうっと零れ落ちていった。
「喬一のように君を抱けないのにね……」
呻くような溜息をひとつ吐いて、
「きみへの想いが膨らんでいくのを止められずに俺が苦しんでいるのに、喬一はきみとだけの世界をどんどん創り上げていく。俺は部屋の外にいて……ただ覗いている。俺には入ることのできないきみ達だけの世界だ。あの……疎外感を受け入れたくはなかった。それなら……」
亮をじっと見据える。
「きみと二人になればいいと思った」
好きな人と二人でいたいという単純なことが、彼には酷く難しいことだったのだ。何て不器用な人なのだろうと思った。そしてそれを無意識に理解していたから、彼を跳ね除けることができなかったのだろうか。
喬一のように邪気のない真っ直ぐさはない。思い詰めたようにすべてを欲する雪也の視線はいつも怖かった。それなのに、その視線に囚われてしまう心地よさを知ってしまったというのだろうか……
「一度ぼくに触れてみますか?」
亮は椅子を離れ、心許無く震える青年の前で跪く。細かく揺れている膝に添えるように手を乗せて首を傾げた。さあどうぞと差し出しているように見える。
雪也はそろりと手を伸ばし、陽に焼けていない白いうなじに触れてみる。柔らかな髪の毛が指の間に滑り込んできて心地いい。上目遣いに自分を見る亮に攣れた笑顔を見せた。
なにも感じない。触感的な心地よさはあっても、性的興奮に繋がるものはなにもなかった。少年は誘っているわけではないのだし、ましてその身体が熱を帯びているのでもない。
しかし雪也には理解らない。燃え上がらせてくれたのは、亮の可愛い鳴き声であり、喘ぎ声であり……。その痴態を恥らいながら見せる苦悶の表情であり……。
「喬一さんなら、きっとわかってくれます」
亮の言葉が、雪也の思考を止めた。
「雪也さんは雪也さんのままでいいと、喬一さんは答えてくれます」
だって喬一さんはと続く言葉を、少年は飲み込んだ。暗闇から自分の手を取り、明るいお日さまの下に連れて行ってくれた喬一は、雪也に対しても、その救いの手を伸ばしてくれると信じている。
「だから、そんな悲しい顔をしないでください」
そう呟く亮に、雪也はやはり攣れた笑顔でしか答えられない。亮の優しい言葉は、雪也の心を抉るだけなのだ。その身体に付けた傷の多さは、つまり雪也が得た快楽の深さでもある。
それをけして喬一が許すはずがないことはわかっているし、この想いが報われることがないこともわかっている。
大丈夫ですと言いながら、眉を寄せる雪也の頬に触れると、青年は痺れたようにその頬を攣らせた。部屋を出る亮に声を掛け、一枚の書類を手渡した。
「贖罪のつもり、かな」
広げると、それは退院許可証だった。
「きみは、とっくにここを出ていい人間なんだ。喬一が面会に来たら一緒に帰るといい」
でも、と言いかける亮の唇に指を当てて噤ませると、いいんだと呟いた。
亮は複雑な気持ちでそれを受け取った。扉が閉まると、まるで雪也に拒絶されたようでなぜだか悲しい気持ちになる。彼を一人にさせていいのだろうかと、あれこれ逡巡する。
雪也を性癖という孤独から救い出したのなら、そこに戻してはいけない気がするのだ。
退院許可証を握り締めて、亮は踵を返した。非常灯しか点いていない薄暗い廊下を一人で歩くと、この世の中には自分しかいないのではないかと錯覚してしまいそうになる。
雪也をこの暗闇から救えるのは、自分と喬一しかいないのだと思う。そして喬一も……きっと自分と同じ答えを出すと信じていた。
喬一が面会にやって来たのは、それから数日経ってのことだった。
面会室の前に立ち、喬一になにを言わなければならないかを深呼吸しながら反芻する。
ノックするとすぐに扉が開き、中から姿を現したのは雪也だった。亮の心臓が早鐘のように激しく打ち始める。雪也はわざと視線を合わせずに、無言のままで亮の横をすり抜けていく。亮が慌てて振り返り、その後ろ姿を見送っていると、焦れたように喬一が中から声をかけてきた。
長椅子の真ん中に、ちょこんと腰掛けている喬一を見ると途端に亮の心が和み始める。やはり、会えて嬉しいものは嬉しいのだ。
ざわついていた心が嘘のように晴れていく。目尻を思い切り下げた喬一が、こっちへ来いと手招きしている。亮は、喬一の傍へ駆け寄った。
喬一も気が逸るのか、長椅子を立ち上がる。互いの名前を呼び、懐かしい匂いを確かめ合うように言葉も交わさず抱き合った。
名残惜しそうに、甘い吐息を吐きながら喬一は唇を離し、一緒に帰ろうと亮の耳朶に囁いた。
亮の身体が途端に強張る。喬一は、身体を離して亮の顔を覗きこんだ。亮は、少し思い詰めたような顔をして、喬一をじっとみつめている。甘い口づけの名残で、亮の頬は赤く染まっていて、双眸も潤んでいるのに、思い詰めた顔の亮は唇を噛み締めていた。
喬一の中に嫌な予感がよぎる。
月季花からここへ移る時も、こんな表情だった。あの時は、世話になった娼妓がいるからだと言っていたが、彼女はすでに息を引き取ったと聞いている。では誰が、亮にこんな表情をさせているのだろうか。考えても思い当たらない。そしてそれは、亮の口から告げられた。
「雪也さんと一緒にここを出たい」
喬一は、全身の血の気が引くのを感じると、抑えきれない感情から、亮の身体を激しく揺さぶった。
亮の唇から紡ぎ出される言葉は、どれもが愛の告白めいていて、喬一は激しい苛立ちを抑えるのに酷く苦労した。
亮はたどたどしく、喬一に理解してもらうために、自分の語彙の中から適切だと思われる言葉を選ぶ。それらすべてが雪也を思ってのことだと思うと、つい奥歯を噛み締めてしまう。必然的に亮を睨み据える表情にもなり、亮の声は次第に弱々しくなっていった。
手を伸ばせば届くところに亮がいるのに、彼はまるで代弁者のように、切々と雪也の心情を語るのだ。
どうして亮は、自分に酷い仕打ちをした男をこうも許せるのだろうか。
確かに、亮に性交渉を求めた喬一の理由も自慢できるものではない。亮に嫌われるのが嫌で、結局のところ、なにも言えなかったではないか。たとえ始まりが肉体関係だったとは言え、ゆっくりではあったにしても、確かに愛を育んでいたと自負していた喬一の自尊心が揺らいでいく。
雪也と亮の間で、自分は踊らされていたのだろうかと、考えたくもないことまでが頭に浮かぶ。
「お前が好きなのは誰だ……?」
亮の頬が瞬時に赤くなる。雪也の話をしている最中に頬を染めるなんて……それはどういう意味だと、さらに喬一は歯軋りをして乱暴に椅子を蹴った。
冷たく一瞥し、帰ると吐き捨てる。
亮が慌てて自分の横を通り過ぎる男の腕に取り縋った。尚も力ずくで押してくる喬一の身体を懸命に押さえてはいたが、体格の差は歴然としていて、亮は、結局喬一の腕に張りついたままの状態で、戸口まで押しやられた。
ここさえ通さなければいいのだからと、扉に身体を押し付けて最後の抵抗を試みる。
「待って、帰らないで。お願いだから……ぼくの話をちゃんと聞いてよ」
喬一のこの剣幕に亮は戸惑っていた。どうして、こんなに怒っているのか。どうして理解ってくれないのか。
喬一は、威圧的な視線を振り下ろし、無言でドアノブに手をかけた。亮はその手を押さえ込む。
「帰らないで。もう少しいてっ。喬一さん」
喬一の手に額を押し付けて叫ぶと、その手から力が抜けていく。そうしてもう一方の手が扉を激しく殴ると、亮の頭のすぐ上にあるガラス窓がびりびりと音を立てた。
「お前が本当に好きなのは……誰だ」
苦し紛れに囁いた後、いたたまれなかったのか、ノブを乱暴に回して部屋を出ようとする。
「喬一さんだよ!」
扉に張りついて、子供染みた通せんぼをしながら、喬一さんが好きと続けた。
「じゃあ、なんでアニキを気にするんだ? オレは亮さえいればそれでいいのに!」
見上げた喬一の顔は影になっていて、表情を汲み取ることができないが、聞き覚えのある言葉に、亮は涙目で苦笑した。
「雪也さんも同じことを言ってた。自分には喬一さえいればいいんだって」
「オレをからかってるのか? オレの気持ちとアニキのを混同させるな!」
同じなのに──そう呟くと、頬に落ちてくる温かい雫を数滴受け止めた。
喬一は亮の肩を抱き寄せると、顔を首筋に埋めた。いろいろ考えを巡らせてはみても、必ずその先には考えたくない答えばかりが浮かんできて、すべてのものから耳を塞ぎたくなる。亮の気持ちなど無視してここから攫ってしまおうかとも思った。
しかし、それは無理だろう。亮は、雪也と一緒にと言っていて、その気持ちを無視することなど……喬一にはできない。自分が愛しているほどに亮は愛してくれていなかったということだろうか。嫌な結論に達して泣けてくる。
「心変わりしたのなら、はっきりそう言えよ」
喬一の顔は、絶望と困惑が綯い交ぜになっていた。突き放すように少年の身体をドアから離れさせる。茫然自失の少年はよろめきながら壁に縋り、たった今、喬一が発した言葉を反芻してみる。
心変わりとは?
喬一がドアノブを回す音で我に返った。
廊下には医者も患者もいるのに、誰憚ることなく、亮は喬一の腕に取り縋り、引き止めようと足を踏ん張っている。その必死な様の亮に、喬一は視線をゆっくりと落としてごめんと呟く。
この言葉は、亮の全身からすべての力を奪った。がくんと膝からくず折れると、廊下に手をついて呆然とする。辺りのざわめきも、窓の外から聞こえる気の早い蝉の鳴き声も遠くなっていく。
頭の奥で、謝罪の言葉だけが繰り返される。床についた両手へ視線を移すと涙が堰を切って溢れ出した。
手を振り払われた。必ずこの手を取ってくれると信じていた人の手が……冷たく断罪するかのように激しく──。
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「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
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