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さざなみの夕
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雪也はコートのポケットから小瓶を取り出して、なにやら確認している。そして、おもむろに二つの小瓶をそれぞれ左右に分けてしまい込んだ。
抑えられない身体の震えは、明け方の乾いた冷気のせいだけではないと感じていた。これからここへやって来る亮のことを想うと、心も身体も震えるのだ。
愛しているから傷つけたくない、壊したくないと喬一に告げたのは真実である。それなのに、亮の口から酷くしていいから傍においてなどと懇願されては、抗いようがない。あまつさえ命すら捧げるとまで言ってくれた。
ほかになにを望もうか。
だから、心を決めた。これが亮に与える最期の疵になると思っている。
視線の先には、月季花があった。すっかり雰囲気は変わってしまったが、外観は以前のままだ。ここで何度も亮を辱めたことを思い出す。自分の欲望のために他の男に抱かせたりもした。苦痛に喘ぐ亮が堪らなく愛しくて、その想いがここまで膨れあがった。
たった一度の交わり──。
情に満ちた睦言の艶めかしさ。充足感。高揚感。どれもこれもが素晴らしくて、きっと忘れられないだろう。地獄の果てまででも持って行くつもりだ。
暗がりから足音が聞こえて、そちらへ顔を向けると、鼻を赤くした亮が駆け寄ってきた。明け方前なので声を潜めているが、名前を呼ぶ声音に愛しさが満ちている。
雪也は通りを指し、戻るように言った。
「車が停めてあるんだ。──行こう」
こちらを見上げて微笑む亮の肩を引き寄せ、ポケットの中で転がっている小瓶を握り締めた。
雪也は暗い上り坂を走り、拓けた場所へ車を停めると、助手席に浅く腰掛けている亮へ声をかけた。
「そこの水筒を取ってくれるかい?」
亮は、自分の足元に置かれている黒い筒を持ち上げ、手渡した。水筒からコップに注がれたそれは湯気もなく、車内燈の色と相まって茶か水かわからなかった。
雪也はそれを口に含むとポケットから取り出した小瓶の錠剤を数えずに掌へ乗せ、口に投げ入れた。
亮の顎を素早く掴んで上向かせると、口づけしながら錠剤を喉元に流し込んだ。ごくりとそれを飲み干す音が耳に届く。
唇を離す際、なにも訊かないのかとダッシュボードの上に小瓶を置きながら訊ねた。
「なにも訊きません。だって、これが……ぼくと雪也さんがずっと一緒にいられる方法なんでしょう?」
嬉しいくらいですと亮は付け加えて、細い首を傾げながら微笑んだ。雪也は顔を綻ばせ、片方のポケットから取り出した薬瓶の錠剤を飲み込む。
亮は弾んだ可愛い声で笑ったが、雪也の胸に顔を埋めると、眉を寄せ、少し声を沈ませながら呟いた。
「これだけでは不安です。ぼくと雪也さんを繋いでください。けっして離れたりしないように……」
細い指が雪也の上着を握り締めた。車中に繋ぐものなど見当たらない。亮は雪也の胸元へ手を伸ばした。
「これで縛ってください」
雪也がするりとネクタイを外す。手をこちらにと言うと、亮は素直にはいと答えて右手を差し出した。
ブラウスの釦も満足に外せない雪也が、ぎこちない手つきで互いの手首をネクタイで縛りあげる。最後に端を摘んできゅっと絞ると、亮が小さく呻いた。
「きつく縛りすぎたかな」
「いいえ……もっときつく縛ってくれてもいいんです」
その言葉に雪也の唇が僅かに開き、頬も緩んだ。
「もっときつく縛ってくれてもかまいません。どうか……遠慮なんかしないで」
「可愛いことを言うね」
雪也が笑みを零しながら、もっと縛ってとねだる亮の唇をなぞりながら囁いた。
「誰にも解けないように……。きつく縛って欲しい。ぼくはもう二度と雪也さんと離れ離れになるのは嫌です」
そう……。帰るところは捨ててきたのだ。
縋るようにしがみつくと、それに応えるように雪也も空いた腕を伸ばして抱きしめてくる。
空が白々と明け始めてくると、街が一望できる高台にいることに気づいた。向かいの山の中腹には、傾斜面へ沿うように民家が建ち、朝餉の準備に取り掛かる家々に明かりがぽつぽつと灯りはじめる。街は扇形に拡がり、その先には港が見えた。
雪也は海の方を指し、子供の頃は喬一とよく海で遊んだものだと思い出話を語り、亮は街から伸びている県道辺りを指しながら、ぼくはここの生まれではありませんといった、他愛のない会話を交わした。
海が朝焼けに染まると、亮の瞼が緩やかに下り始める。とろとろと眠気が襲ってきているようだった。
「このお薬は眠くなるんですか?」
亮は腕の中から顔を上げて訊いた。雪也は俯いて、ああそうだよと目を細めて囁いた。
「このままゆっくりと──。朝焼けでも眺めながら一緒に眠ろう」
雪也に抱き寄せられながら、深く沈んでいく意識の中で見る朝焼けがとても綺麗なのと、いつまでも抱き締めてくれる腕の確かさに、亮が安堵の息を吐く。
右手の感覚はほとんどなかったが、かろうじて指先だけは動かせた。亮の指がたどたどしく括られている雪也の指に絡み付いてくる。指先はチアノーゼを起こしているためか、紫色に変色していた。力が入っていないことが見て取れる。
雪也も懸命に握り返すが、思うように掴んでやれない。それでも亮は嬉しそうに顔を綻ばせて目を閉じていく。
浅い呼吸を繰り返しながら、雪也は身体の末端から力が徐々に抜けていくのを感じていた。鼓動が緩やかになると、ふと喬一の姿が思い浮かんだ。
弟の大切なものを取り上げてしまったことに胸が痛んだ。それでも雪也の胸中は満足していた。こうして亮が自分の傍にいて、繋がっているということが……。
亮に求められることが愛されるということであり、そんな彼の想いは自分のすべてを包み、こんなにも満たしてくれた。喬一も惚れるはずだと笑ったが、神経がすでに通っていない頬は小さく引き攣るだけだった。
壊れたゼンマイ仕掛けの人形みたいに、小さく揺れながら顔を助手席に向けた。これでいい、と呟く。
「もう聞こえていないかもしれないが、きみには感謝している。俺の脆弱さを愛してくれてありがとう。──もう少し。きみを……視て……いたかったな……」
唇も思うように動かなくなっている。攣れたように震えているだけだ。
静かに眠る亮をみつめる雪也の瞳に、涙が溢れた。天井を見上げると、頬を温かい雫が幾筋も流れ落ちていく。愛しているよと最後に呟き、目を瞑ると一際大きな雫が頬を滑り落ちた。
朝日が昇り、車中を明るく照らすと、薄い藤色のネクタイで離れがたく互いの手を括っている雪也と亮の亡骸があった。絡んだ二人の指は、幾重にも縛られているネクタイよりも固く結ばれていた。
抑えられない身体の震えは、明け方の乾いた冷気のせいだけではないと感じていた。これからここへやって来る亮のことを想うと、心も身体も震えるのだ。
愛しているから傷つけたくない、壊したくないと喬一に告げたのは真実である。それなのに、亮の口から酷くしていいから傍においてなどと懇願されては、抗いようがない。あまつさえ命すら捧げるとまで言ってくれた。
ほかになにを望もうか。
だから、心を決めた。これが亮に与える最期の疵になると思っている。
視線の先には、月季花があった。すっかり雰囲気は変わってしまったが、外観は以前のままだ。ここで何度も亮を辱めたことを思い出す。自分の欲望のために他の男に抱かせたりもした。苦痛に喘ぐ亮が堪らなく愛しくて、その想いがここまで膨れあがった。
たった一度の交わり──。
情に満ちた睦言の艶めかしさ。充足感。高揚感。どれもこれもが素晴らしくて、きっと忘れられないだろう。地獄の果てまででも持って行くつもりだ。
暗がりから足音が聞こえて、そちらへ顔を向けると、鼻を赤くした亮が駆け寄ってきた。明け方前なので声を潜めているが、名前を呼ぶ声音に愛しさが満ちている。
雪也は通りを指し、戻るように言った。
「車が停めてあるんだ。──行こう」
こちらを見上げて微笑む亮の肩を引き寄せ、ポケットの中で転がっている小瓶を握り締めた。
雪也は暗い上り坂を走り、拓けた場所へ車を停めると、助手席に浅く腰掛けている亮へ声をかけた。
「そこの水筒を取ってくれるかい?」
亮は、自分の足元に置かれている黒い筒を持ち上げ、手渡した。水筒からコップに注がれたそれは湯気もなく、車内燈の色と相まって茶か水かわからなかった。
雪也はそれを口に含むとポケットから取り出した小瓶の錠剤を数えずに掌へ乗せ、口に投げ入れた。
亮の顎を素早く掴んで上向かせると、口づけしながら錠剤を喉元に流し込んだ。ごくりとそれを飲み干す音が耳に届く。
唇を離す際、なにも訊かないのかとダッシュボードの上に小瓶を置きながら訊ねた。
「なにも訊きません。だって、これが……ぼくと雪也さんがずっと一緒にいられる方法なんでしょう?」
嬉しいくらいですと亮は付け加えて、細い首を傾げながら微笑んだ。雪也は顔を綻ばせ、片方のポケットから取り出した薬瓶の錠剤を飲み込む。
亮は弾んだ可愛い声で笑ったが、雪也の胸に顔を埋めると、眉を寄せ、少し声を沈ませながら呟いた。
「これだけでは不安です。ぼくと雪也さんを繋いでください。けっして離れたりしないように……」
細い指が雪也の上着を握り締めた。車中に繋ぐものなど見当たらない。亮は雪也の胸元へ手を伸ばした。
「これで縛ってください」
雪也がするりとネクタイを外す。手をこちらにと言うと、亮は素直にはいと答えて右手を差し出した。
ブラウスの釦も満足に外せない雪也が、ぎこちない手つきで互いの手首をネクタイで縛りあげる。最後に端を摘んできゅっと絞ると、亮が小さく呻いた。
「きつく縛りすぎたかな」
「いいえ……もっときつく縛ってくれてもいいんです」
その言葉に雪也の唇が僅かに開き、頬も緩んだ。
「もっときつく縛ってくれてもかまいません。どうか……遠慮なんかしないで」
「可愛いことを言うね」
雪也が笑みを零しながら、もっと縛ってとねだる亮の唇をなぞりながら囁いた。
「誰にも解けないように……。きつく縛って欲しい。ぼくはもう二度と雪也さんと離れ離れになるのは嫌です」
そう……。帰るところは捨ててきたのだ。
縋るようにしがみつくと、それに応えるように雪也も空いた腕を伸ばして抱きしめてくる。
空が白々と明け始めてくると、街が一望できる高台にいることに気づいた。向かいの山の中腹には、傾斜面へ沿うように民家が建ち、朝餉の準備に取り掛かる家々に明かりがぽつぽつと灯りはじめる。街は扇形に拡がり、その先には港が見えた。
雪也は海の方を指し、子供の頃は喬一とよく海で遊んだものだと思い出話を語り、亮は街から伸びている県道辺りを指しながら、ぼくはここの生まれではありませんといった、他愛のない会話を交わした。
海が朝焼けに染まると、亮の瞼が緩やかに下り始める。とろとろと眠気が襲ってきているようだった。
「このお薬は眠くなるんですか?」
亮は腕の中から顔を上げて訊いた。雪也は俯いて、ああそうだよと目を細めて囁いた。
「このままゆっくりと──。朝焼けでも眺めながら一緒に眠ろう」
雪也に抱き寄せられながら、深く沈んでいく意識の中で見る朝焼けがとても綺麗なのと、いつまでも抱き締めてくれる腕の確かさに、亮が安堵の息を吐く。
右手の感覚はほとんどなかったが、かろうじて指先だけは動かせた。亮の指がたどたどしく括られている雪也の指に絡み付いてくる。指先はチアノーゼを起こしているためか、紫色に変色していた。力が入っていないことが見て取れる。
雪也も懸命に握り返すが、思うように掴んでやれない。それでも亮は嬉しそうに顔を綻ばせて目を閉じていく。
浅い呼吸を繰り返しながら、雪也は身体の末端から力が徐々に抜けていくのを感じていた。鼓動が緩やかになると、ふと喬一の姿が思い浮かんだ。
弟の大切なものを取り上げてしまったことに胸が痛んだ。それでも雪也の胸中は満足していた。こうして亮が自分の傍にいて、繋がっているということが……。
亮に求められることが愛されるということであり、そんな彼の想いは自分のすべてを包み、こんなにも満たしてくれた。喬一も惚れるはずだと笑ったが、神経がすでに通っていない頬は小さく引き攣るだけだった。
壊れたゼンマイ仕掛けの人形みたいに、小さく揺れながら顔を助手席に向けた。これでいい、と呟く。
「もう聞こえていないかもしれないが、きみには感謝している。俺の脆弱さを愛してくれてありがとう。──もう少し。きみを……視て……いたかったな……」
唇も思うように動かなくなっている。攣れたように震えているだけだ。
静かに眠る亮をみつめる雪也の瞳に、涙が溢れた。天井を見上げると、頬を温かい雫が幾筋も流れ落ちていく。愛しているよと最後に呟き、目を瞑ると一際大きな雫が頬を滑り落ちた。
朝日が昇り、車中を明るく照らすと、薄い藤色のネクタイで離れがたく互いの手を括っている雪也と亮の亡骸があった。絡んだ二人の指は、幾重にも縛られているネクタイよりも固く結ばれていた。
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