恋風

高千穂ゆずる

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春の染み

(5)

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 亮が観たがっていた映画は、ずいぶんと人気があるようだった。いざ映画館にやって来てみると、ずらりと人が並んでいて喬一は驚いた。
 ぴったりと肩を寄せてくる亮を見る。嬉しそうな顔を喬一に見せながら、それでも口を利かない。
 破顔していても、心底喜んでくれているのか自信が持てない。ただ口角を吊り上げているだけなのかもしれないからだ。瞳の輝きは相変わらずくすんだままで、どこを見ているのかわからない。
 手に入れたと思ったあの瞬間は、すでに遥か遠くへ去っていた。
「上映時間まであと少ししかないから、中に入って待っていよう」
 人波の中、はぐれないよう手を牽いて中に入り、館内の案内係にチケットを見せた。こちらへどうぞと促されて席へ向かう。
 館内は、それぞれの席を探し歩く人たちでごった返していた。係員に案内された二人は難なく指定席へと辿り着く。軽く会釈をして持ち場へ戻る係員と、すれ違うようにしてこちらへ向かってくる男に気づいた喬一が、無意識に視線を走らせた。
 偶然だろうか。喬一は、全身にぞわぞわと鳥肌を立てながら思った。
 向かってくるのが、駅前の交差点で出会った男だったからだ。出会ったというのも変な話だ。すれ違っただけの男を、喬一が忘れられなかっただけなのだが。
 兄と同じ匂いの男。喬一は、ひたひたと近づいてくる恐怖を感じていた。
 雪也と同じ匂いの男と出会ってしまったら、亮は一体どうするだろう。
 考えると、吐き気がするほどのむかつきが襲ってくる。
 ──自分は捨てられるのだろうか……。
 男は目の前に立ち、にこやかに笑いながら、自分の席はそちら側になるから通して欲しいと言ってきた。
 喬一は、震える膝を懸命に動かして道を開けてやる。ふわりと甘い匂いを醸しながら、男は、悪いねと頭を下げて通り過ぎていく。額に汗が滲み、恐る恐る亮を盗み見た。
 目の前を歩く男と視線を合わせると、口元を仄かに緩ませている。安堵にも似たその表情に、血が沸騰するような痺れを感じた喬一は、亮の肩を掴み、力任せに腰を下ろさせた。
 亮は、表情を変えずにこちらをじっと見上げる。
 足を止めてこちらを眺めている男の手に握られているチケットに目を遣ると、無愛想に声を掛けた。
「早く自分の席に着いたらどうなんだ?」
 男は肩を竦めて、ここがそうだと言ってチケットをひらひらさせ、亮の隣りに腰を下ろした。
 喬一は歯軋りするように顔を顰めた。すでに腰を落ち着かせ、肘掛けに乗せられていた腕を持ち上げ、席を替わるように言う。
「どうしたの?」
「こっちの方が疲れないで観られるからだ」
「それなら、喬一がそっちに座っていたらいいよ。ぼくは観たくて観るのだから平気。だけど喬一はぼくに付き合っているだけなんだから」
 正論を返されて、喬一は喉を詰まらせた。
 言い返そうにも、亮の視線は目の前のスクリーンへと移っていて、どうにもならなかった。それでも腹立たしさは無くならないから、隣りの男を睨みつけることで気持ちを落ち着かせる。
 男は飄々とした顔で肩を竦めていて、更に苛立たせた。憮然とした表情で前方を睨んでいると開演のベルが鳴り響き、館内はすぐに暗闇と化した。
 その中で沸き立つように香る、激しく甘い匂い。亮がそれに気づかずにいてくれるだろうかと、映画どころではない。
 亮は、場面毎に表情を変え、食い入るように見入っていた。その横顔を見た喬一は胸を撫で下ろし、余計な詮索だったかと安堵した。
 

 朝之は、亮の連れに気づかれないようにそっと手を伸ばし、肘掛の上に置かれている手を握り締めた。
 冷たい指先が僅かに反応したが、こちらを見ることはなく、視線はスクリーンに注がれたままだった。
出会った頃の、人形のようにどこか空穂な様に戻っている亮が気がかりで、つい追いかけてしまった。今は目の前で繰り広げられている物語に心を奪われているが、通りで見た時の、あの貼り付けたみたいな笑顔の理由が気になった。そのうえ交差点ですれ違ったあの男が恋人だとは思いもしなかったから、それも驚きである。
 挑戦的な視線を向けてきた男に、わざと挑発的な態度や科白を言った覚えはあった。席一つ向こうの男の様子から、その時の印象の悪さが影響していることは明白だった。
 それとも、一度っきりの関係がバレてしまったというのだろうか。そう思えば辻褄が合う。亮のこの様子の説明にもぴたりと嵌まるというものだ。
 嘘くさい笑顔と焦点の合っていない瞳。
 ただ朝之は、以前失神寸前に亮が呟いた名前と、この男の名前が違うことに驚いていた。
 てっきりユキヤという男が恋人だと思っていたからだ。この男を亮は、キョウイチと呼んだ。
 ユキヤというのは引き裂かれた恋人か何か? それゆえ焦がれた挙句に名前を呼んでしまったか。
 それなら、この男が亮を縛っているということなのだろう。なぜユキヤの元へ走らない。キョウイチの傍にいれば、いずれその網に絡まって逃れられなくなるというのに。
 なぜユキヤは攫いに来ない。名前を呼んで果てるほどに、彼は恋焦がれているというのに。
まるで合点がいかない。訊きたいことばかりで焦れる。映画の内容など、小指の先ほども解してはいない。明滅しているだけの流れていく映像だ。
 焦がれる恋人と離れ離れでいることが幸せであるはずがない。何か深い理由があるのかもしれないが、この匂いは愛しい人と同じなのだろう?
 視界の端に映る亮の頬を、涙がつと落ちていく。映画の素晴らしさに感動しているのかもしれなかったが、直感がそれを否定した。
 後で亮に言えば、図々しいよと笑うかもしれない。その程度のことであっても笑って欲しいと思った。
 なぜだろう。亮に自分を重ねているからなのか。それともただの同情心なのか。彼はユキヤといるべきなのだと勝手に思ってしまう。キョウイチの蜜に捕らわれる前に、ユキヤと一緒に逃げて欲しいと思ってしまうのだ。
 ──俺のように……。溺れる前に……。


 映画が終わり、一気に館内が明るくなると、喬一は目を瞬かせながら横を見た。亮も眩しそうに目を瞬かせ、きょろきょろと館内に視線を泳がせていた。その様が可愛らしくて、つい頬が緩んでしまう。
 その視界へ、件の男の手が飛び込んできて、息が止まる。その下にあるのは亮の手だった。
 喬一の形相に気づいた男の手が、静かに引かれていくのを睨めつけて席を立った。
「お前。なに? 今、こいつの手を握ってただろう。お前は知らないのかもしれないが、こいつはオレの」
 子供染みた嫉妬心をあからさまに見せながら、オレの恋人だと言った。
 男は、視線こそ合わせないが耳を傾けて聞いている。
「横恋慕なんて、いい大人がすることじゃないよな。それに、女がいるだろ? 派手で知性の欠片もない、男と寝ることしか頭にないような馬鹿女がさ」
 酷い言われようだが、あれはただの客だと、朝之は笑いながら答えた。
「もしかして、俺が浮気相手とか思ってるのか? もしそうなら俺はなんとも間抜けな間男だな。……ばれてる」
 飄々と話す男の態度が腹に据えかねて、喬一は音が聞こえるくらいの歯軋りをした。
「オレが恋人なんだ。亮はオレの」
「まるで言い聞かせているみたいだな」
 朝之は嘲笑じみた笑みを浮かべた。真実そう思ったから言った。
 言い当てられたからか。先に帰ると言い残し、その場を逃げるように駆け出して行った。
 置いてきぼりの亮は席に着いたままである。朝之は俯いている亮の肩を軽く小突いてみた。ぽつんと涙が膝に落ちた。黒い染みがじわりと広がる。
「泣くぐらいならどうして追いかけない?」
 亮は目を擦りながら、首を振る。
「ユキヤはどうした」
 朝之の口から雪也の名前を聞かされて、細い肩が大きく揺れた。
「お前の恋人はユキヤじゃないのか?」
 返事の代わりに涙の勢いが増した。ぱたぱたと威勢良く落ちてくる。
 なにか深い訳があるのだろうが、それなら尚更心配になってしまう。おせっかいやきの悪い癖が顔を覗かせる。
「傷が深くなる前に、本当のことを言うべきじゃないのか? そうじゃないと、逃れられなくなるぞ」
「喬一が悲しむから、それは言えない」
ようやく顔を上げた亮は泣きじゃくっていて、唇を震わせながら言った。
「嘘を吐きつづけるよりは幾らかマシだろう」
「ぼくにはそんな資格はないから……。喬一を裏切ってばかりのぼくには……」
「騙し続けることが裏切りにはならないと思ってる?」
 亮は、うっと息を飲み、また泣き出した。ほろほろと零れ落ちていく涙を見ながら、朝之は齟齬を感じた。
 懸命に自分が亮の恋人だと知らしめようとするキョウイチと、嘘を吐いてでも離れようとしない亮。
 ユキヤの元に行きたくはないのだろうか。
 心の底で愛し続けているのはユキヤであるのに、どうしてキョウイチに拘っているのだろう。
 やはり齟齬がある気がしてならない。
 頬に手をあてて止まらない雫を拭ってやる。温かい涙が指に絡みついてきて、鼓動が小さくとくんと鳴った。
「心配かけてごめんね。朝之」
 涙で濡れた長い睫毛を震わせながら、亮は何度か瞬きをした。
 じっとこちらをみつめる濡れた黒い瞳を見て、何かが弾けた。
 それが何であるかは判別できないが、それがまさに、先ほどから感じている齟齬の原因であろうことだけはわかるのだ。
 理解る。
 理解るのは亮の側ではなく、キョウイチの側ではなかろうか……?
「一人じゃ心細いだろうから、送って行ってやるよ」
 頭を振り、この得体の知れない感覚を振り払うと笑顔で言った。 
 亮は頼りなげな笑顔で応え、折れてしまいそうなほど痩せた細い腕を伸ばし、逸れないようにと朝之のシャツを掴んだ。
 映画館から表へ出ると、陽はかなり西に傾いていた。長い二つの影が歩道に伸びる。繋がった影は、ゆらりと流れるように黄金色の夕陽の中へ歩き出した。

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