恋風

高千穂ゆずる

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ふた欠片の情夫(いろ)

(1)

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 車窓の外を延々と続く漆喰の塀を、瞳を輝かせて眺めている亮を見て、わざわざ都内にまで足を伸ばしたのは正解だったと喬一は微笑んだ。
 タクシーの助手席から身を乗り出すようにして、あと少しで着きますからとにこやかに声を掛けてきたのは、先日の取材旅行を提案した担当者の浜田である。本日の夕食会を企画したのもこの会社だった。
 数冊本を出しただけの駆け出し作家に、よくもまあこんなに金が出せるものだと思ったが、実際のところ、この出版社での喬一の刊行物に関しては人気も高く、新刊の問い合わせがずいぶんと前から多く寄せられていたのだ。
 件の取材旅行も、新刊のための布石だったのである。
 しかし遅々として筆が進まない現状に焦れた、編集長直々の命令でこの度の夕食会が設けられたのだ。
 この出版社がどれだけ喬一を買っているか。今夜招待された料亭の敷地に一歩足を踏み入れれば自ずと分かる。呑んで食うだけなら一杯飲み屋でもいいのだ。
 ようやく停車し、ドアが開いた。落ち着いた佇まいの木戸の前に、女将らしき女性が一人。すでに待っていて、車から降り立ったそれぞれに会釈をしながら、いらっしゃいませとよく通る声で言った。
「田上さまでいらっしゃいますね」
笑顔で女将が訊ねる。
「……はい……」
「澁澤さまがすでに中でお待ちになっていらっしゃいます。どうぞ、こちらへ」
 澁澤というのが編集長なのだろう。喬一は特に気にもせず、前を歩く女将の白い項に視線を落とし、後に続いた。
 あ、と何かに驚いた声が聞こえて振り返ると、続いて女将も振り返る。
 繋がれたままの自分の手と喬一の手を交互に見つめながら、亮が頬を赤く染めていた。どうやら人前で手を繋ぐのが恥ずかしいようだ。小さな子供じゃあるまいし、いくらなんでも手を牽かれて歩くには人目が有り過ぎると、恥ずかしさの余りに声をあげたのだ。
 恥ずかしがっている亮の手をぐいと引き寄せた。
「恥ずかしがる必要はない」
喬一は憮然とした顔で言った。
 自宅によく出入りする浜田には恋人であると話しているから、今更手を繋ぐことくらいで彼に気を使う必要はない。亮が気にしているのは、料亭の女将の方だった。好奇の目を向けられるとでも思ったのだろう。
「打ち水をしたばかりで足元が危ないようです。ここはお連れ様の手をお借りしてみてはいかがでしょう?」
彼女はその心中を察してか、首を僅かに傾がせて柔らかく微笑んだ。
 徐に喬一へ顔を向け、田上様もそれでよろしゅうございますかと訊ねた。
 もちろんそれを喬一が厭うわけがない。気を利かせてくれたことに気づいた亮は、手を繋いだまま、深々とお辞儀をした。
 では、どうぞと言いつつ女将が邸内に進む。
 木戸を潜るとすぐに小庭が現れた。打ち水で濡れて光る石畳を進むと、外灯がぽわりと玄関の引き戸を浮かび上がらせていた。
 先程の入り口もそうだったが、この玄関に至っても、料亭の名前がどこにも無い。
「ここの名前は?」
「隠れ家のようにお使いいただきたくて」
透けるような白い肌に、蠱惑的な朱の紅が笑みを象る。うまくはぐらかされた。
 一見客に店の名前は教えられないということなのだろう。席を設けたのは澁澤なのだから、それも仕方あるまい。喬一はそれ以上訊ねることもせず、中へと入った。
 ふわりと香が漂う廊下を奥へと案内されながら、編集長が待つという座敷へ向かう。
 庭に面した廊下を進むうち、庭の木立ちの向こう側に幾つかの明かりが見えた。離れでもあるのだろうか。ちらりと庭に視線を向けた後、繋いだ手の先へ顔を向ける。
 亮が少し怯えたような顔をしていた。
 もう一度庭を見る。
 ああ、ここは──と小さく呟いた。あのに似ているのだ。
「出版社の奢りだっていうんだから、美味いモンいっぱい食おうな」
 亮の身体を更に引き寄せて、後ろを歩く汗だくの男へ聞こえよがしに言った。もちろんその意図は、過去を思い出し、顔を強張らせている亮の気を紛らわせることだ。しかし担当者にしてみれば、いったい幾ら食うつもりなのだという不安でいっぱいになる。小さな出版社なのだ。一応の予算はある。
 額から滝のような汗を流し始める担当者を指して、心配するなと殊更声を上げて楽しげに笑った。
「冗談がキツイですよ、田上先生」
 安堵の溜息を吐く汗まみれの男に、亮が申し訳なさそうに、ごめんなさいと呟いた。
 お前が謝る必要はないと喬一が口を尖らせてぼやいているうちに、三人は座敷に着いた。
「こちらのお部屋になります。お食事はすぐにお持ちいたしますので」
 女将は丁寧にお辞儀をした後、廊下を戻って行った。
 障子を開けるときれいに髪を撫で付けた男が胡坐をかいて座っていた。男は、やあ先生と右手を軽く上げる。初対面であるのに、澁澤はという男はずいぶんと馴れ馴れしい。
「さあこちらへ座ってください」
浜田は喬一を上座へ案内した。
 喬一とその連れが腰を下ろすのを見届けると、澁澤は浜田を呼びつけた。
「あの青年は誰だ? 田上先生だけではないのかね」
 雨にでも降られたのかと思うほど汗で濡れた頭をほりほりと掻きながら、答えにくそうに、ああ、だの、うう、だのと唸っていた。
「まあ、いい。頃合を見計らって君が先生を部屋から連れ出してくれたまえ」
「それは、どういう意味で?」
 澁澤は軽く咳払いをした。
「この奥に部屋を取ってあるのだよ。先生にはそこでいろいろと愉しんでもらおうという手筈になっている」
 担当者は目を丸くして、それは──と言ったまま言葉を失ってしまった。
 澁澤は人差し指を突きつけると、先生の本の増刷が決定してねと、にたりと笑った。
「ここはひとつ。うちの看板作家になってもらおうと思っているのだから、君ね。失敗はいけないよ? 先生のご機嫌を損ねたりしないように、巧くやりたまえ」
 他所の出版社に移られたりしないようにね、とも付け加えた。
 浜田は、こちらを気にしている亮に目を遣った。ぱちりと目が合うと、亮が不安そうな表情になったものだから、思わず笑顔を返してしまった。その笑顔を見た亮は安心したらしく、強張らせていた肩の力を抜いた。


 一通りの食事が終わり、ほろ酔い気分で上機嫌だった。珍しく亮が楽しそうに美味しかった料理の話を耳打ちしてくる。
 謀ったように澁澤が、ちょっと厠へと言って部屋を出た。
 浜田は亮のことを知っているだけに、澁澤の企みには気が乗らなかった。嬉しそうに笑っている彼の顔を見れば尚更だ。
 ここは言っておくべきだろうと意を決し、先生と声をかけた時である。障子が僅かに開き、白粉でも塗ったように白い指先がそこから覗く。失礼しますと透明感のある綺麗な声が聞こえた。
「こちらに田上先生がいらっしゃると伺いましたので、参りました」
 伏せた睫毛は長く、男にしては幾分高めの声ではあったが、何より驚いたのは、青年が身に纏っている着物である。この料亭の趣向なのか知れないが、振袖を纏っているのだ。そしてその華美な柄に負けないほどの艶やかさを彼は持っていた。
 後ろでひとつに結わえた黒髪がさらりと揺れて、上座に座っている喬一に顔を向ける。流れるような所作で今度は亮を見た。
 驚きの色が、黒く輝く虹彩に浮かぶ。射すくめるように、視線を固定させる。
 そんな風に見られる謂れがわからない亮は、萎縮するように触れる温もりに身をすり寄せた。
「燕と申します」
青年は頬を緩ませて言った。笑うと目尻が下がり、幼く見えるその笑みは、女将に似ていた。
 身をすり寄せている亮と、その身体を支えてやる喬一を見て、燕と名乗った青年は、小さな溜息を漏らした。
「なにやら、手違いがあったようですね。わたしはこれで下がらせていただきますが、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
 桜色の爪がきれいに並ぶ指先を揃え、お辞儀をする燕の漆黒の髪が、さらりと畳の上へ零れ落ちた。
 薄い桃色をした牡丹の花が袖先で翻り、見事な友禅の着物は音も立てずに廊下へと下がる。皆の視線を一様に浴びながら障子は閉じられた。
 今のはなんだったんだと問い詰められて、未だに汗がひかない担当者は渋々編集長の企みを白状した。
「女を宛がえば思い通りになると思ってんのか? お前んとこの編集長って野郎は」
 浜田は、申し訳ございませんと寅の張子みたいに繰り返し頭を下げた。
「だけど、あの人……」
 亮が助け舟を出した。浜田が涙目で振り返る。
「手違いがあったって言って下がってくれたよ?」
「言われてみればそうだな」
「ぼく。お礼を言ってくる」
 亮は部屋を飛び出して、燕を探した。
 自分たちの関係に彼は気づいたのだ。 そうでなければ、あのまま喬一は部屋から連れ出されて、どこか別の部屋で女の人と──。
 彼はそこに気づいてくれて、そして女将がそうであったように、優しい気遣いを見せてくれたのだ。
 燕はすぐにみつかった。
 背後から来る気配を感じていたのか、長い廊下の中ほどで立ち止まり、亮が追いつくのを待っていたのである。
「なにか」
そう言って身体の向きを変え、亮と対峙した。
 廊下の端々に取り付けられている外灯の橙色に、燕の色白な顔が浮かぶ。
 白地に牡丹が描かれた見事な大振り袖の友禅に、臙脂色の帯がとても合っていた。
「なにかわたしに用があるのですか」
 燕の声色が先ほど座敷で聞いたものと違うことに戸惑った。険のある物言いにたじろぎながらも、礼を言った。
「なにがですか?」
燕は首を傾げて訊き返す。
「彼を女の人のところに連れて行かないでくれて。だって……わかったんでしょう? ぼくと彼とのこと」
 燕は目を細めて、くすっと小さく笑う。灯りの中で蠢くその赤い唇が艶めかしい。
「こういう仕事をしていれば、自然とわかるようになるものなんだよ。だから、わざわざ礼を言いに追いかけてこなくてもよかったのに」
 口調も変わる。
「だけど……」
言いかけた亮の唇を、桜貝の指先が止めた。
「きみは鶯だね」
 赤い唇が謎の言葉を吐いた。
「鶯? あの……鳥の?」
「澁澤さまの方は巧く取り成しておいてあげる」
その問いには答えずに、燕は笑って踵を返した。
 亮は意味がわからず、廊下の向こうに消えていく燕の背を見送った。
「鶯?」

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