地獄日記

岸根リョウ

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 最初は些末なことをいちいち気に病むようになった程度だった。

 電話がかかってくる。相手は誰か、何かを咎められるのか、誰かに不幸があったのか、急ぎの用事か──そんなことが気になって、不安でいっぱいになり、ついには手が震え始めて、息も苦しくなる。結局呼び出し音が鳴り止むまで、汗びっしょりの手で携帯を握りしめて息を潜めていた。

 家族に軽口を叩かれる。それが一分くらいかけて心の奥に抉り込むような傷をつけたあと、自分の尊厳を思い相手への怒りや落胆に転じて、最終的には自己嫌悪へと帰ってくる。その間実に三時間、私は口も聞けずにただ泣きじゃくるだけだった。涙が次から次へ溢れては落ち、鼻が詰まって頭がくらくらしてくる。家族の困惑しながら懸命に謝る姿は今も記憶に焼き付いて離れない。

 ああ、私は頭がおかしくなってしまった。以前は決してこんな人間ではなかったのに。

 頭の冷静な部分では自分の異常に気がついていた。しかし感情がどうも思い通りにコントロールできず、思いがけない日々を送っていた。「冷静に考えて」分かることが分からなくてなってしまった。なにより平静を失っていた。まごついて生きるも死ぬもままならない自分を、冷めた目で見ている自分もいた。子ども返りしたみたいだな、と自分を嘲笑っていた。考えがまとまらなくて何にも集中できなかった。お先真っ暗、正にその通りだった。

 そんな調子で半年ほど過ごしたある秋の日、その日は朝から天気が良くて空が高かった。夏の名残でまだ絨毯も敷いていない硬い床に横たわって三つ深呼吸した。目を閉じると簾越しの陽だまりに稲の薫る秋風が流れていた。どこかときめくような心地で、眠気にも似た安心感で胸がいっぱいになった。幸福とはこのことかとすら思えた。それで唐突に、今日死ぬことに決めた。

 まず身の回りの整理を午前中に済ませて、午後から準備をして日が暮れる頃には死んでしまおう。思い立ったが吉日──というより命日だが──、計画を立ててしまえば行動は早かった。

 携帯とパソコンはデータを消去して、念のために鉄パイプをぶち込んでおいた。あまり機械系統には詳しくないがなんとなく大事そうなパーツは粉々にしていった。掃除機と雑巾でかけらまで丁寧に掃除して、ひとまず資源ごみの袋につっこんでおいた。衣類、書籍、仕事の資料はすべて燃やした。車で適当な河原へ走って、一斗缶にガソリンとともに投げ込んで火をつけた。田舎では河原で少し火をあげているくらいでは何も言われない。閉鎖的で大嫌いだった故郷が今はありがたかった。帰りに銀行へ寄って預金を全額下ろした。家に着くとキャッシュカードとクレジットカードははさみで真っ二つに切っておいた。なけなしの全財産は死後処理の足しにでもして欲しい、一筆添えて札束を封筒にいれた。情けないほど軽かった。そもそもここまでの半年間で少しずつ持ち物を処分していたので、それほど手間はかからなかった。

 飛び降りるか。一度飛んでしまえばあとは野となれ山となれだ。首吊りは現場が汚れるし、練炭は車があるので考えたが成功率が低い。薬は苦しいし、人様に迷惑をかけるやり方も好ましくない。適当な公有地へ車で行って、鍵はちゃんと持ったまま飛び降りてしまおう。最後の食事に好きなものでも食べるか、と冷蔵庫を開けると数日前のフランスパンの切れ端があった。カチカチのパンをむしりながら、好物はフランスパンだったと思い込むことにした。

 家の鍵をしっかりと閉め、車に乗り込んだ。アパートから実家に寄り、ポストに鍵をいれておいた。初老の両親は未だ共働きで、夜まで誰も帰らない。彼らに鍵が見つかる前に、私は事切れておかねばならない。再び車に乗り込むと、急いで以前から目星をつけておいた山道を走った。車で入れる限界まで行って、そこら車を降りて歩いて登った。とても気分が良かった。

 今朝死のうと決めてから、私の気分はひどく良かった。河原で会った老人やATMにいた警備員にも、感じ良く挨拶をしてあまつさえ軽い世間話までするほどだった。顔には笑みをたたえていた。自死の難点は、汚らしい死体を人目に晒してしまうことだ。見た人のショックは計り知れないだろう。それはたいへん申し訳なかった。リンゴのように、私も塩水につかってからくれば良かったと愉快なことまで考えた。しかしこうも思う。人間は死体を見たいだろう。怖いもの見たさ、この言葉は恐ろしいほど人間の本質を突いている。私の死体を見て気分が悪くなる奴の中には、そもそも死体を見てみたかったから見た奴もいるだろう。いいだろう、最期に見世物になるのも悪くない。人間どもの娯楽となってやろう。社会貢献だ。私なんかにもできることがあるなんて、案外捨てたもんじゃないな、人生。もう死ぬからこそ思えることだが。

 予定よりも早く、午後四時頃には目的地についた。自死を抑止したい看板どもが目に入った。こんなもので止められる死なら良かったのにな、上機嫌で看板に喧嘩を売ってやった。日は少し傾きかけていた。残暑がようやく引いた折で、肌寒い風がびゅうびゅう吹いていた。山道を登った体は熱をたたえて汗が滲んでいた。達成感、満足感、そして厭世観。今はこんなに気分が良くとも、山道を降りればそこは生ける地獄だ。小さな幸福では蔓延る大きな不幸にとても太刀打ちできない。精神力の無い人間なら尚更だ。それにしても、開けた高台は格別に気持ちが良い。しなびた街並みを見下ろして、そこに灯るいくつもの明かりを嘲笑って、人生で一番気分の良い瞬間だった。思い残すこと、未練、気がかり、そんなものは何一つ無かった。あったとしても取るに足らないと思えた。もう私は死ぬのだ。こののちの一切が他人事だ。

 あんまり気分がいいので、普段は痛めつけている自分にも優しくしてやることにした。自らの肩を軽く叩きながら笑顔で呟いた。

 「悪いな。これまで、なんとか前向きに、いつかは楽になると信じて、一歩ずつ一歩ずつと頑張ってきた。良くなったり悪くなったりしながらも、決して諦めず歩いてきた。でももう駄目なんだ。死のう。今日が、最良の日だから。」

 これまでの自らの努力やもがき苦しんだ日々を初めて肯定できた。自分はよくやった、頑張ってきたと思えた。最期の時にようやく自分を認めて誇りに思えた。私は素晴らしい人間だったのだ。ただし人生はクソみたいなもんだった。

 目を閉じて両手を広げて、目一杯深呼吸した。最期に酒でも飲めば良かった、あと携帯は粉々にする前に解約するんだったと、いざ死ぬ瞬間になっても私の頭は凡庸で奇怪だった。飛び降りただけで本当に死ねるか不安だった私は、念のため医者に処方されていた睡眠薬をありったけ持ってきていた。結局薬飲むんじゃないか、お茶目だなあと苦笑した。ペットボトルの水が許す限り飲み切った。僅かに水の残ったペットボトルは遠くへ放り投げた。高いところから物を投げるのは危険だからと教えられやったことがなかったが、やってみると気分がいいものだ。しかし思ったほどは楽しくないな。

 二度と目覚めませんように!
 人生で最も美しい声でそう叫べた。それじゃあよいしょ、と飛び降りた。

 整地もされていない坂道を転がり落ちながら、全身はズタズタに引き裂かれていった。おおよそ人間の弱点と思われる部位はもれなく太い枝に貫かれた。首は何度もあちこちに曲がった。途中でゴキンと鈍い音がしてからは何も感じなかった。痛かったのも途中までで、あとはひたすら吐き気がした。頭がぼんやりしてきた。痛みは許容範囲を超えると痛みでなくなるのだと知った。此の期に及んでも私はまだちゃんと死ねるか不安だった。やがて意識が無くなった。


 最悪の気分で目が覚めた。体の節々が痛み、頭が重く締め付けられるようだった。息がひどく苦しく、胸がグルグル回るようで吐き気がした。視界がぼやけて鼻の奥からツンと鉄臭いにおいがした。どこかからパソコンをタイピングするような音が聞こえていた。

 「起きてるだろう。立て。」

 低い声とともにシャツの襟首を掴んで体を持ち上げられた。息も絶え絶えになんとか自分の足で立つと、膝が裏側にあることに気がついて猛烈な痛みが襲ってきた。誰かのものだと思っていた呻き声が自分の口から出ていると暫く気がつかなかった。私は死ねなかったのか。そう思って顔を上げると、目の前には憎んでいた上司の顔があった。呆気にとられていると、上司の顔をしたソレは先程と同じ低い声で言った。

 「甘えるな。働け。」

 周囲を見渡すと職場だった。逃げ出したくてたまらない日々のほとんどを過ごした場所。胃がキリキリと痛んだ。無機質な白い壁に青いカーペットの床。ずらりと並んだデスクの全てにパソコンが置かれていて、顔のない人形がシャツにネクタイを締めてタイピングしていた。どうにも様子がおかしい。

 死ねなかったにしても職場にいるのはおかしい。これは一体何なんだ、夢にしては痛みがあまりにリアルだ。虫の息で突っ立っている私に、上司顔のソレが真っ白な社員証のようなものを手渡した。

 「下で手続きしてこい。」

 私の憎む上司と同様、何の説明もせず大雑把な指示だけをしてくる。果たして虫の息の私は生前とこれまた同様に黙って指示に従い、背後のエレベーターに乗り込んで1Fを押した。私の職場だ。建物の作りは何一つ変わらない。

 一階に降り立つと何をどう手続きすれば良いか分からなかった。人気のないフロアを見渡すと、受付に人が座っているのが見えた。重い足を引きずって這うように辿り着くと、職場で私が毛嫌いしていた受付嬢の顔をした人形が、不細工に微笑んで言った。

 「地獄にようこそ」
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