夏の終わりに

佐城竜信

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千葉酒店と鏑木道場の間には別名『心臓破りの坂』と呼ばれるほどに急こう配の坂がある。彰久はその道をビールケースを3段積んだ配達用の自転車で駆け上がっていく。普通の人間ならば、とてもではないが登れないような坂だが、彼はまるで平地を走るようにスイスイと上っていくのだ。
「こういう時は空手やっててよかったって思うんだよな」
空手で鍛えている彰久の足腰は、常人よりも遥かに強靭である。そんな彼にとってこの程度の坂道など苦でもないのだ。
その坂を上りきると、彰久はガードレールの向こうへと視線を向ける。眼下に広がる街並みはずらりと広がる民家が綺麗に並び、駅前には大きなショッピングモールが見えた。彰久が子供の頃にはなにもなかったはずの街は今や立派なベッドタウンとなっている。
「……しかしまあ、よくもここまで発展したよなぁ」
感慨深げに呟く彰久だったが、実は彼が住んでいた頃でも既に駅の周りだけは栄えていた。駅周辺の開発が進んだのはここ数年のことである。それというのも、この街に新たなバイパス道路が開通し、それに伴い周辺に大きなショッピングセンターができたからだった。
自分の生きている世界が変わっていく。その実感はなんとも不思議な感覚であった。
そして同時に、あの頃の自分とは違うのだということも感じてしまう。
「…………」
無言のまま、彰久はじっと景色を見つめ続けた。

***
鏑木空手道場へとたどり着くと、中はしん、と静まり返っている。
「ごめんくださーい」
勝手知ったる他人の家というわけで、彰久はそのまま奥の部屋へと向かう。するとそこには道着姿の大柄な男が座っていた。
男の名は鏑木正義。鏑木道場の師範であり、50歳を過ぎているというのに未だに現役バリバリの格闘家だ。彼の肉体は隆々としていて、年齢を感じさせない。
ただ座っているだけだというのに、その姿はまさに威風堂々といった様子だった。その迫力に飲まれたのか、いつもなら挨拶をする彰久であったが今日ばかりは何も言うことができない。
彰久の姿に気が付いたのか、正義はゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、ビリリとした緊張感が部屋中に走った。
まるで虎の前に立たされたかのような錯覚を覚える。
(相変わらずすっげぇ殺気だよ)
思わず冷や汗が流れ出そうになるのを抑えながら、彰久は口を開く。
ここで怖気づくようでは話にならないからだ。
それにしても、どうしてこんなに怖い雰囲気を出しているんだろうか? そう疑問に思った時だった。
突然、正義の顔つきが変わる。それは先程までの鋭い目付きではなく、どこか優しい表情をしていた。
「やあ、彰久君。いらっしゃい」
声色も優しくなり、口調まで変わっている。
これが普段の鏑木正義なのだ。
「待っていたよ。改めて、県大会優勝おめでとう」
「ありがとうございます!」
嬉しそうな笑みを浮かべる正義を見て、彰久もまた笑顔になる。
「正義さん、ビールケースはどこにもっていけばいいですか?」
「そうだな、部屋の隅にでも置いておいてくれるか?どうせ後でみんな勝手に持っていくだろうしな」
「了解しました」
彰久は自転車からビールケースを降ろし、3ケースまとめて指定された場所へと運ぶ。その姿に驚いたように正義が声を上げる。
「全部まとめて運んでくれたんだね。大変じゃなかったかい?」
「大丈夫ですよ!これくらい軽いですって」
「ハハッ、頼もしいなぁ。やっぱり君は若いだけあって力持ちなんだねぇ」
褒められたことが嬉しいのか、彰久はさらに上機嫌になりニコニコとしている。そんな彼を見ていると正義も自然と頬が緩んでしまう。
「彰久君、悪いんだけどテーブルを出すのを手伝ってくれないかな?」
「わかりました」
宴会には総勢二十名程度の大人が来る予定だ。そのための準備をしなくてはならないのだが、あいにくと人数分の椅子を用意するだけのスペースがない。そこで畳の上に直に座ることで対応することにしたのだ。
二人で協力して折りたたみ式の小さな机を出していく。
準備を終えたころになって、真理が台所から姿を現した。
「彰久君、いらっしゃい!」
「真理姉、こんにちは!手伝いに来たよ」
「あら、ありがたいわ~。助かるぅ」
彼女は鏑木道場の娘であり、この家の家事全般を任されている。
「じゃあ、さっそくだけどお料理を手伝ってもらえるかしら?」
「了解!それじゃあ正義さん、またあとで!」
「ああ。頑張ってくれよ」
手を振ってくる正義に手を振り返し、彰久は台所へと向かった。
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