夏の終わりに

佐城竜信

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七月の終わりに、彰久は空手の全国大会に参加していた。対戦相手は優勝候補ともてはやされた男だ。
一進一退の攻防がつづいた末、彰久の突きをかわした相手の蹴り足が、彰久の顎にきまった。一瞬意識を失いかけた彰久はしかし気力で持ちこたえたが、さらに追撃をあびせられ、その攻撃で完全に失神してしまったのだ。
「一本!」
審判の声がきこえ、相手が勝ち誇ったように笑ったとき、彰久は目をさました。
だがそのときにはもう勝負はついていた。相手は膝をついて荒い息を吐いていたし、彰久も起き上がろうとしてよろめいているところだった。審判の手には旗が握られていて、それが高々とあげられていた。
「勝者! 佐藤!」
その瞬間、会場から大きな拍手と歓声がわいた。
彰久は立ちあがり、礼をして舞台を去った。そして控室へもどると、出迎えてくれたのは千里と正義だった。
「残念だったな」
正義が声をかけてきた。彼はいつものように穏やかな笑顔を浮かべていたが、彰久の顔を見て泣きそうな表情になった。
「……大丈夫か?」
「うん」
うなずいてみせたものの、彰久はそのときはじめて自分が泣いていることに気付いた。
「ごめんよ」
謝って、涙をぬぐおうとしたら、千里がハンカチを差し出してくれた。それで顔を拭いているうちにまた涙が出そうになったけれど、なんとかおさえて顔をあげた。
「彰久のそんな顔初めて見た」
千里が嬉しそうに言った。
「どんな顔してる?」
「悔しくて仕方ないって顔」
「まあね」
苦笑いしながら答えると、今度は正義が口をひらいた。
「でもすごい試合だったぞ。あの佐藤とかいう奴だってかなり強かったじゃないか。よくやったと思うよ」
「ありがとう」
「次はもっと頑張れ」
励ますように言われて、彰久はうなずいた。
「うん」
彰久の全国大会での結果はベスト4だった。優勝できなかったことは本当に悔しかったし、それに、負けた相手が自分よりはるかに強い選手だったことにもショックを受けた。
けれども同時に、自分はまだまだ強くなれるという確信もあった。こんなことでくじけるわけにはいかないと思った。


そして今。彰久と千里と正義は新幹線に乗っている。全国大会は京都で行われたので、その帰りだ。
「でも彰久も強くなったよね!すごく頑張ってたもの」
「ああ、そうだな。それにプロの誘いも来てるんだろ?凄いな」
「うん……」
二人は褒めてくれているが、正直なところまだ迷いがある。プロの世界に入るなら、いまの実力ではダメだと思うのだ。
アマチュアの格闘大会で見事に優勝を果たした彰久のもとには、いくつかプロからの勧誘があった。ジムのトレーナーや、格闘技雑誌の編集者などだ。彼らはみな一様に、「うちのジムで一緒に鍛えよう」「ぜひうちに来てくれ」と言ってくれた。プロになりたいという願いを持つ彰久には魅力的な話である。
しかし彰久はそれらの話を断りつづけていた。確かに、ジムや雑誌からのオファーが来たときには嬉しかった。だが、やはり迷ってしまうのだ。プロとして生きていく覚悟がまだできていない気がする。
それに、いまだに父親である彰吾の許可をもらっていないのだ。格闘大会の会場に来てくれたことは間違いないはずなのだが、本人に聞いても。
「えー?行ってねえよー」
などとすっとぼけられてしまう。それどころか、
「いやあ、お前が優勝したなんて信じられんわー!」
などと笑われてしまう始末だ。会場で彰吾の姿を見たことが自分の妄想なのではないか、とすら彰久は思い始めていた。
ふと千里を見ると、深刻そうな顔をしている。どうしたのかと尋ねてみると、
「……彰久。あのね?その……。お姉ちゃんが婚約したの」
「真理さんが?」
「うん。それで、大学の同級生で図と付き合ってたらしいんだけど、お相手はすごくいい人でね。大学を卒業したら同棲して、結婚するつもりなんだって」
「へえ……」
真理は二十歳だから、結婚してもおかしくはない年齢だ。それに、彼女がずっと交際してきた人と結婚できるというのは嬉しいことだろうと思う。
彰久の家族である千葉家と千里の鏑木家は家族といっても過言ではないくらいの関係なので、二人が結婚するのは自分にとっても喜ばしいことだ。お祝いを送るべきだろう。そう考えている彰久を見て、千里は顔をしかめた。
「彰久、悲しくないの?」
「どうして?二人が幸せになってくれるのは僕にとってもいいことだよ」
「だって彰久はお姉ちゃんのことがずっと好きだったんでしょ?」
「……」
彰久は何も答えられなかった。確かに、姉の真理のことを昔から異性として意識していたのは事実だ。それは否定しない。けれど、それ以上に彼女は大切な存在だった。
だが、それ以上に。
(確かにそうだよな。本当に好きならこんなにあっさり諦められるわけがない)
自分に言い聞かせるように思う。そして、改めて考える。自分は本当に、真理のことを異性として愛していたのだろうか。ただの姉ではなく、女性として。
(俺はきっと、姉弟としての愛情を恋愛感情と勘違いしていただけなのかも……)
そんな考えが頭をよぎった。
「……千里、俺はやっぱり」
「待って」
そう言って千里は彰久の言葉を遮り、彼の手を握りしめる。
「ごめんね。私ひどいこと言ったね。でも、私は彰久に後悔してほしくないの」
「千里……」
「さっき彰久が言ったとおり、二人が幸せになることは良い事だと思う。でもね。それで彰久が悲しい思いをしてるなら、それは間違ってるよ」
「……千里」
千里の真剣な目を見ていると胸がきゅっとなるような感じがした。
「あのね、彰久。前にも言ったけど、私たちはいつでも彰久の力になるから。だから遠慮なく頼って欲しいの」
「ありがとう、千里」
「ううん。こちらこそありがとう」
彰久は微笑み、それから窓の外に視線を向けた。流れゆく景色を見ながら、彼はもう一度思った。
───俺は、真理さんのことを、本気で好きだったのかな?
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