彼と彼女の曖昧な関係。

いしもりえりか

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第4夜(後編)

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「奥様が部長以外の誰かとしていることを、私と部長で、しませんか?」

たった一度だけ、仕返しをしてみませんか?のあとに続く言葉を全く予想出来ていなかった僕は、ふざけている風でもない彼女に返す言葉を失った。

「行きましょう、部長。」

そう言って彼女は僕の手を引いて歩き出す。入社した頃から、新卒という初々しさの陰に見え隠れする度胸と大胆さがあった。突拍子もない発想力のお陰とでも言おうか、彼女は1年で目まぐるしい成長を遂げている。そうして部下としてそばで見守ってきたはずの彼女が。まさかそんなことを言い出すなんて、誰が予想できただろうか。

「うちのマンション・・・じゃ申し訳ないですよね。どこかホテルにしましょうか。」

車のそばにきて、至極冷静にそう言葉を発する彼女。

「私はどこでも構いません。運転するのは部長ですから、・・・選んでください。」

それは場所だけの話だろうか。そういう行為をするかしないかの話だろうか。

「・・・わかった。」

そこで初めて気付いたのだ。僕の手を掴む彼女のそれが、小さく震えていることに。そのことに気付いた瞬間、それまでの動揺が嘘かのように思考がクリアになった。

「僕がマンションに入っていくところをご近所に見られたら、君が気まずいだろう?・・・この近くのホテルにしよう。」

彼女を助手席に乗せ、車を発進させる。ホテルの部屋に入るまで、僕らの間に会話はなかった。

「・・・君は、後悔しないかい?ひと回り以上も年の離れた僕と、なんて。」

バスローブを羽織ってシャワールームから出るなり、先にシャワーを浴びてベッドの淵に座っていた彼女に問いかけた。その問いに対し、静かに首を横に振る彼女。妻への報復のために部下を抱くなんて、こんな馬鹿げたこと、していいわけがないのに。

「やめますか?」

ふいに、彼女の腕が僕の首に回って。少し寂しそうに笑う彼女の瞳が、真っ直ぐ僕を捉える。

「言ったでしょう?選ぶのは部長です。」

儚さと、普段の彼女からは想像もつかないような艶やかさに、僕の中の本能が騒ぎ出して。

「どんな選択をしても、私は貴方に従います。」

そういって微笑む彼女を僕は、そっとベッドに沈めた。

「部長は、私に言い寄られて困っていただけです。『1度だけでいいから』と関係を迫られた、ただそれだけ。だから部長が気に病む必要は絶対にありません。」

情事を終えて、それぞれシャワーを浴びた後。身支度をする僕の背中に、すでに身支度を整えた彼女の指先が、遠慮がちに添えられた。

「万が一誰かにバレても、絶対に私が責任を負いますから。」

だから安心してください、と。そんな彼女に、僕は慌てて振り返った。

「いや悪いのは全部僕だ。だから・・・」

君が責任を感じる必要はない、という言葉は触れるだけのキスに遮られた。

「部長、今日はありがとうございました。ここからならマンションもそんなに遠くはないですし、タクシーで帰りますね。」

そう言って微笑む彼女は、いつもの有能な部下だった。

「はぁ・・・」

お疲れ様でした、と一礼をして、引き留める間もなく出て行ってしまった彼女。ひとり取り残された僕は、ソファに腰かけ、ひとつ溜息を零した。妻が不倫をしていることは薄々知っている。元々見合い結婚で、妻は諦めて僕と結婚しただけだった。僕なりに妻を愛してはいたけれど、妻はきっとそうじゃない。でも、それでもいつかは僕の元に戻ってきてくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いていた。

「・・・帰るか。」

そう独りごちて、重い腰を上げる。いつまでもここにいたって仕方ない。家に帰って、妻に会えたら話をしよう。一度きりとは言え、妻以外の女性、ましてや部下と関係を持ってしまった以上、どうしたってこのまま、というわけにはいかない。ベッドの上で彼女とまぐわっている間、ほかの誰でもなく、ただ目の前にいる彼女だけを求めていたことは否定のできない事実なのだ。

「ただいま・・・。」

すでに電気の消えた部屋に帰宅した僕は、リビングの電気をつけ、ソファに深く座る。会社を出た時点で日付を跨いでいたので、時計はもう5時を回っていた。

「・・・遅かったわね。」

寝室から出てきた妻は、ちらりと一瞬だけ視線を寄越して、すぐに興味無さそうに視線を戻してキッチンへ入っていく。

「・・・少し、話さないか?」

僕を一瞥して、溜息をひとつ落とす。ダイニングに座る妻。

「改まって、何?」

ここで妻とちゃんと向かい合って食事をしたのはいつが最後だっただろうか、とぼんやり思いながら。

「離婚、しようか。」

妻が驚いてこちらを振り返った。

「ほかに男がいるだろう?」

困ったように微笑む僕に、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「・・・知っていたの?」

「・・・別にそれを責めるつもりはない。僕にも非があったんだろうからね。」

妻は諦めたように目を伏せて。

「あなたのそういうところ・・・本当に嫌いよ。興味が無いって言われてるような気がして、ずっと嫌だったの。」

そんなこと無いのに、と思ったが、元々周りから淡泊なタイプだと言われていたぐらいだ。僕のそれは、妻にとっての許容値を下回っていたということだろう。

「・・・僕も今日、部下に手を出してしまった。」

そう、とただ一言。

「本当は、できることならもう一度2人でやり直したかったんだ。」

「・・・無理よ、きっと。愛の価値観が合わない以上、また同じことの繰り返し。・・・もう、疲れたの。」

薄々わかってはいた、もう修復は不可能だということを。それでも結婚して10年。短いようで長い期間をともに過ごした時間が、少しだけ僕に寂しさを与えた。

「離婚、しましょう。」

「・・・わかった。」

「ねぇ・・・ひとつ、聞いてもいい?」

あぁ、と答えながら、なんだろうと首を傾げる。

「部下って、ショートヘアの小柄な子?」

「そうだけど・・・なんでわかったんだい?」

そう・・・あの子なのね、と納得したような表情の妻。

「去年、会社に書類を届けに行ったことがあるでしょう?」

言われてみれば・・・そんなようなこともあったな、と。

「その時、遠目からこちらを見ている女の子がいて、軽く会釈をしてきたの。遠目でもわかるほど、可愛い子だなって思った覚えがあるわ。」

そういって笑う妻をみるのは久々だった。同時にその時の彼女を思い出して、僕も笑った。

「・・・彼女は君のことを、綺麗だ、と言っていたよ。羨ましい、ともね。」

「そう・・・。あの子、本当にあなたのことが好きなのね。」

思いもよらない妻の言葉に、目が点になる。

「だって、あなたの隣にいる私が羨ましかったんでしょう?・・・それとも『あなたが羨ましい』とでも言っていたの?」

「いや、そこまでは覚えていないけど・・・」

でも確かに、羨ましい、とだけしか言っていなかった気もする・・・。

「迫られて、抱いたんじゃないの?」

「・・・違うよ。昨日ホテルで・・・見かけたらしくて。たった一度だけ仕返しをしてみないか、って言われて、それで・・・」

妻は驚いたように僕を見たあと、気付けば笑い出していた。

「その子、大切にしなきゃだめよ?きっとあなた、今度こそ幸せになれるわ。」

早く捕まえないと誰かに取られるわよ、と悪戯っぽく笑った妻はすっきりしたような表情で。その日中に荷物をまとめて、この家を出て行った。
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