彼と彼女の曖昧な関係。

いしもりえりか

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第4夜(前編)

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入社して半年目、1度だけ遠くからその人を見かけたことがあった。それは丁度、仕事にも慣れ、周りのことにも目を向けられる余裕が出てきた頃のこと。

「・・・奥様ですか?」

とても、綺麗な人だと思った。

「あぁ、きみか。」

お疲れ様、と微笑まれ、お疲れ様です、と無意識に微笑み返す。

「お綺麗な方ですね。」

・・・それはもう、遠目から見てもわかるほどに。

「私としたことが、書類をね、玄関に置き忘れてしまって。届けてもらったんだ。」

・・・少し照れたような部長から返ってきたのは、そんな、返事になっていて返事になっていないような曖昧なものだった。

「・・・羨ましいです。」

貴方の隣に胸を張って立てる彼女が。・・・なんて、言葉にできるはずもなく曖昧に笑ったあの日のことを、酷く鮮明に覚えている。入社後すぐの配属先で、私は部長の直属の部下となった。40代、といっても長身でスーツの上からでもわかる健康的な身体。若い頃には騒がれたであろう面影のある、穏やかな笑顔の優しい上司だ。もちろん仕事も出来て、人望だって厚い。そんな上司を尊敬するのに、そう時間はかからなかった。そして、自分の心に芽生えた淡い気持ちに気付くのも、同じく時間の問題だった。

「ね、合コン行こうよ~。」

今日は上玉よ~、と笑う彼女に苦笑い。

「ごめん、まだ仕事のことで手一杯だから・・・。」

そう言っていつも、曖昧に返す。

「も~、またぁ?・・・実は好きな人でもいるんじゃないの?」

疑わし気にジト目をこちらに向ける彼女に肩を竦めて。

「そんなんじゃないってば。」

なんでもないように返すのだ。同期はもちろん、親にも親友にも言えない秘密の恋心。

「今、本当に仕事が楽しいの。」

純粋に仕事を楽しいと思っているのは事実。でも。仕事をして成果を上げれば、部長に褒めてもらえる。部長に期待してもらえる。直属の上司である部長の仕事にも同行させてもらえる機会が増えて、部長と一緒にいられる時間が長くなる。そんな下心があるのも確か。女としてじゃなくても、せめて部下として一番でありたいと。それだけだったはずなのに、ほんの少し欲が出たのは、初めて部長の奥さんを見たその日から、さらに半年ほど経った頃。

「あれ・・・」

社会人2年目に突入して、大きな案件もひとりで任されるようになって。その日も会場の下見をするために、私はとあるホテルにいた。ホテルのロビーで挨拶をしていて、たまたま視界に入ったエレベーター。その箱から降りてきた男女に、私は既視感を覚えた。正確には、女性のほうに。

「藤宮様が同じ女性を連れてるなんて珍しいわね・・・いつも違う女性を連れているのに。」
「・・・ちょっと、やめなさいよ。ほかのお客様に聞こえたらどうするの?」

担当者から離れ、すれ違った清掃員たちのひそひそ話が微かに耳に入る。そしてふと、既視感の理由を自分の記憶に見つけた。

「部長の奥さんだ・・・。」

それに気付いた瞬間、何故か生まれた罪悪感は、その日のうちに私の中で牙を現したのだ。

「はぁ・・・」

会社に戻った私は、そのあと部長と目が合う度にひとりで気まずさを覚えていて。それを悟られたくなくて、絶対に定時で帰ろうと仕事を片付けた。・・・にも関わらず、定時間際に急遽ほかの部署から回ってきた仕事のせいで、残業が決定してしまった。

「終わりそうかい?」

突然後ろからかけられた声に、びくりと肩を揺らす。

「は、はい。この資料をメールしたら完了です。」

ほかの社員は帰宅していて、部署内に残っているのは部長と私だけ。

「ごめんごめん、驚かせてしまったね。」

そう言って笑う部長の顔には、どこか疲れが滲んでいるように感じた。「終電、逃してしまっただろう?家まで送っていくよ。」

いつもは残業しても終電までには帰れるのだけれど、たまに今日みたいに終電すら逃してしまうような残業もあって。そんな日には決まって部長が家の近くまで送ってくれていた。

「まだこの時間ならタクシーも多いし、大丈夫ですよ。」

部長の車で2人きりの30分間。嬉しくて幸せだけど、疲れている部長の手を煩わせるわけにはいかないと、小さく笑って首を横に振った。

「そうか・・・」

眉を下げた部長が、少し思案して、悪戯でも思いついたかのような表情でパッと顔を上げる。

「じゃあ、ちょっとドライブしたい気分なんだが付き合ってくれないか?・・・というのはどうだろう?」

部長の言葉に驚いて目を見開く。いつもならそんなこと言わないのに、と。

「・・・わかりました、ご一緒させて頂きます。」

ありがとう、と優しく笑う部長に、お礼を言わなきゃいけないのは私なんだけどなあ、とこっそり笑った。

「じゃあ行こうか。」

片付けを済ませて、部長と駐車場に向かう。その横顔はどこか楽しそうで、42歳でこの可愛さは詐欺だろう・・・、と内心悶えつつ、部長のエスコートで助手席に乗り込んだ。

「折角付き合ってくれるんだ、お礼をしなきゃな。君が大丈夫なら、とっておきの場所に連れて行ってあげたいんだが・・・」

「大丈夫です、ぜひ。」

そんな私に頷いて車を発進させる部長。仕事抜きの、部長との初めてのドライブに心が躍る。だけど同時に、いつもと少し違うやりとりに私の脳は警笛を鳴らしていた。

「わ、綺麗・・・」

部長が連れてきてくれたのは、夜景のすごく綺麗な小さな丘。

「ここ、穴場でね。たまにひとりで来るんだ。」

そういって夜景を眺める部長はどこか寂し気で。

「・・・何か、あったんですか?」

気付いたら私は、徐にそんな疑問を投げていた。・・・朝のホテルでの出来事を思い出してしまったのだ。

「ん?・・・はは、ちょっとね。」

困ったような笑顔。

「・・・奥様と、何かあったんですか?」

やめておけばいいものを、一度口から出てしまった言葉は取り消せない。驚いてこちらを見る部長に、後悔が過る。だけど部長はその視線をすぐに夜景に戻して。

「・・・なぜ、妻のことだと思うんだい?」

何か言わないと、と思っているのに、その問いに対する答えが上手く出てこない。

「大丈夫。・・・大丈夫だから、言ってごらん。」

自分に言い聞かせるように、一度目を瞑り、息を吐いてそういった部長に、意を決して口を開く。どうしたって部長を傷つけるだろうけど、それでもなるべく慎重に言葉を選んで。

「その・・・今日下見にいった先で、奥様をお見かけしたので・・・」

そうか、と一言。すべてを察したように、もう一度深く息を吐いた。

「恐らく、君が考えている通りだよ。・・・離婚届を渡されるのも時間の問題だろうな。」

そういって自虐的に笑った部長を見て、朝芽生えた罪悪感が、得たいの知れない何かに変わった。部長の、奥さんへの愛を直視してしまったのだ。そこまでされてもなお、離婚届を渡すのではなく渡される側でいるつもりなのだと。

「だったら、」

口を開いたのは、ほとんど無意識だった。

「たった一度だけ、仕返しをしてみませんか?」

え・・・?と部長が首を傾げる。私は本当に、何を言っているのだろうか。

「奥様が部長以外の誰かとしていることを、私と部長で、しませんか?」

それでも。口から出る言葉を自力で止める術は、持ち合わせていなかった。
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