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第六章
二度目の婚約
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第六章 二度目の婚約
「レイモンドは、あなたのこと気に入ったようね。これで我が家は安泰よ。ベアトリックスが伯爵夫人になってくれれば、こんなに嬉しいことはないわ。二人でミッドフォード家を盛り立てていってちょうだい。この間、あなたが、年上の男性のほうが包容力もあるし素敵、って言ったから、お父さまもいろいろ婿候補を吟味なさったみたいよ。レイモンド・バイロンとは年齢的にも十違いだし、あなたの好みなんじゃない?」
「年が離れた方がいいなんて、わたくし、いつ、そんなこと言いまして?」
「若くて美男のエドワード・アーヴィンは浮気するに決まってるから、誠実な年上の人がいい、ってベアティが言っていたのを、わたくしも聞いたと思うんだけど。それに鍛えてない軟弱な男はダメとも言っていたから、それも考慮して、今度は軍人よ。鍛錬するのが仕事の人」
母に言われて、ベアトリックスは自分の言動をかえりみる。言われてみれば、そんなことがあったかもしれない。
「子爵は、わたくしの言葉を真正面から取りすぎるわ。その場の気分で言うことをいちいち真に受けなくても、聞き流して放っておいてくださっていいのに。お母さまもお母さまだわ、なんでも子爵に言いつけるの、いい加減にしてくださらない?」
ベアトリックスが怒って見せても、母の笑顔は崩れない。
「あら、家長に子供のことを報告するのは当然よ。レイモンドは近衛士官だし、あなたのお父さまみたいに隊長にまで上り詰めてくれるかもよ。素敵だと思わない?」
「叔父様に子供がいた、なんて、わたくし知らなかったわ」
「若い頃、メイドに産ませた子らしいわよ。メイドと子供は、ずっと別邸の離れで暮していたんですって。今の奥方との間に、もう子供が望めないとわかった時に、息子と認めて、跡継ぎにしたのよ」
「そうだったの・・・」
ベアトリックスは、義叔母に当たる現伯爵夫人とあまり会ったことはなかったが、それでも幼い頃にここに来てくれた、優しい笑顔の彼女のことを思うと胸が痛んだ。
「どうりで現伯爵は別邸が好きなわけよね」
母は皮肉めいた言い方をして
「伯爵夫人は、王都の実家にいることがほとんどだそうよ」とつけ加えた。
「叔父さまが、わたくしたちに、この屋敷から出て行けと言わなかった理由も、そのへんにあったのかもしれないわね」
伯爵家を継いだ叔父が、子爵一家を追い出しにかからなかったのは、思いやりでもなんでもなく本妻との同居を避けたため、というのがわかって、ベアトリックスは落胆のため息をついた。本来なら、兄の住んでいた屋敷に夫妻で越してくるべきはずが、叔父は、レイモンドの生母と別邸で暮らし、本妻は実家に戻った。子爵一家に伯爵の本邸を貸すことは、親切でも何でもなく、王都の伯爵邸に夫妻が戻らないことの口実にされていただけだった。
「お母さま、わたくしが男の子だったら、お父さまの全てを受け継いでここで堂々と何不自由なく暮らせたはずだったんだわ。武門の家であるミッドフォード伯爵家の跡継ぎとして・・・近衛兵として王宮に伺候していたのは、わたくしだったはずよ」
とベアトリックスは言った。ただただ悲しかった。
「そんなこと言わないの。わたくしは、あなたという娘がいて、それで幸せだと思ってるわ。神様から授かった子よ。性別なんか関係ないわ」
「違うわ、お母さま。わたくしが言いたいのはそう言うことではないの」
ベアトリックスは言った。思いを吐き出すには今しかない。
「男の子だったら、わたくしを愛してくださったでしょう?今よりもずっと強く」
ベアトリックスは、そう言って泣いた。
ほんとうは「今よりも」と言いたかったのではない。「弟よりも」と言いたかったのだが、あまりにも子供じみた言葉だと、ベアトリックスは自分の想いを吞み込んだのだった。
「わたくしがあなたを愛していない、ですって?そんな思いをさせていたの?難しい年ごろになったから、かまわないほうがいいのかと思って、敢えて距離をとっていたことはあったけれど、愛していないなんて・・・」
言うと、母クローディアは、ベアトリックスよりも大きな声で泣き出した。ベアトリックスは涙が引っ込んでしまい、母を宥めるしかなくなってしまった。
「ごめんなさい。わたくしの勘違いだったわ。母の愛を疑うなんて、わたくしがどうかしていました。ね、お母さま、どうかお泣きにならないで」
「違うのよ・・・あなたの言いたいことはわかるの。どうせ結婚するのなら、自分でこれと思った人を選びたいわよね・・・でも我が家の財力では社交界でやっていくのが難しかったの、できることなら、うちで大きなパーティーを毎夜のように開き、あなたに見合った年頃の貴族の御曹司を一堂に集めて『どの方が気に入ったの?』なんてわたくしも言ってみたかったわ」
「おかあさま、わたくしの望みはそういうことではなくて・・・」
ベアトリックスの言葉など、母の耳に届いてはいないようだ。
母はなおも
「あなたが社交界で、将来有望な青年たちの憧れの的として輝く姿を、誰よりも見たいと思ったのはわたくしよ。ずっと、うちにお金がなかったばかりに・・・」
そう言うと、ハンカチで顔を覆ってしくしくと泣いたあと、「お相手候補、一人ずつしか連れて来られなくてごめんなさい」と言って、チーンと鼻をかんだ。
(おかあさま・・・ほんと、謝るところが違うんですけど)
「ねえ、お母さま。正妻さんは、それでいいの?伯父様が他の女性との間に儲けた子供が跡を継ぐなんて」
ひとしきり泣いたクローディアは、付き物が落ちたようにケロリとして、チェリーの砂糖漬けを乗せたケーキを食べていた。
「わたくしだったら、夫が別の女性との間に子供を作ったあげく、その子が家の跡取りになるなんて、どう考えても許せませんわ・・・夫人が守って、尽くしてきたからこその伯爵家でしょう?その点はどうなのかしら?わたくし、伯爵夫人のご不興を買ってまで、愛人の息子と縁を結ぶなんて、同じ女として気が進まないの」
そう言ったベアトリックスに
「いいも悪いもないわ。本妻は子供が産めず、お家断絶の危機だったんですもの。女の子でもいれば、家督を継げない貴族の次男以下の青年を娘の婿に迎えて家を継がせることもできたでしょうにね。夫人は、むしろ、伯爵の血を引く男子の存在を大歓迎していると聞いたわ。もっとも本音はどうであれ、歓迎していると言わざるを得ないのかもしれないけれど」と、母クローディアは言ってから
「傍系の遠い親戚から、顔も見たことない男の子を伯爵夫妻の養子に迎えるより、レイモンドは婚外子とは言え直系よ。見ればわかるでしょう?先代の伯爵であるあなたのお父さまにそっくりな容姿、彼はれっきとした伯爵家の男系男子なの」
「実の母親は、息子を手放すこと、納得したの?」
「少し前に亡くなったのよ。だからこそ跡継ぎに迎えることがスムーズにいったみたいね。産みの母がついていたら、話がややこしくなったでしょうし」
「そうなのね」
腹は借りもの、というわけか。子を産んだ女性がこの世におらず、息子は、伯爵の血を引く唯一の男子として爵位を受け継ぐこととなった。伯爵家にとってずいぶん都合のいい話だ。
「その後、現伯爵は、息子に跡をまかせて引退。伯爵家の新当主は、あなたと結婚。とんとん拍子よね。出来過ぎ た展開だと思っているでしょう。ベアティ」
母は言った。
そして
「別に、身分の低いメイド上がりの実母に対して、今の伯爵夫妻が死ねと呪ったわけでも、ましてや、実際に手にかけたわけでもないわ。亡くなった原因は、夏風邪をこじらせたということのようよ」
と、一旦言葉を区切り
「わたくしたち貴族はね、たいていのことが思いどおりになるものなの。もって生まれた運が違うから。貧しくて食べるのもやっとな庶民や、新大陸に行くしかなくなったような一般平民とはそもそも存在価値が違うのよ。貴族は神に守られているの。お父さまが亡くなったあとにブライトストーン子爵が現われ、わたくしとあなたは一息つくことができた。その後、子爵が投資に失敗して借金を作ったら、平民のアーヴィンが、あなたを妻に欲しいと言って大金を積んだわ。その縁が切れたと思ったら、今度は従兄のレイモンドがあなたに求婚よ。神に護られている者の人生は、世間のその他大勢とは違う、あなたも、今度のことで実感できたのではなくって?」
勝ち誇ったようにまくしたてる母を、ベアトリックスはただ見ていた。
母は今度は紅茶に砂糖を落とし、くるくるとスプーンで回している。
「お母さま、ストレートティーがお好きなのではなくって?」
「あら?そんなこと言ってたかしらね。お砂糖が高くてもったいないから、ずっとストレートティーを飲んでいただけなんだけど」
と、母のクローディアは言って
「お茶は甘いほうがおいしいわ。お砂糖を考えなしに使える暮らしっていいわね」と笑顔になった。自分と同じ位置に出来る母の深いえくぼを、ベアトリックスはじっと見つめた。
「ねえ、ベアティ。前伯爵の娘であるあなたを妻に迎えたら、親族の中でレイモンドの立場もよくなるの。実の母の身分が低いレイモンドを、伯爵家を継ぐにふさわしい人と見なさない人もいるから。そういう傍系の親戚があなたに別の縁談を持ち込む前に、ミッドフォードの血を強固にするのよ。あなたの破談を待ってましたとばかりに、現伯爵家から申し込みがあったのは、そのためなの」
母は、自分に縁談が申し込まれたかのように、頬を紅潮させて話し続ける。
「心配しなくていいわ。現ミッドフォード伯爵と今の夫人の実子として世間にはお披露目するから。体が弱くて田舎で療養していたということにすれば、世間的には問題ないでしょう。現伯爵は早々に息子に地位を譲って隠居したい、って言ってたわ。田舎の別邸で釣りと読書三昧の日々を送りたいんですって」
「お母さま、あのがっちりした体格の、たくましいレイモンドが病弱で田舎の領地で療養していたなんて話、設定に無理がありすぎるんじゃないかしら。しかも、ミッドフォード伯爵家の当主は代々近衛隊に籍を置く、軍人の家系でしょう。彼も近衛隊の制服を着ていたわ。なんだかんだ理屈をつけて王都に来たがらない叔父さまだって、一応、所属は近衛隊なんだし・・・それに・・・お披露目ってどういうこと?レイモンド・バイロン卿は伯爵家の跡取りとして、すでに近衛隊に入隊済なのに、あらためて後継者としてのお披露目が必要なの?」
「男の子が幼い頃病気がちなのは、よくあることよ。それにね、たとえ現実と違っていても、世間にはそう言わなくてはいけない『お約束』というものが、わたくしたちの生きる世界にはあるのよ。王宮に勤めるために家系図を出しただけでは、お披露目が済んだとは言わないわ。きちんとした席を儲けなくては。この屋敷は、その舞台になるはずよ。伯爵家復興の舞台にね」
母クローディアはそう言って微笑んだ。
「お母さま、子爵はどうなの?義理の娘のわたくしが、ミッドフォード伯爵家に嫁ぐことで、妻の前の夫の家と、親戚づきあいをすることになるわ。それは、大丈夫なの?」
「あら、あなたが、義理のお父さまの心配?」
ホホホ、と笑ったあとで
「あの人は、わたくしの幸せが一番、だと思っているの。借金取りから逃げる言い訳を考えるよりずっと、ミッドフォード伯爵家の親族とつきあうほうが楽じゃなくて?」
そう言って笑うと、二杯目の紅茶に砂糖を落とした。
「お母さま、いい加減になさらないと。お砂糖は取り過ぎると体に毒なのよ」
ベアトリックスは、砂糖壺を母の前から遠ざけた。
「それにしても、お母さま。叔父さまも露骨だとお思いにならなくて?お父さまが亡くなった直後には何の援助もなくて、わたくしがエドワード・アーヴィンとの破談で大金を得たと聞いて、息子との結婚を画策するなんて」
「あなたの叔父さまの思惑が何であろうと、レイモンド・バイロンが素敵な殿方であることに変わりはないわ。あなたはお父さまに早くに死に別れて、たぶん、心の奧で、頼れる大人の男性を探していると思うのよね」
と、母は言った。
「だから、レイモンド・バイロン卿がいいっておっしゃるの?人柄まで、わたくしのお父さまに似ているのかしら。優しくて、正義感が強くて、責任感があって・・・おかあさま、おっしゃってたじゃない」
「あれだけ見た目が似ているんですもの。中身が違うなんてことはないわ」
「そうかしら」
ベアトリックスは、半信半疑といったふうに、疑わしげなまなざしを母に向けた。
「レイモンドを見るたび、昔を思い出すわ。健康でたくましかったお父さまが、心臓発作であっけなく天国に行ったなんて・・・前を向くために、なるべく思い出さないようにしてるけど、ほんとうは今でも悪い夢の続きにいるみたいなの」
母はまた涙ぐんでいる。
「彼は誠実で頼れる人よ、ベアティ。あなたのこと、命を賭けて守ってくれるわ」
「近衛兵が命を賭けて守るのは、国王陛下と、そのご一家の方々じゃなくって?妻子は二の次だわ」
ベアトリックスはそう言ったあとで
「亡きお父さまによく似た人だから、お母さまの採点基準が甘いような気がするんだけど・・・わたくしの気のせいじゃないと思うわ」
と、ベアトリックスはため息をもらした。
「ねえ、お母さま、亡きお父さまと今の旦那さまの子爵と、どちらがお好きなの?」
そうたずねたベアトリックスに、母クローディアは
「どちらもよ」
と、悪びれもせず言ってのけた。
「ただ、お父さまがずっと生きてらしたら、子爵を愛するようにはならなかったわ」
と、つけ加えた。
母がずっと父を愛し続けている、それだけで充分だとベアトリックスは思った。
「わたしとの結婚を承知してくれるとは、正直、思っていませんでした。今のあなたには、縁談が降るほどあったでしょう。なのに、わたしを選んでくれた。申し込みにイエスと言ってくれてありがとう」
レイモンド・バイロン・ミッドフォードは言った。
「どうして、わたくしがお断りすると思われたのですか?」
「だってそうでしょう。わたしの母はメイド上がりの妾ですし、そういう出自を軽蔑されるのかと思っていました。それに、今や子爵家には充分な資産があり、あなたをもっと名門の子息と縁づけることも可能でしょうし」
「わたくし、出自で、人を判断する気持ちはありませんわ」
そう言うと、レイモンド・バイロンは顔色を変え
「それは、平民の前婚約者の影響ですか?」
と不快そうにたずねた。
「エドワード・アーヴィン氏とは影響を与え合えるほどの関わりはありませんでした。向こうは貴族の家柄目当て、こちらはお金目当ての我欲を前面に出した関係で、顔を合わせたのも五回に満たないくらいでしたわ」
「そのことは、あなたのご両親からも聞いています。でも、ご本人から、うかがうとホッとするものですね」
と、レイモンド・バイロンは微笑んだ。
「父は、わたしを次の伯爵としてお披露目するのと同時に、わたしとあなたとの婚約を発表したいという意向のようです。伯爵の地位を降りたら、王宮へ伺う義務も無くなるので、別邸の近くの湖で釣り三昧の生活をするのだと、そればかり言っていますよ。別邸のコックが作るニジマスのバター焼きは絶品です」
彼はそう言って
「あなたは別邸に行かれたことはありますか?」
とたずねた。
「小さい頃、両親に連れられて遊びに行ったはずなんですが、何も覚えてなくて」
「別邸はわたしにとって、母と過ごした大事な場所ですし、父もそう思っているのか、王都に住む気はないようです。近いうちにあなたをお連れしたいと思っています。来週のご都合はいかがですか?あなたに見せたい景色がいっぱいありますよ。すごく楽しみだ」
レイモンドがそう言ってくれたのに、ベアトリックスは返事が出来ず、黙り込んでしまった。
(この人と遠出だなんて・・・)
二人の間に沈黙が降りた。
彼はベアトリックスを見つめて
「十も年の離れた男、とは話がしにくいですか?」
と聞いた。
「いえ、そんなことは」
ベアトリックスは、そう言いはしたが、緊張はほぐれない。父に似た男性を見ても懐かしいという気持ちはわかず、彼から醸し出される威圧的な空気に押され、息苦しささえ感じていた。
威儀を正して毅然としていなければ、次期伯爵となる彼を失望させてしまうのではないかと、ベアトリックスは考えてしまい、彼の前ではゆったりとした気持ちにはなれなかった。
「やはり、わたしの産みの母のことが引っ掛かっているのですか?」
「もう亡くなった方ですし、それに、その方がおられなければ、今のあなたもここにはいらっしゃらないわけですもの」
ベアトリックスはそう言ってから
「世間には、現伯爵夫妻の一人息子としてお披露目されるとも聞きましたし」
とつけ加えたが
「現伯爵の父は別邸に、伯爵夫人は王都の実家に住んでいることは、皆が知っています。公的な立場はどうあれ、わたしが伯爵と正妻の子でないことは周知の事実ですよ。それでも、そんなことはなかったこととしてわたしは生きなければなりません。母の名は家系図に書かれることもなく」
途中で言葉を止めたレイモンド・バイロンは暗い表情になった。
(無理もないわ・・・大切なお母さまがまるでいなかったようにされてしまうんですもの。でもそんなやり方を認めてまで、この人は伯爵家を継ぎたいのかしら?そこまでして、伯爵と呼ばれたいものなの?)
彼の真意が知りたいが、いきなり質問もできまい。
「母の誇りは、男子であるわたしを産んだことでした。家柄は良くても子供を産めない女なんて、と伯爵夫人のことを陰で笑っていました。いつか、わたしを連れて本邸に凱旋するのだと、わたしが幼い頃から、口癖のように言っていましたね。今は、母も空の上で喜んでくれているでしょう。わたしが伯爵家の跡継ぎとなったのですから。そのうえ前伯爵の令嬢を妻に迎えるとなれば、母がここにいたら、どれほど喜んだでしょうか」
と言ってから
「先代伯爵の令嬢であるあなたを妻に出来れば、貴族社会でのわたしの立場は安定し、わたしは生きやすくなるんです」と、レイモンド・バイロンはつけ加えた。
(お母さま、子供の前で、そんなことをおっしゃるなんて・・・)
大人同士の複雑な人間模様や、子供には関係のない身内の事情を、我が子の前で明け透けに話す親がいるとは意外だった。
だが、ベアトリックスは、そんな思いを抑えて
「立場のために、ご結婚なさるの?わたくしでなくてはいけない理由はそこですの?」と、彼にたずねた。
「いいえ。あなたの美しさ、思慮深さにわたしは惹かれました。令嬢という呼び方がふさわしい上品な立ち居振る舞いにもね。男なら誰でも同じ思いでしょう」
とレイモンドは言った。
「あの・・・レイモンド・バイロン卿」
「卿なんて、つけなくていいですよ。この先、夫婦になるわけですから、レイモンドと呼んでいただければ」
彼がそう言ったので、ベアトリックスは少しホッとした。
「それじゃ、わたくしのことはベアティと」
両親に呼ばれていた愛称を、将来の夫にも呼んでもらおうとしてそう言ったとき
「それは感心しないな」
と苦々しげな表情で言った。
「まあ、なぜですの?」
「新大陸の住民みたいに略した呼び方が嫌なのです」
と顔をしかめたまま
「我々は、この国で食い詰めて新大陸に逃げた一般人とは違います。貴族なのですから、これからも、あなたのことはベアトリックスと呼びますよ」
と言った。
その時、ふと「俺のことはエディと呼んでいい」と言ったエドワード・アーヴィンのことがベアトリックスの脳裏に浮かんだ。
「当然ながら、この先、結婚生活が長くなって、我々の間が親密になり、心の隔たりがとれたとしても、わたしのことを新大陸民のように、レイミーだの、レイだのと呼ばれては困りますよ」
レイモンドは、そう言って笑顔になった。彼としては冗談のつもりだったのだろうが、ベアトリックスは笑みを返す気にはならなかった。
「レイって、素敵な響きだと思いますけど」
「わたしが少年でしたらね。あいにく三十歳が目前の軍人ですから」
「わかりましたわ、レイモンド卿。いえ、レイモンド」
そう言ったベアトリックスの胸に、ちくりと微かな痛みが走った。
「レイモンドは、あなたのこと気に入ったようね。これで我が家は安泰よ。ベアトリックスが伯爵夫人になってくれれば、こんなに嬉しいことはないわ。二人でミッドフォード家を盛り立てていってちょうだい。この間、あなたが、年上の男性のほうが包容力もあるし素敵、って言ったから、お父さまもいろいろ婿候補を吟味なさったみたいよ。レイモンド・バイロンとは年齢的にも十違いだし、あなたの好みなんじゃない?」
「年が離れた方がいいなんて、わたくし、いつ、そんなこと言いまして?」
「若くて美男のエドワード・アーヴィンは浮気するに決まってるから、誠実な年上の人がいい、ってベアティが言っていたのを、わたくしも聞いたと思うんだけど。それに鍛えてない軟弱な男はダメとも言っていたから、それも考慮して、今度は軍人よ。鍛錬するのが仕事の人」
母に言われて、ベアトリックスは自分の言動をかえりみる。言われてみれば、そんなことがあったかもしれない。
「子爵は、わたくしの言葉を真正面から取りすぎるわ。その場の気分で言うことをいちいち真に受けなくても、聞き流して放っておいてくださっていいのに。お母さまもお母さまだわ、なんでも子爵に言いつけるの、いい加減にしてくださらない?」
ベアトリックスが怒って見せても、母の笑顔は崩れない。
「あら、家長に子供のことを報告するのは当然よ。レイモンドは近衛士官だし、あなたのお父さまみたいに隊長にまで上り詰めてくれるかもよ。素敵だと思わない?」
「叔父様に子供がいた、なんて、わたくし知らなかったわ」
「若い頃、メイドに産ませた子らしいわよ。メイドと子供は、ずっと別邸の離れで暮していたんですって。今の奥方との間に、もう子供が望めないとわかった時に、息子と認めて、跡継ぎにしたのよ」
「そうだったの・・・」
ベアトリックスは、義叔母に当たる現伯爵夫人とあまり会ったことはなかったが、それでも幼い頃にここに来てくれた、優しい笑顔の彼女のことを思うと胸が痛んだ。
「どうりで現伯爵は別邸が好きなわけよね」
母は皮肉めいた言い方をして
「伯爵夫人は、王都の実家にいることがほとんどだそうよ」とつけ加えた。
「叔父さまが、わたくしたちに、この屋敷から出て行けと言わなかった理由も、そのへんにあったのかもしれないわね」
伯爵家を継いだ叔父が、子爵一家を追い出しにかからなかったのは、思いやりでもなんでもなく本妻との同居を避けたため、というのがわかって、ベアトリックスは落胆のため息をついた。本来なら、兄の住んでいた屋敷に夫妻で越してくるべきはずが、叔父は、レイモンドの生母と別邸で暮らし、本妻は実家に戻った。子爵一家に伯爵の本邸を貸すことは、親切でも何でもなく、王都の伯爵邸に夫妻が戻らないことの口実にされていただけだった。
「お母さま、わたくしが男の子だったら、お父さまの全てを受け継いでここで堂々と何不自由なく暮らせたはずだったんだわ。武門の家であるミッドフォード伯爵家の跡継ぎとして・・・近衛兵として王宮に伺候していたのは、わたくしだったはずよ」
とベアトリックスは言った。ただただ悲しかった。
「そんなこと言わないの。わたくしは、あなたという娘がいて、それで幸せだと思ってるわ。神様から授かった子よ。性別なんか関係ないわ」
「違うわ、お母さま。わたくしが言いたいのはそう言うことではないの」
ベアトリックスは言った。思いを吐き出すには今しかない。
「男の子だったら、わたくしを愛してくださったでしょう?今よりもずっと強く」
ベアトリックスは、そう言って泣いた。
ほんとうは「今よりも」と言いたかったのではない。「弟よりも」と言いたかったのだが、あまりにも子供じみた言葉だと、ベアトリックスは自分の想いを吞み込んだのだった。
「わたくしがあなたを愛していない、ですって?そんな思いをさせていたの?難しい年ごろになったから、かまわないほうがいいのかと思って、敢えて距離をとっていたことはあったけれど、愛していないなんて・・・」
言うと、母クローディアは、ベアトリックスよりも大きな声で泣き出した。ベアトリックスは涙が引っ込んでしまい、母を宥めるしかなくなってしまった。
「ごめんなさい。わたくしの勘違いだったわ。母の愛を疑うなんて、わたくしがどうかしていました。ね、お母さま、どうかお泣きにならないで」
「違うのよ・・・あなたの言いたいことはわかるの。どうせ結婚するのなら、自分でこれと思った人を選びたいわよね・・・でも我が家の財力では社交界でやっていくのが難しかったの、できることなら、うちで大きなパーティーを毎夜のように開き、あなたに見合った年頃の貴族の御曹司を一堂に集めて『どの方が気に入ったの?』なんてわたくしも言ってみたかったわ」
「おかあさま、わたくしの望みはそういうことではなくて・・・」
ベアトリックスの言葉など、母の耳に届いてはいないようだ。
母はなおも
「あなたが社交界で、将来有望な青年たちの憧れの的として輝く姿を、誰よりも見たいと思ったのはわたくしよ。ずっと、うちにお金がなかったばかりに・・・」
そう言うと、ハンカチで顔を覆ってしくしくと泣いたあと、「お相手候補、一人ずつしか連れて来られなくてごめんなさい」と言って、チーンと鼻をかんだ。
(おかあさま・・・ほんと、謝るところが違うんですけど)
「ねえ、お母さま。正妻さんは、それでいいの?伯父様が他の女性との間に儲けた子供が跡を継ぐなんて」
ひとしきり泣いたクローディアは、付き物が落ちたようにケロリとして、チェリーの砂糖漬けを乗せたケーキを食べていた。
「わたくしだったら、夫が別の女性との間に子供を作ったあげく、その子が家の跡取りになるなんて、どう考えても許せませんわ・・・夫人が守って、尽くしてきたからこその伯爵家でしょう?その点はどうなのかしら?わたくし、伯爵夫人のご不興を買ってまで、愛人の息子と縁を結ぶなんて、同じ女として気が進まないの」
そう言ったベアトリックスに
「いいも悪いもないわ。本妻は子供が産めず、お家断絶の危機だったんですもの。女の子でもいれば、家督を継げない貴族の次男以下の青年を娘の婿に迎えて家を継がせることもできたでしょうにね。夫人は、むしろ、伯爵の血を引く男子の存在を大歓迎していると聞いたわ。もっとも本音はどうであれ、歓迎していると言わざるを得ないのかもしれないけれど」と、母クローディアは言ってから
「傍系の遠い親戚から、顔も見たことない男の子を伯爵夫妻の養子に迎えるより、レイモンドは婚外子とは言え直系よ。見ればわかるでしょう?先代の伯爵であるあなたのお父さまにそっくりな容姿、彼はれっきとした伯爵家の男系男子なの」
「実の母親は、息子を手放すこと、納得したの?」
「少し前に亡くなったのよ。だからこそ跡継ぎに迎えることがスムーズにいったみたいね。産みの母がついていたら、話がややこしくなったでしょうし」
「そうなのね」
腹は借りもの、というわけか。子を産んだ女性がこの世におらず、息子は、伯爵の血を引く唯一の男子として爵位を受け継ぐこととなった。伯爵家にとってずいぶん都合のいい話だ。
「その後、現伯爵は、息子に跡をまかせて引退。伯爵家の新当主は、あなたと結婚。とんとん拍子よね。出来過ぎ た展開だと思っているでしょう。ベアティ」
母は言った。
そして
「別に、身分の低いメイド上がりの実母に対して、今の伯爵夫妻が死ねと呪ったわけでも、ましてや、実際に手にかけたわけでもないわ。亡くなった原因は、夏風邪をこじらせたということのようよ」
と、一旦言葉を区切り
「わたくしたち貴族はね、たいていのことが思いどおりになるものなの。もって生まれた運が違うから。貧しくて食べるのもやっとな庶民や、新大陸に行くしかなくなったような一般平民とはそもそも存在価値が違うのよ。貴族は神に守られているの。お父さまが亡くなったあとにブライトストーン子爵が現われ、わたくしとあなたは一息つくことができた。その後、子爵が投資に失敗して借金を作ったら、平民のアーヴィンが、あなたを妻に欲しいと言って大金を積んだわ。その縁が切れたと思ったら、今度は従兄のレイモンドがあなたに求婚よ。神に護られている者の人生は、世間のその他大勢とは違う、あなたも、今度のことで実感できたのではなくって?」
勝ち誇ったようにまくしたてる母を、ベアトリックスはただ見ていた。
母は今度は紅茶に砂糖を落とし、くるくるとスプーンで回している。
「お母さま、ストレートティーがお好きなのではなくって?」
「あら?そんなこと言ってたかしらね。お砂糖が高くてもったいないから、ずっとストレートティーを飲んでいただけなんだけど」
と、母のクローディアは言って
「お茶は甘いほうがおいしいわ。お砂糖を考えなしに使える暮らしっていいわね」と笑顔になった。自分と同じ位置に出来る母の深いえくぼを、ベアトリックスはじっと見つめた。
「ねえ、ベアティ。前伯爵の娘であるあなたを妻に迎えたら、親族の中でレイモンドの立場もよくなるの。実の母の身分が低いレイモンドを、伯爵家を継ぐにふさわしい人と見なさない人もいるから。そういう傍系の親戚があなたに別の縁談を持ち込む前に、ミッドフォードの血を強固にするのよ。あなたの破談を待ってましたとばかりに、現伯爵家から申し込みがあったのは、そのためなの」
母は、自分に縁談が申し込まれたかのように、頬を紅潮させて話し続ける。
「心配しなくていいわ。現ミッドフォード伯爵と今の夫人の実子として世間にはお披露目するから。体が弱くて田舎で療養していたということにすれば、世間的には問題ないでしょう。現伯爵は早々に息子に地位を譲って隠居したい、って言ってたわ。田舎の別邸で釣りと読書三昧の日々を送りたいんですって」
「お母さま、あのがっちりした体格の、たくましいレイモンドが病弱で田舎の領地で療養していたなんて話、設定に無理がありすぎるんじゃないかしら。しかも、ミッドフォード伯爵家の当主は代々近衛隊に籍を置く、軍人の家系でしょう。彼も近衛隊の制服を着ていたわ。なんだかんだ理屈をつけて王都に来たがらない叔父さまだって、一応、所属は近衛隊なんだし・・・それに・・・お披露目ってどういうこと?レイモンド・バイロン卿は伯爵家の跡取りとして、すでに近衛隊に入隊済なのに、あらためて後継者としてのお披露目が必要なの?」
「男の子が幼い頃病気がちなのは、よくあることよ。それにね、たとえ現実と違っていても、世間にはそう言わなくてはいけない『お約束』というものが、わたくしたちの生きる世界にはあるのよ。王宮に勤めるために家系図を出しただけでは、お披露目が済んだとは言わないわ。きちんとした席を儲けなくては。この屋敷は、その舞台になるはずよ。伯爵家復興の舞台にね」
母クローディアはそう言って微笑んだ。
「お母さま、子爵はどうなの?義理の娘のわたくしが、ミッドフォード伯爵家に嫁ぐことで、妻の前の夫の家と、親戚づきあいをすることになるわ。それは、大丈夫なの?」
「あら、あなたが、義理のお父さまの心配?」
ホホホ、と笑ったあとで
「あの人は、わたくしの幸せが一番、だと思っているの。借金取りから逃げる言い訳を考えるよりずっと、ミッドフォード伯爵家の親族とつきあうほうが楽じゃなくて?」
そう言って笑うと、二杯目の紅茶に砂糖を落とした。
「お母さま、いい加減になさらないと。お砂糖は取り過ぎると体に毒なのよ」
ベアトリックスは、砂糖壺を母の前から遠ざけた。
「それにしても、お母さま。叔父さまも露骨だとお思いにならなくて?お父さまが亡くなった直後には何の援助もなくて、わたくしがエドワード・アーヴィンとの破談で大金を得たと聞いて、息子との結婚を画策するなんて」
「あなたの叔父さまの思惑が何であろうと、レイモンド・バイロンが素敵な殿方であることに変わりはないわ。あなたはお父さまに早くに死に別れて、たぶん、心の奧で、頼れる大人の男性を探していると思うのよね」
と、母は言った。
「だから、レイモンド・バイロン卿がいいっておっしゃるの?人柄まで、わたくしのお父さまに似ているのかしら。優しくて、正義感が強くて、責任感があって・・・おかあさま、おっしゃってたじゃない」
「あれだけ見た目が似ているんですもの。中身が違うなんてことはないわ」
「そうかしら」
ベアトリックスは、半信半疑といったふうに、疑わしげなまなざしを母に向けた。
「レイモンドを見るたび、昔を思い出すわ。健康でたくましかったお父さまが、心臓発作であっけなく天国に行ったなんて・・・前を向くために、なるべく思い出さないようにしてるけど、ほんとうは今でも悪い夢の続きにいるみたいなの」
母はまた涙ぐんでいる。
「彼は誠実で頼れる人よ、ベアティ。あなたのこと、命を賭けて守ってくれるわ」
「近衛兵が命を賭けて守るのは、国王陛下と、そのご一家の方々じゃなくって?妻子は二の次だわ」
ベアトリックスはそう言ったあとで
「亡きお父さまによく似た人だから、お母さまの採点基準が甘いような気がするんだけど・・・わたくしの気のせいじゃないと思うわ」
と、ベアトリックスはため息をもらした。
「ねえ、お母さま、亡きお父さまと今の旦那さまの子爵と、どちらがお好きなの?」
そうたずねたベアトリックスに、母クローディアは
「どちらもよ」
と、悪びれもせず言ってのけた。
「ただ、お父さまがずっと生きてらしたら、子爵を愛するようにはならなかったわ」
と、つけ加えた。
母がずっと父を愛し続けている、それだけで充分だとベアトリックスは思った。
「わたしとの結婚を承知してくれるとは、正直、思っていませんでした。今のあなたには、縁談が降るほどあったでしょう。なのに、わたしを選んでくれた。申し込みにイエスと言ってくれてありがとう」
レイモンド・バイロン・ミッドフォードは言った。
「どうして、わたくしがお断りすると思われたのですか?」
「だってそうでしょう。わたしの母はメイド上がりの妾ですし、そういう出自を軽蔑されるのかと思っていました。それに、今や子爵家には充分な資産があり、あなたをもっと名門の子息と縁づけることも可能でしょうし」
「わたくし、出自で、人を判断する気持ちはありませんわ」
そう言うと、レイモンド・バイロンは顔色を変え
「それは、平民の前婚約者の影響ですか?」
と不快そうにたずねた。
「エドワード・アーヴィン氏とは影響を与え合えるほどの関わりはありませんでした。向こうは貴族の家柄目当て、こちらはお金目当ての我欲を前面に出した関係で、顔を合わせたのも五回に満たないくらいでしたわ」
「そのことは、あなたのご両親からも聞いています。でも、ご本人から、うかがうとホッとするものですね」
と、レイモンド・バイロンは微笑んだ。
「父は、わたしを次の伯爵としてお披露目するのと同時に、わたしとあなたとの婚約を発表したいという意向のようです。伯爵の地位を降りたら、王宮へ伺う義務も無くなるので、別邸の近くの湖で釣り三昧の生活をするのだと、そればかり言っていますよ。別邸のコックが作るニジマスのバター焼きは絶品です」
彼はそう言って
「あなたは別邸に行かれたことはありますか?」
とたずねた。
「小さい頃、両親に連れられて遊びに行ったはずなんですが、何も覚えてなくて」
「別邸はわたしにとって、母と過ごした大事な場所ですし、父もそう思っているのか、王都に住む気はないようです。近いうちにあなたをお連れしたいと思っています。来週のご都合はいかがですか?あなたに見せたい景色がいっぱいありますよ。すごく楽しみだ」
レイモンドがそう言ってくれたのに、ベアトリックスは返事が出来ず、黙り込んでしまった。
(この人と遠出だなんて・・・)
二人の間に沈黙が降りた。
彼はベアトリックスを見つめて
「十も年の離れた男、とは話がしにくいですか?」
と聞いた。
「いえ、そんなことは」
ベアトリックスは、そう言いはしたが、緊張はほぐれない。父に似た男性を見ても懐かしいという気持ちはわかず、彼から醸し出される威圧的な空気に押され、息苦しささえ感じていた。
威儀を正して毅然としていなければ、次期伯爵となる彼を失望させてしまうのではないかと、ベアトリックスは考えてしまい、彼の前ではゆったりとした気持ちにはなれなかった。
「やはり、わたしの産みの母のことが引っ掛かっているのですか?」
「もう亡くなった方ですし、それに、その方がおられなければ、今のあなたもここにはいらっしゃらないわけですもの」
ベアトリックスはそう言ってから
「世間には、現伯爵夫妻の一人息子としてお披露目されるとも聞きましたし」
とつけ加えたが
「現伯爵の父は別邸に、伯爵夫人は王都の実家に住んでいることは、皆が知っています。公的な立場はどうあれ、わたしが伯爵と正妻の子でないことは周知の事実ですよ。それでも、そんなことはなかったこととしてわたしは生きなければなりません。母の名は家系図に書かれることもなく」
途中で言葉を止めたレイモンド・バイロンは暗い表情になった。
(無理もないわ・・・大切なお母さまがまるでいなかったようにされてしまうんですもの。でもそんなやり方を認めてまで、この人は伯爵家を継ぎたいのかしら?そこまでして、伯爵と呼ばれたいものなの?)
彼の真意が知りたいが、いきなり質問もできまい。
「母の誇りは、男子であるわたしを産んだことでした。家柄は良くても子供を産めない女なんて、と伯爵夫人のことを陰で笑っていました。いつか、わたしを連れて本邸に凱旋するのだと、わたしが幼い頃から、口癖のように言っていましたね。今は、母も空の上で喜んでくれているでしょう。わたしが伯爵家の跡継ぎとなったのですから。そのうえ前伯爵の令嬢を妻に迎えるとなれば、母がここにいたら、どれほど喜んだでしょうか」
と言ってから
「先代伯爵の令嬢であるあなたを妻に出来れば、貴族社会でのわたしの立場は安定し、わたしは生きやすくなるんです」と、レイモンド・バイロンはつけ加えた。
(お母さま、子供の前で、そんなことをおっしゃるなんて・・・)
大人同士の複雑な人間模様や、子供には関係のない身内の事情を、我が子の前で明け透けに話す親がいるとは意外だった。
だが、ベアトリックスは、そんな思いを抑えて
「立場のために、ご結婚なさるの?わたくしでなくてはいけない理由はそこですの?」と、彼にたずねた。
「いいえ。あなたの美しさ、思慮深さにわたしは惹かれました。令嬢という呼び方がふさわしい上品な立ち居振る舞いにもね。男なら誰でも同じ思いでしょう」
とレイモンドは言った。
「あの・・・レイモンド・バイロン卿」
「卿なんて、つけなくていいですよ。この先、夫婦になるわけですから、レイモンドと呼んでいただければ」
彼がそう言ったので、ベアトリックスは少しホッとした。
「それじゃ、わたくしのことはベアティと」
両親に呼ばれていた愛称を、将来の夫にも呼んでもらおうとしてそう言ったとき
「それは感心しないな」
と苦々しげな表情で言った。
「まあ、なぜですの?」
「新大陸の住民みたいに略した呼び方が嫌なのです」
と顔をしかめたまま
「我々は、この国で食い詰めて新大陸に逃げた一般人とは違います。貴族なのですから、これからも、あなたのことはベアトリックスと呼びますよ」
と言った。
その時、ふと「俺のことはエディと呼んでいい」と言ったエドワード・アーヴィンのことがベアトリックスの脳裏に浮かんだ。
「当然ながら、この先、結婚生活が長くなって、我々の間が親密になり、心の隔たりがとれたとしても、わたしのことを新大陸民のように、レイミーだの、レイだのと呼ばれては困りますよ」
レイモンドは、そう言って笑顔になった。彼としては冗談のつもりだったのだろうが、ベアトリックスは笑みを返す気にはならなかった。
「レイって、素敵な響きだと思いますけど」
「わたしが少年でしたらね。あいにく三十歳が目前の軍人ですから」
「わかりましたわ、レイモンド卿。いえ、レイモンド」
そう言ったベアトリックスの胸に、ちくりと微かな痛みが走った。
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