12 / 12
第十一章
夢と希望は海を渡る
しおりを挟む
第十一章 夢と希望は海を渡る
「こんな港町に何の用なの?」
「この港から船に乗るんでございます」と、ばあやは言った。
今回、三人が訪れるのは、飛び地になっている孤島だという。
「北西部のダルトンムーア近くに行くっておっしゃっていたじゃない。なんで急に行き先が変わったの?」と、ベアトリックスがたずねると
母は、うふふと笑いながら
「あら、行き先変更の件、言ってなかったかしら?わたくしたちはパーシー島に行くの」と、しれっとしている。
「お父さまが騙されて買った、いわくつきの島じゃないの。なんでそんなところに?」
子爵は詐欺師から売りつけられた島に、自分の名前のパーシヴァルの愛称から取って、パーシー島と名づけていた。
「愚かな男の島だ」と自嘲気味に言っていた子爵を、母が「ご自分をお責めにならないで、パーシー」と慰めていたのを思い出し、ベアトリックスはふふっと笑った。
(お二人は仲が良くてけっこうね。こっちは失意の都落ち、なのに)
「都会の喧騒や、人々の噂話から離れて静かに過ごすには、うってつけのところでしょう?ベアティ。王立学院の受験勉強もはかどるかもよ」
母に言われて
「ご存じだったの?入学願書を送ったこと」
「ええ。そんな意欲があるのなら、どうして相談してくれなかったのかしら?」
「お母さまは、以前、『女性が働くですって?』って驚かれていたくらいだから、女に学問はいらない、っておっしゃるかと思ったの。だから何も言えなくて」
「女性は今後、今以上にさまざまな分野で活躍するようになる、って言ったのはあなたなのにね」
母は笑った。
「とりあえず、何もない孤島に引っ込んで、雑念を捨てて修道女みたいに暮らすことにします。お母さまもばあやも一緒なんだし心強いわ」
ベアトリックスが言うと
「支度金と慰謝料でさんざん贅沢したから、このへんでストイックに生き直さないとね。いつまた没落の憂き目に遭うか・・・人生なんてわからないものよ。わたくしも修道女を見習うわ。たまには、そういうのもいいかも」と、明らかに冗談めかした口調で言ってから、母は真顔になり
「修道女と言えばね、子爵領にある聖マリアンナ修道院に、アーヴィン家がずっと寄付をしてくれていたのよ。ベアトリックス、あなたとエドワードが破談になってからもずっとそれは続いているそうなの」と言った。
(わたくし、何も知らなくて・・・成金はお金を貯め込むばかりで、人に施す気持ちがない、なんて彼を罵ったんだわ)
つくづく自分が情けなくなってくる。
「子爵領が不作に苦しんでからの修道院存続は、さぞかし大変でしたでしょうに。無事だったのはアーヴィン家のおかげだったのですね」
と、ばあやは言って
「神に仕える人たちに寄付をするアーヴィン氏と、娼館のツケをため込んでいたレイモンド・バイロン卿・・・比べるまでもありませんのに、わたくしときたら、平民の商人がお相手では情けないとお嬢さまに何度も申し上げてしまいました。お二人の破局も、わたくしに責任がございます」
と、ばあやは涙を拭った。
「ばあや、泣かないで。終わったことはもういいわ。彼とは縁がなかったのよ。それに相手の身分に対して偏見を持っていたのは、わたくし自身なの。ばあやに言われたからではないのよ」と、ベアトリックスは言った。
船着き場には中型船が止まり、人が降りてきていた。出迎えの人たちを探し、会えたことを喜び合う親子や恋人たちを、ベアトリックスは見るともなしに眺めていた。
(ここにエドワードがいる、なんてことないわよね。港はここ一つじゃないし、もし、この港から船出するにしても、船着き場だっていくつもあるのに)
すべてを見て回るなど不可能だ。
この国に港は五つもある。そして、新大陸に行く船もたくさんある。
わかっていながらも、ベアトリックスは、今日、新大陸に旅立つはずのエドワード・アーヴィンの渡航の無事を神に祈りながら、彼の姿を、無意識のうちに探していた。
港の汽笛を聞きながら、女三人は、馬車を預けたあと先導してくれる御者の後ろについて、客船の乗り場に向かって歩いていた。
「護衛に誰か男手を連れてくるべきだったわね。御者のヒルズ一人じゃ心もとないわ」
磯臭いとでもいうべきか、独特の潮のニオイが漂ってくる。母はハンカチで鼻を押さえていた。
「この臭いは何ざましょう。ここは漁港ではありませんのに」
とばあやも不快そうだ。一行は乗り場に向かって急ぎ足になった。
「ねえ、お母さま、我が家にとって縁起のよくない島に、どうしても行かなくっちゃならないの?」
「島でお父さまと、アレックスが待っているから」
母はそう言った。
「あそこは無人島じゃなかったの?泊まるところなんてあるのかしら?二人はどうやって過ごしてるの?」
「言わなかったかしら?あんな島でも固い岩の下に、何かあるかもしれないとエドワード・アーヴィン氏に言われて、地下水脈を調べてもらったの。それでね、数年前からアーヴィン商会が掘っていたのよ」
「商会じゃございませんわ。今やグループ十数社のアーヴィン財閥ですわ。そこの最新技術を駆使して掘削、とのことだそうで・・・よかったですわ。奥さま」
と、ばあやも話題に乗ってきた。
「その結果、なんと温泉が出たそうよ。やったわ!エドワード様々ね」
喜色満面の面持ちで、母クローディアは言った。
「お父さまから、今後はアーヴィン観光と協力して、富裕層のための温泉保養地にしていくつもりと聞いたわ。というわけで、お父さまと小侯爵で先に下見に行ったの」
「別荘地として富裕層に売り出すか、ホテルを建ててもよろしいですわね、奥さま」
と言うばあやに
「アレックスを先に行かせたのも、そろそろ次代当主の自覚を持ってもらうべきだと思ってのことよ。男の子は、ちゃんと育て上げるのが難しいもの」とため息をついた。
「宿は掘削の技術者が寝泊まりしていたところを、ちょっと手直しした程度だけど、まあ、温泉であたたまって、あと、と周りは海だから新鮮な魚も取れるし、先に出発した使用人たちもいるから」
という母に
「王都ほど便利じゃなくとも、何とかなりそうね」
と、ベアトリックスは微笑んだ。
「アーヴィン内装の『ちょっと手直し』ですもの。豪華な内装に決まっていますわ。それにしても愉快ですわね、奥さま。旦那さまを『小麦が実る島』と騙した奴らは、温泉がもたらす利益を得ることはありませんもの。人を嵌めたつもりが、宝の島を安く手放したってことになりますわ」
とばあやが言った。
「温泉付き保養地が人気になって、お金が入れば、系列のアーヴィン製粉から小麦も買えるし、子爵家の領地の民たちも豊かになるわね」と母クローディアはらしげに言うと
「それだけじゃないのよ。島の北端にある鉱山から、ダイヤモンドが出たんですって。あんな固い地盤を掘れるのは、アーヴィン財閥の傘下の会社しかないらしいわ。小麦の実る黄金の島、どころか、ダイヤモンドが採れるブリリアント・アイランドよ」と、つけ加え、胸を張った。
「さすがは、お父さま。先見の明がおありになるわ。あの島にただならぬ可能性を感じてお買いになったのね」
とベアトリックスが続くと、母が
「お父さまのこと、詐欺師に騙された情けない男だの、貴族の当主の資格がないだの、怒っていたのは誰だったかしら?」
と笑いながら言い
「さあ、どなたの話?うちの屋敷に、そんなに人を見る目がない者がいたかしら」
とベアトリックスがこたえる。
三人は明るい笑い声をたてながら、歩いていた。
楽しくしゃべりながら歩くうち、三人は乗り場に着いた。
「船が出るまであと二時間もあるわ。少し散歩してきます」
「だめよ。港町を令嬢が一人で歩くなんて。ばあやとわたくしはもう動く元気がないから、あなたについていってあげられないし、ヒルズはもう一般の待合所に行ってしまったわ。こちらの待合室で静かに待ちましょうよ。特別室だからゆったりとお茶も飲めるし、編み物か、読書でもしていれば、あっという間に時間が経つわ」
と母が言うので
「それもそうですわね」
と、待合室へ向かおうとした時だ。
金色の髪をした背の高い男性の姿が目に入った。
(あれは・・・まさか!)
母と娘は顔を見合わせた。
「気が変わったわ。ベアティ、散歩は一人で行ってらっしゃい。出航三十分前にはちゃんと戻るのよ」
と母は言った。
クローディアはそっと娘の背中を押した。
カモメが鳴いている。
人混みをかき分けるようにして、ベアトリックスは歩いた。
急がないと、彼の姿を見失ってしまう。
「ごめんなさい、通してください」
行きかう人たちの間を縫うように急ぎながら、ベアトリックスは必死だった。
さっきまで近くに見えたはずのエドワードの姿がどんどん遠くなる。彼は歩くのが早いのだ。庭を一緒に歩いたときは、彼女に合わせてゆっくり進んでくれていたのだと、ベアトリックスは、こんなところでも彼の優しさを知ることになった。
不意に強い海風が吹いて、彼女の帽子が吹き飛ばされた。
「あ・・・」
帽子に目をやっていた間に、彼女はエドワードを見失ってしまった。
(いやよ。神様、どうか彼に会わせてください)
そう祈った時、カモメが鳴きやみ、港の喧騒が一瞬、嘘のように静かになった。
「エドワード!」
ベアトリックスは声を限りに叫んだ。いつだったか、エントランスホールで、彼がベアトリックスの名を呼び、自分に「会ってほしい」と懇願していた時も、こんな気持ちだったのだろうか。ベアトリックスはもう一度叫んだ。
「ミスター・エドワード・アーヴィン!どこなの?どこにいらっしゃるの?」
「ベアティ!」
エドワードが駆け寄ってきた。
「あら、ミスター・エドワード・アーヴィン。こんなところでお目にかかるなんて、奇遇ですわね」
まるで何事もなかったかのようにベアトリックスは言った。
「えらく汗をかいてどうしたの?」
エドワードはハンカチを取り出して、ベアトリックスの額の汗を拭いた。
「まさか、俺を見かけて、一生懸命、あとを追いかけてくれたとか?」
「あなた、何でもご自分に都合よく考える性格は治っておられないのね。そんなわけ」
ベアトリックスは言ってから
「あるわ」
と呟いた。
エドワードは、彼女をそっと包み込むように抱いた。
二人は波止場を歩いていた。
荷の積み下ろしを行なう、たくさんの港湾労働者たちを見ていると、この国は豊かだと実感させられる。
「護衛はいないの?若い女性が一人で港を歩くなんて危ないよ。昼間から酒を飲んで女性をからかったり、無礼なことをする、ならず者だっているのに」
と、エドワードは言った。
(酒飲みのならず者は、港じゃなくうちの中にいたわ)
と、ベアトリックスは先日の一夜を思い出し、エドワードの腕にぎゅっとしがみついた。
「あのね、エドワード、わたくし生涯最大の危機のときに、心の中で、あなたの言葉が聞こえた気がしたの。以前、『自分の心に嘘をついて、不本意なことをしちゃいけない』って、おっしゃってくださったことがあったでしょう?」
「生涯最大の危機?ベアティ、あなたの身にいったい何があったんだ?」
険しい表情になり、たずねるエドワードに
「危機が過ぎ去ったから、今、あなたとお話できているの。瀬戸際で自分を守れたのは、あなたのおかげよ。わたくしに何があったかは、今は内緒。いつかお話しするわ」
「見て、エドワード。とても豪華な大型船があそこに」
とベアトリックスが足を止めた。
「ああ、あれはうちの船だよ」
と、彼は言った。
「とうとう海運業にも手を広げてね。あれが、新大陸に向かうアーヴィン商会の客船だよ。俺も今から乗船してあっちに行く」
船体には、レディ・ベアトリックス号と書かれていた。
「わたくしの名前・・・」
ベアトリックスは、言葉が続かない。
「そう。レディ・ベアトリックス号だよ。最愛の女性の名前を船につけました。レディの許可も得ず申し訳なかったけど」
エドワードは
「時計の修理屋から始めた会社が、こんなに大きな船を造るまでになるなんて、思いもしなかったけどね」
と続けた。
「会社が大きくなったのは、働いている皆さんが、アーヴィン商会のために、と心を一つにした結果だわ。あなたも、あなたのご両親も、会社の方々も、何もかもほんとうに素晴らしいわ」
ベアトリックスは、雄大な海へと漕ぎ出そうとしている豪華客船の船体に書かれたレディ・ベアトリックスの文字を見て、感無量で言った。
「ありがとう。出航を前にあなたにそう言ってもらえるなんて、幸先がいいな」
エドワードはにっこりと微笑んだ。
「それにひきかえ、わたくしは島流しよ。これから、子爵家の所領のパーシー島へ向かうの。母とばあやも一緒よ。王都の噂が聞こえてこない土地で、しばらくおとなしく暮らせって言われたわ」
「なぜ?・・・噂ってどういうこと?あの夜のことなら、俺と伯爵だけの胸にしまわれて、あなたが噂の的になることなどないはずだろう?」
エドワード・アーヴィンは顔を曇らせると
「悪いのは、レディ・ベアトリックスを襲った俺一人だけ。それを彼に信じてもらえたんだろう?」
と言った。
「あのとき、あなたはわたくしの名誉を守ってくださったわ。でも、伯爵にはわかったみたい・・・彼の前で、わたくしは、あんなふうにふるまったことがなかったから」
「あんなふうにって?」
「彼がうちを訪問しても、帰り際に『行かないで』なんて縋ったこともなかったし、名残を惜しむようなキスなんて、全く想像すらしなかったわ・・・伯爵が自分の育った別邸に連れて行きたいと言ってくれても断ったり・・・思えば、わたくしの態度って、ずっと彼に、『あなたを愛していません』と言い続けていたようなものだったわ」
そう言ってから、ベアトリックスは広い海を見渡した。濃い青い海面は、エドワードの瞳に似ている。
「ダンスを彼とだけ踊っていたとき・・・伯爵は、ほんとうに嬉しそうだったわ・・・あの夜、わたくしが彼をどれほど傷つけたのか、今、あなたに会えてわかったような気がするの・・・あなたがあのまま、わたくしに気づかずどこかへ行ってしまっていたら、わたくし、とても・・・」
そのあとの言葉をベアトリックスは呑み込んだ。
「カモメが飛んでいくね」
エドワード・アーヴィンは言った。
「あなたは鳥を見るのがお好きだったわね」
「東洋にカモメによく似た鳥がいるんだよ。ウミネコって言うんだ」
「鳥なのに、どうして海の猫なのかしら?」
ベアトリックスがたずねると
「まるで猫のような声で鳴くから、だそうだよ」
「まさか、ニャーンって鳴くの?それとも、ミャアかしら?ほんとうに猫の鳴き声と同じなの?面白いわね。聞いてみたいわ」
「俺も実際に鳴き声を聞いたことがないから、わからないけど。つがいの二羽はニャーニャーって鳴き交わすんだって聞いたことがあるよ」
エドワードは言って
「気になるなら、確かめに行かないか?一緒に・・・」
と、ベアトリックスの横顔を見つめた。
「伯爵の元へ帰したくない」
「まさか・・・あなたと一緒に東の国へ行くなんて、無理だわ。わかるでしょう?」
「そうだろうね。俺、何をおかしなこと言ってるんだろう・・・あなたの立場からすれば、一度傷つけた分、これからは伯爵に優しくしてあげないと、って思っているんだろう?」
彼はそう言ってから
「ベアティ、今日は伯爵は?閣下と一緒じゃないのか?」
とたずねてきた。
「一緒じゃないわ」
「軍務があるから同行されないんだな。それとも結婚前に二人で旅行なんてとんでもない、って、あなたのご両親が許されなかったとか?」
「そのどちらでもないわ。わたくしと伯爵に『これから』なんて、ないの」
「まさか、あの夜のことが尾を引いて、あれからずっと二人の仲がギクシャクしてるとか?俺が自分を抑えられなかったせいで、申し訳ないことを・・・何度でも断言する。あの夜のことは、あなたには何の落ち度もない。悪いのは俺一人だって」
「これをご覧になって」
昨日、王女から渡された新聞を、ベアトリックスは彼に渡した。
「第三王女がミッドフォード伯爵と婚約?ひどい話だな。あの人、またやらかしたんだ。なんてことだ・・・ベアティには幸せになってほしかったのに」
「わたくしのことなら、心配は無用よ。伯爵のことなんて愛してなかったから。向こうも、わたくしに『人を騙して平然としている図太い女だ』なんて、腹立ちまぎれに暴言を吐いてきたわ。破局は当然だったのよ。だけど・・・わたくしと違って、あなたはショックだったんじゃない?王家から事前に破談の申し出があった時、どう思われたの?」
「事前の話なんかない。俺は、自分の交際終了をたった今この新聞で知ったよ」
と言ってから
「解放感でせいせいするよ。いやーすっきりした。教えてくれてありがとう」
と、エドワード・アーヴィンは再び笑顔になった。
「それにしても、ひとことお詫びがあってもいいのに。失礼きわまりないわね」
「ベアティ、それ、俺のために怒ってくれてる?」
「そうよ。いけない?」
エドワードは、非公式の交際相手にすぎない自分に対し、王室側から事態の説明がないのは当然だと言った。自分と王女の交際があくまでもプライベートなものであり、そこに国家元首たる国王は介入していない、という建て前のためだそうだ。
国王が、エドワードの父、デニス・アーヴィンに謁見をお許しになられたうえ、不承不承とは言え、王女とエドワードとの結婚をお認めになり、爵位を贈るとまで言われた件など、まるでなかったことになっている。
「俺は、王女の側近全員から嫌われていたと言っても過言じゃなかったから」
エドワードは愉快でたまらない、というふうに笑った。
「王女、という立場でいらっしゃる以上、交際は個人の自由とか、二人の関係はあくまでプライベートのことだとか、そんな言い訳、通らないと思うけれど。そのうえ、婚約発表までに王女にふさわしくなれと言われて、あなたは講習を受けに王宮へ通っていらしたのに・・・こんな記事が出たところで、知っている人は知っているわ」
ベアトリックスは言った。
「その講習で、やる気なしだったんだから、王女も、俺に期待するだけ無駄だとわかったんじゃないか?」
「お気の毒だと思うわ。恋した相手から歯牙にもかけられてないなんて」
「もともとこっちは脈なしなんだから、割り込んでこなきゃよかっただけの話だ。王女のせいで大迷惑だったよ。贔屓の俳優に似てるから好き、この程度の気持ちで、婚約中の二人の間に割り込むなんてな。それがなきゃ、すんなりとベアティと結婚できていたはずだったのに」
「回り道をしなければ、気づけないこともあるのよ。少なくともわたくしはそうでしたわ」
「王室側から働きかけて、御用新聞社にこんな記事を書かせた気持ちもわかるよ。国王だって人の親だから、大事な末娘への愛情がまったく感じられない交際相手に不快な気持ちは当然持つよ。だから、婚約内定取り消しをこっちに通告する必要はない、って判断されたってことさ」
エドワードは、あらためて新聞記事を見て、「『噂の男性はただのお友達』ってか。実際は友達ですらなかったけど」と笑っている。
「エドワード、あなたに会えてよかったわ。これで思い残すことなく旅立てますもの。それからうちの領地の修道院にずっと寄付を続けてくださって、ほんとうにありがとうございます。わたくし、ずっと何も知らなくて・・・」
そう言うと
「ああ、あそこには付属の孤児院や救貧宿舎、病院もあるからな」
と、さらりと彼は言った。
「恵まれない人々のために尽くす方には、きっと神のご加護があるわ。ご家族によろしくおっしゃってね。それじゃ、さようなら」
と、ベアトリックスが彼に背を向けた時
「ベアティの乗る船の出航まで、まだ時間があるんだろう?よければレディ・ベアトリックス号の内部を見ないか?」
とエドワード・アーヴィンが言った。
「ダメよ、そろそろ戻らないと、母とばあやが心配するもの。時間ギリギリで行動するのが嫌いな人たちよ」
「少しくらいいいだろう。ずっと歩いていたし、疲れてるんじゃないか?俺の船室で紅茶くらい出すよ」
「そうね。お茶を御馳走になろうかしら」
ベアトリックスは彼の後ろについていき、船内へと入った。
「ずいぶん広いのね。立派なテーブルにソファ、本棚や机、大きなベッドもあるわ」
ベアトリックスはそう言って、室内を見回した。
「ここは一等船室だよ。もっと広い特別室や、王侯貴族用の貴賓室もあるけど、装飾が華美すぎる部屋は苦手で」
と彼は言った。
(あなた方をお通ししていた、うちの客間よりずっとここのほうが広いわ)
と、ベアトリックスは思い
「今までごめんなさい」とつぶやいた。
テーブルを挟んで向かい合ってソファに座ると、初めて会った時のことが思い出された。
もう二人に言葉はいらなかった。
どちらともなく互いの手を取り、顔を近づけて、くちづけを交わす。
「お茶を・・・御馳走するっておっしゃったくせに」
顔を離したエドワードにベアトリックスがそう言うと
「もう会えないかと思ってた。神さま、って本当にいるんだな。願いを叶えてくれた」
そう言って立ち上がると、向かいの席から、ソファに座るベアトリックスの隣に来て、腰を下ろした。
「近いわよ」
「さんざんキスしたあとなのに、今さら近いってなんだよ」
くすっと彼が笑った。
「会いたいと願っていたのも、神頼みをしたのも、わたくしも同じよ。二人分のお願いを神さまは叶えてくださったの」
と言った。
「二人分のお願い、か」
と、エドワード・アーヴィンは言ったあと
「実は・・・パーティーの夜、伯爵にあなたを任せて、身を引いたことをとても後悔したんだ」
「あの夜、あなたは、わたくしを庇ってくださったわ。ワルツのあと、離れがたくなって、あなたにしがみついたのはわたくしよ。ご自分は何も悪くないのに、わたくしにキスを無理強いしたと嘘を言ってまで・・・あの時はごめんなさい。わたくしはほんとうのことを言わず、あなたに、女性を襲った卑劣漢という不名誉を被せたまま、伯爵とともにホールに戻ってしまったわ・・・あなたに会いたいなんて、願う資格もない卑怯者よ。それなのに・・・」
「謝るのは俺のほうだよ。あの時、あんな嘘を言うんじゃなくて、レディ・ベアトリックスを愛していると、伯爵に自分の気持ちを伝えるべきだったんだ。たとえ伯爵のほうが、あなたを幸福にできるとしても、俺はどんなことをしてでもあなたを奪うべきだった。あなたの幸せのため、を言い訳にして、闘うことなくあきらめて、人生で一番大事なものを手放してしまった。内心では世間体が大事だと思っていたのかもしれない。俺のほうが卑怯だったよ」
そう言いながら、彼は、ベアトリックスの髪にやさしく触れている。
「ベアティ、ありがとう」
「手紙を書くわ。新大陸の住所を教えてくださる?あなたは忙しいと思うけれど、時々でいいから、お返事をもらえたら、嬉しいわ。手紙の最初の行に、ディア・エディって書いてあげる。王様がいなくて、貴族も平民もない平等の土地・・・わたくしも、いつか新大陸に行けたらいいのに」
そう言うベアトリックスを、エドワードがそっと抱きしめた。
好きな人の腕の中は、なぜ、こんなにも温かいのだろうか。
ベアトリックスは涙がこみ上げるのを感じながら、その胸に身を預けていた。
「どうして泣くの?永遠の別れじゃないんだよ。半年ほどで戻ってくるのに」
「不思議ね。あなたが温かくて、すごく安心するのに、一方で、ドキドキしてるの。心臓が破裂しそう。涙が勝手にあふれてきて・・・」
ベアトリックスはそう言いつつ
(港でのお別れって切ないわ、長い人生のたった半年なのに、永遠のさよならみたいな気がしてくる・・・戻ってきても、あなたはわたくしに今と同じ笑顔を向けてくださるかしら)
やっと会えたのに、すぐまた離れ離れになる不安を彼女は感じていた。彼は大事な仕事のために出かけるのだ。引き止めるわけにはいかない。わかっていながらも、言葉に出来ない思いがあふれ、ベアトリックスはとうとう泣き声をあげ、小さな子供のようにしゃくりあげた。
「ベアティ・・・あなたが泣き虫だなんて知らなかった。可愛くて愛おしくて・・・何だか、夢の中にいるみたいだ」
そう言うと、ベアトリックスに何度もキスを繰り返す。首筋に彼の唇が触れたとき、ベアトリックスは、彼にぎゅっとしがみついた。
「もう戻らなくちゃ」
戸惑いの反動で、ベアトリックスはいきなり立ち上がった。そんな彼女を、押しとどめるように彼も立ち上がり、「行くな」と囁いて強く抱きしめた。
気がつくと、二人はもつれるようにしてベッドの上に倒れ込んでいた。
「ベアティ、愛している」
エドワードの長い綺麗な指が、ベアトリックスのイヤリングをはずし、サイトテーブルに置いた。
「思い出のサファイアよ・・・わたくし・・・これしかつけないの」
ベアトリックスはうわごとのように言った。
自分は何と幸せなのだろう。この人の重みはなんと心地よいのだろう。
このまま流されて、溶けるように、結ばれたなら、そのことこそを人は幸福と呼ぶのだろう。ベアトリックスがうっとりと目を閉じた時
ブオーン ブオーン
と大きな音がした。
「まさか」
と言って体を起こしたエドワードが窓のカーテンを開けた。
「嘘でしょ?」
ベアトリックスは叫んだ。
「今の、出航の汽笛?船、動いているわよね」
「そうみたいだ」
船は大海原に漕ぎ出し、港がどんどん遠くなっていく。
「どうしましょう。おかあさまとばあやが、きっとわたくしを探してるわ。二人がどんなに心配しているか」
「お二人の乗る船の名前はわかる?パーシー島に向かう船だったよね?無線で連絡を取るよ。まだ待合所におられるかもしれない。そちらにも聞いてみよう。しばらく会えなくなるって思ったら、ベアティを離したくなくて、時間のことなんか吹っ飛んでしまった。ごめん」
「いいえ、あなたが謝ることじゃなくってよ。わたくしも時間のことなんか忘れてしまっていたわ」
エドワードは一旦船室を離れ、しばらくすると、戻ってきた。開発途中の小さな島へ向かうプライベートクルーザーは、一隻しかなかったのですぐに連絡がついたそうだ。
「わたしは、この船が寄港したところで下りて、パーシー島へ向かうわ。あなたのお陰で宝の島になった、あの島よ」
ベアトリックスは母とばあやに連絡が取れたことに、ひとまずホッとした。
「何から何まで、ほんとうにありがとう。最後にまた一つお手数をかけるけれど、寄港したところから、パーシー島へ向かう船を手配してくださる?」
「わかった。ちゃんと向こうでご家族に会えるようにしてあげよう」
「ええ・・・わたくし、いつもあなたにご面倒ばかりかけて、ごめんなさい」
そう言ったベアトリックスを、エドワードはぎゅっと抱きしめた。
「船の手配はしない」
「そんな・・・先ほどおっしゃったことと違うわ、どうして?まさか、わたくしに、泳いで島へ行けっておっしゃるの?」
彼は、ベアトリックスを抱く手にさらに力をこめた。
「苦しいわ、エドワード。腕を少し緩めてくださる?」
「いやだ。この手を離したら、あなたが消えてしまいそうだから」
「どこへも行かせない。ベアティ、あなたを絶対に離さない」
エドワードはベアトリックスの耳もとで囁くと、自分に抗わない彼女を見て安心したのか、ようやくその手を緩めた。
「わたくし・・・王立学院に行きたいの。だからやっぱり船を下ります」
「試験は半年後だろ?ベアティ、それまでに受験勉強しないと、だな」
「そうよ。それで、焦っているの。船を下りないと」
「あなたは、自分の目の前に優秀な家庭教師がいるのを忘れているね。専属教師が半年間みっちり教えるから。試験までには王都に戻ろう」
彼はじっとベアトリックスを見つめると
「だから・・・このまま新大陸についてきてくれ。そして、一生、そばにいて欲しい」
と言った。
「エドワード・・・あなたは・・・いつも、わたくしの願いを叶えてくださるわ。心で願っていたことよりも何倍も大きな形にして・・・どうしてなの?」
「ベアティの願いなら、全て叶えてあげたくなるんだ。あなたのためなら、なんでもしてあげたい。この気持ちが、『愛する』ってことなんだな。今までの人生で一度も感じたことのない感情に、最初はとても戸惑ったよ・・・って、すごく照れくさいね」
そう言ったエドワードをベアトリックスは、涙で潤んだ目で、じっと見つめ返した。彼は、彼女の前にひざまずき
「レディ・ベアトリックス。わたしと結婚してください」と言って彼女を見上げた。
ベアトリックスの目に、また涙があふれてきた。あの夜のように彼に手をさしのべることも出来ず、彼女は顔を覆って泣きじゃくった。今までのいろんな思い出が脳裏に浮かび、思いをうまく言葉にできない。
そんな彼女を見て、エドワードは、待ちきれないとばかりに立ち上がると彼女を抱きしめた。そして唇を重ねてくる。息苦しささえ覚えるほど、深く長いキスを受けながら、涙が引いた彼女は思った。
(早く離れてよ・・・これじゃ、イエスと言えないわ)(了)
「こんな港町に何の用なの?」
「この港から船に乗るんでございます」と、ばあやは言った。
今回、三人が訪れるのは、飛び地になっている孤島だという。
「北西部のダルトンムーア近くに行くっておっしゃっていたじゃない。なんで急に行き先が変わったの?」と、ベアトリックスがたずねると
母は、うふふと笑いながら
「あら、行き先変更の件、言ってなかったかしら?わたくしたちはパーシー島に行くの」と、しれっとしている。
「お父さまが騙されて買った、いわくつきの島じゃないの。なんでそんなところに?」
子爵は詐欺師から売りつけられた島に、自分の名前のパーシヴァルの愛称から取って、パーシー島と名づけていた。
「愚かな男の島だ」と自嘲気味に言っていた子爵を、母が「ご自分をお責めにならないで、パーシー」と慰めていたのを思い出し、ベアトリックスはふふっと笑った。
(お二人は仲が良くてけっこうね。こっちは失意の都落ち、なのに)
「都会の喧騒や、人々の噂話から離れて静かに過ごすには、うってつけのところでしょう?ベアティ。王立学院の受験勉強もはかどるかもよ」
母に言われて
「ご存じだったの?入学願書を送ったこと」
「ええ。そんな意欲があるのなら、どうして相談してくれなかったのかしら?」
「お母さまは、以前、『女性が働くですって?』って驚かれていたくらいだから、女に学問はいらない、っておっしゃるかと思ったの。だから何も言えなくて」
「女性は今後、今以上にさまざまな分野で活躍するようになる、って言ったのはあなたなのにね」
母は笑った。
「とりあえず、何もない孤島に引っ込んで、雑念を捨てて修道女みたいに暮らすことにします。お母さまもばあやも一緒なんだし心強いわ」
ベアトリックスが言うと
「支度金と慰謝料でさんざん贅沢したから、このへんでストイックに生き直さないとね。いつまた没落の憂き目に遭うか・・・人生なんてわからないものよ。わたくしも修道女を見習うわ。たまには、そういうのもいいかも」と、明らかに冗談めかした口調で言ってから、母は真顔になり
「修道女と言えばね、子爵領にある聖マリアンナ修道院に、アーヴィン家がずっと寄付をしてくれていたのよ。ベアトリックス、あなたとエドワードが破談になってからもずっとそれは続いているそうなの」と言った。
(わたくし、何も知らなくて・・・成金はお金を貯め込むばかりで、人に施す気持ちがない、なんて彼を罵ったんだわ)
つくづく自分が情けなくなってくる。
「子爵領が不作に苦しんでからの修道院存続は、さぞかし大変でしたでしょうに。無事だったのはアーヴィン家のおかげだったのですね」
と、ばあやは言って
「神に仕える人たちに寄付をするアーヴィン氏と、娼館のツケをため込んでいたレイモンド・バイロン卿・・・比べるまでもありませんのに、わたくしときたら、平民の商人がお相手では情けないとお嬢さまに何度も申し上げてしまいました。お二人の破局も、わたくしに責任がございます」
と、ばあやは涙を拭った。
「ばあや、泣かないで。終わったことはもういいわ。彼とは縁がなかったのよ。それに相手の身分に対して偏見を持っていたのは、わたくし自身なの。ばあやに言われたからではないのよ」と、ベアトリックスは言った。
船着き場には中型船が止まり、人が降りてきていた。出迎えの人たちを探し、会えたことを喜び合う親子や恋人たちを、ベアトリックスは見るともなしに眺めていた。
(ここにエドワードがいる、なんてことないわよね。港はここ一つじゃないし、もし、この港から船出するにしても、船着き場だっていくつもあるのに)
すべてを見て回るなど不可能だ。
この国に港は五つもある。そして、新大陸に行く船もたくさんある。
わかっていながらも、ベアトリックスは、今日、新大陸に旅立つはずのエドワード・アーヴィンの渡航の無事を神に祈りながら、彼の姿を、無意識のうちに探していた。
港の汽笛を聞きながら、女三人は、馬車を預けたあと先導してくれる御者の後ろについて、客船の乗り場に向かって歩いていた。
「護衛に誰か男手を連れてくるべきだったわね。御者のヒルズ一人じゃ心もとないわ」
磯臭いとでもいうべきか、独特の潮のニオイが漂ってくる。母はハンカチで鼻を押さえていた。
「この臭いは何ざましょう。ここは漁港ではありませんのに」
とばあやも不快そうだ。一行は乗り場に向かって急ぎ足になった。
「ねえ、お母さま、我が家にとって縁起のよくない島に、どうしても行かなくっちゃならないの?」
「島でお父さまと、アレックスが待っているから」
母はそう言った。
「あそこは無人島じゃなかったの?泊まるところなんてあるのかしら?二人はどうやって過ごしてるの?」
「言わなかったかしら?あんな島でも固い岩の下に、何かあるかもしれないとエドワード・アーヴィン氏に言われて、地下水脈を調べてもらったの。それでね、数年前からアーヴィン商会が掘っていたのよ」
「商会じゃございませんわ。今やグループ十数社のアーヴィン財閥ですわ。そこの最新技術を駆使して掘削、とのことだそうで・・・よかったですわ。奥さま」
と、ばあやも話題に乗ってきた。
「その結果、なんと温泉が出たそうよ。やったわ!エドワード様々ね」
喜色満面の面持ちで、母クローディアは言った。
「お父さまから、今後はアーヴィン観光と協力して、富裕層のための温泉保養地にしていくつもりと聞いたわ。というわけで、お父さまと小侯爵で先に下見に行ったの」
「別荘地として富裕層に売り出すか、ホテルを建ててもよろしいですわね、奥さま」
と言うばあやに
「アレックスを先に行かせたのも、そろそろ次代当主の自覚を持ってもらうべきだと思ってのことよ。男の子は、ちゃんと育て上げるのが難しいもの」とため息をついた。
「宿は掘削の技術者が寝泊まりしていたところを、ちょっと手直しした程度だけど、まあ、温泉であたたまって、あと、と周りは海だから新鮮な魚も取れるし、先に出発した使用人たちもいるから」
という母に
「王都ほど便利じゃなくとも、何とかなりそうね」
と、ベアトリックスは微笑んだ。
「アーヴィン内装の『ちょっと手直し』ですもの。豪華な内装に決まっていますわ。それにしても愉快ですわね、奥さま。旦那さまを『小麦が実る島』と騙した奴らは、温泉がもたらす利益を得ることはありませんもの。人を嵌めたつもりが、宝の島を安く手放したってことになりますわ」
とばあやが言った。
「温泉付き保養地が人気になって、お金が入れば、系列のアーヴィン製粉から小麦も買えるし、子爵家の領地の民たちも豊かになるわね」と母クローディアはらしげに言うと
「それだけじゃないのよ。島の北端にある鉱山から、ダイヤモンドが出たんですって。あんな固い地盤を掘れるのは、アーヴィン財閥の傘下の会社しかないらしいわ。小麦の実る黄金の島、どころか、ダイヤモンドが採れるブリリアント・アイランドよ」と、つけ加え、胸を張った。
「さすがは、お父さま。先見の明がおありになるわ。あの島にただならぬ可能性を感じてお買いになったのね」
とベアトリックスが続くと、母が
「お父さまのこと、詐欺師に騙された情けない男だの、貴族の当主の資格がないだの、怒っていたのは誰だったかしら?」
と笑いながら言い
「さあ、どなたの話?うちの屋敷に、そんなに人を見る目がない者がいたかしら」
とベアトリックスがこたえる。
三人は明るい笑い声をたてながら、歩いていた。
楽しくしゃべりながら歩くうち、三人は乗り場に着いた。
「船が出るまであと二時間もあるわ。少し散歩してきます」
「だめよ。港町を令嬢が一人で歩くなんて。ばあやとわたくしはもう動く元気がないから、あなたについていってあげられないし、ヒルズはもう一般の待合所に行ってしまったわ。こちらの待合室で静かに待ちましょうよ。特別室だからゆったりとお茶も飲めるし、編み物か、読書でもしていれば、あっという間に時間が経つわ」
と母が言うので
「それもそうですわね」
と、待合室へ向かおうとした時だ。
金色の髪をした背の高い男性の姿が目に入った。
(あれは・・・まさか!)
母と娘は顔を見合わせた。
「気が変わったわ。ベアティ、散歩は一人で行ってらっしゃい。出航三十分前にはちゃんと戻るのよ」
と母は言った。
クローディアはそっと娘の背中を押した。
カモメが鳴いている。
人混みをかき分けるようにして、ベアトリックスは歩いた。
急がないと、彼の姿を見失ってしまう。
「ごめんなさい、通してください」
行きかう人たちの間を縫うように急ぎながら、ベアトリックスは必死だった。
さっきまで近くに見えたはずのエドワードの姿がどんどん遠くなる。彼は歩くのが早いのだ。庭を一緒に歩いたときは、彼女に合わせてゆっくり進んでくれていたのだと、ベアトリックスは、こんなところでも彼の優しさを知ることになった。
不意に強い海風が吹いて、彼女の帽子が吹き飛ばされた。
「あ・・・」
帽子に目をやっていた間に、彼女はエドワードを見失ってしまった。
(いやよ。神様、どうか彼に会わせてください)
そう祈った時、カモメが鳴きやみ、港の喧騒が一瞬、嘘のように静かになった。
「エドワード!」
ベアトリックスは声を限りに叫んだ。いつだったか、エントランスホールで、彼がベアトリックスの名を呼び、自分に「会ってほしい」と懇願していた時も、こんな気持ちだったのだろうか。ベアトリックスはもう一度叫んだ。
「ミスター・エドワード・アーヴィン!どこなの?どこにいらっしゃるの?」
「ベアティ!」
エドワードが駆け寄ってきた。
「あら、ミスター・エドワード・アーヴィン。こんなところでお目にかかるなんて、奇遇ですわね」
まるで何事もなかったかのようにベアトリックスは言った。
「えらく汗をかいてどうしたの?」
エドワードはハンカチを取り出して、ベアトリックスの額の汗を拭いた。
「まさか、俺を見かけて、一生懸命、あとを追いかけてくれたとか?」
「あなた、何でもご自分に都合よく考える性格は治っておられないのね。そんなわけ」
ベアトリックスは言ってから
「あるわ」
と呟いた。
エドワードは、彼女をそっと包み込むように抱いた。
二人は波止場を歩いていた。
荷の積み下ろしを行なう、たくさんの港湾労働者たちを見ていると、この国は豊かだと実感させられる。
「護衛はいないの?若い女性が一人で港を歩くなんて危ないよ。昼間から酒を飲んで女性をからかったり、無礼なことをする、ならず者だっているのに」
と、エドワードは言った。
(酒飲みのならず者は、港じゃなくうちの中にいたわ)
と、ベアトリックスは先日の一夜を思い出し、エドワードの腕にぎゅっとしがみついた。
「あのね、エドワード、わたくし生涯最大の危機のときに、心の中で、あなたの言葉が聞こえた気がしたの。以前、『自分の心に嘘をついて、不本意なことをしちゃいけない』って、おっしゃってくださったことがあったでしょう?」
「生涯最大の危機?ベアティ、あなたの身にいったい何があったんだ?」
険しい表情になり、たずねるエドワードに
「危機が過ぎ去ったから、今、あなたとお話できているの。瀬戸際で自分を守れたのは、あなたのおかげよ。わたくしに何があったかは、今は内緒。いつかお話しするわ」
「見て、エドワード。とても豪華な大型船があそこに」
とベアトリックスが足を止めた。
「ああ、あれはうちの船だよ」
と、彼は言った。
「とうとう海運業にも手を広げてね。あれが、新大陸に向かうアーヴィン商会の客船だよ。俺も今から乗船してあっちに行く」
船体には、レディ・ベアトリックス号と書かれていた。
「わたくしの名前・・・」
ベアトリックスは、言葉が続かない。
「そう。レディ・ベアトリックス号だよ。最愛の女性の名前を船につけました。レディの許可も得ず申し訳なかったけど」
エドワードは
「時計の修理屋から始めた会社が、こんなに大きな船を造るまでになるなんて、思いもしなかったけどね」
と続けた。
「会社が大きくなったのは、働いている皆さんが、アーヴィン商会のために、と心を一つにした結果だわ。あなたも、あなたのご両親も、会社の方々も、何もかもほんとうに素晴らしいわ」
ベアトリックスは、雄大な海へと漕ぎ出そうとしている豪華客船の船体に書かれたレディ・ベアトリックスの文字を見て、感無量で言った。
「ありがとう。出航を前にあなたにそう言ってもらえるなんて、幸先がいいな」
エドワードはにっこりと微笑んだ。
「それにひきかえ、わたくしは島流しよ。これから、子爵家の所領のパーシー島へ向かうの。母とばあやも一緒よ。王都の噂が聞こえてこない土地で、しばらくおとなしく暮らせって言われたわ」
「なぜ?・・・噂ってどういうこと?あの夜のことなら、俺と伯爵だけの胸にしまわれて、あなたが噂の的になることなどないはずだろう?」
エドワード・アーヴィンは顔を曇らせると
「悪いのは、レディ・ベアトリックスを襲った俺一人だけ。それを彼に信じてもらえたんだろう?」
と言った。
「あのとき、あなたはわたくしの名誉を守ってくださったわ。でも、伯爵にはわかったみたい・・・彼の前で、わたくしは、あんなふうにふるまったことがなかったから」
「あんなふうにって?」
「彼がうちを訪問しても、帰り際に『行かないで』なんて縋ったこともなかったし、名残を惜しむようなキスなんて、全く想像すらしなかったわ・・・伯爵が自分の育った別邸に連れて行きたいと言ってくれても断ったり・・・思えば、わたくしの態度って、ずっと彼に、『あなたを愛していません』と言い続けていたようなものだったわ」
そう言ってから、ベアトリックスは広い海を見渡した。濃い青い海面は、エドワードの瞳に似ている。
「ダンスを彼とだけ踊っていたとき・・・伯爵は、ほんとうに嬉しそうだったわ・・・あの夜、わたくしが彼をどれほど傷つけたのか、今、あなたに会えてわかったような気がするの・・・あなたがあのまま、わたくしに気づかずどこかへ行ってしまっていたら、わたくし、とても・・・」
そのあとの言葉をベアトリックスは呑み込んだ。
「カモメが飛んでいくね」
エドワード・アーヴィンは言った。
「あなたは鳥を見るのがお好きだったわね」
「東洋にカモメによく似た鳥がいるんだよ。ウミネコって言うんだ」
「鳥なのに、どうして海の猫なのかしら?」
ベアトリックスがたずねると
「まるで猫のような声で鳴くから、だそうだよ」
「まさか、ニャーンって鳴くの?それとも、ミャアかしら?ほんとうに猫の鳴き声と同じなの?面白いわね。聞いてみたいわ」
「俺も実際に鳴き声を聞いたことがないから、わからないけど。つがいの二羽はニャーニャーって鳴き交わすんだって聞いたことがあるよ」
エドワードは言って
「気になるなら、確かめに行かないか?一緒に・・・」
と、ベアトリックスの横顔を見つめた。
「伯爵の元へ帰したくない」
「まさか・・・あなたと一緒に東の国へ行くなんて、無理だわ。わかるでしょう?」
「そうだろうね。俺、何をおかしなこと言ってるんだろう・・・あなたの立場からすれば、一度傷つけた分、これからは伯爵に優しくしてあげないと、って思っているんだろう?」
彼はそう言ってから
「ベアティ、今日は伯爵は?閣下と一緒じゃないのか?」
とたずねてきた。
「一緒じゃないわ」
「軍務があるから同行されないんだな。それとも結婚前に二人で旅行なんてとんでもない、って、あなたのご両親が許されなかったとか?」
「そのどちらでもないわ。わたくしと伯爵に『これから』なんて、ないの」
「まさか、あの夜のことが尾を引いて、あれからずっと二人の仲がギクシャクしてるとか?俺が自分を抑えられなかったせいで、申し訳ないことを・・・何度でも断言する。あの夜のことは、あなたには何の落ち度もない。悪いのは俺一人だって」
「これをご覧になって」
昨日、王女から渡された新聞を、ベアトリックスは彼に渡した。
「第三王女がミッドフォード伯爵と婚約?ひどい話だな。あの人、またやらかしたんだ。なんてことだ・・・ベアティには幸せになってほしかったのに」
「わたくしのことなら、心配は無用よ。伯爵のことなんて愛してなかったから。向こうも、わたくしに『人を騙して平然としている図太い女だ』なんて、腹立ちまぎれに暴言を吐いてきたわ。破局は当然だったのよ。だけど・・・わたくしと違って、あなたはショックだったんじゃない?王家から事前に破談の申し出があった時、どう思われたの?」
「事前の話なんかない。俺は、自分の交際終了をたった今この新聞で知ったよ」
と言ってから
「解放感でせいせいするよ。いやーすっきりした。教えてくれてありがとう」
と、エドワード・アーヴィンは再び笑顔になった。
「それにしても、ひとことお詫びがあってもいいのに。失礼きわまりないわね」
「ベアティ、それ、俺のために怒ってくれてる?」
「そうよ。いけない?」
エドワードは、非公式の交際相手にすぎない自分に対し、王室側から事態の説明がないのは当然だと言った。自分と王女の交際があくまでもプライベートなものであり、そこに国家元首たる国王は介入していない、という建て前のためだそうだ。
国王が、エドワードの父、デニス・アーヴィンに謁見をお許しになられたうえ、不承不承とは言え、王女とエドワードとの結婚をお認めになり、爵位を贈るとまで言われた件など、まるでなかったことになっている。
「俺は、王女の側近全員から嫌われていたと言っても過言じゃなかったから」
エドワードは愉快でたまらない、というふうに笑った。
「王女、という立場でいらっしゃる以上、交際は個人の自由とか、二人の関係はあくまでプライベートのことだとか、そんな言い訳、通らないと思うけれど。そのうえ、婚約発表までに王女にふさわしくなれと言われて、あなたは講習を受けに王宮へ通っていらしたのに・・・こんな記事が出たところで、知っている人は知っているわ」
ベアトリックスは言った。
「その講習で、やる気なしだったんだから、王女も、俺に期待するだけ無駄だとわかったんじゃないか?」
「お気の毒だと思うわ。恋した相手から歯牙にもかけられてないなんて」
「もともとこっちは脈なしなんだから、割り込んでこなきゃよかっただけの話だ。王女のせいで大迷惑だったよ。贔屓の俳優に似てるから好き、この程度の気持ちで、婚約中の二人の間に割り込むなんてな。それがなきゃ、すんなりとベアティと結婚できていたはずだったのに」
「回り道をしなければ、気づけないこともあるのよ。少なくともわたくしはそうでしたわ」
「王室側から働きかけて、御用新聞社にこんな記事を書かせた気持ちもわかるよ。国王だって人の親だから、大事な末娘への愛情がまったく感じられない交際相手に不快な気持ちは当然持つよ。だから、婚約内定取り消しをこっちに通告する必要はない、って判断されたってことさ」
エドワードは、あらためて新聞記事を見て、「『噂の男性はただのお友達』ってか。実際は友達ですらなかったけど」と笑っている。
「エドワード、あなたに会えてよかったわ。これで思い残すことなく旅立てますもの。それからうちの領地の修道院にずっと寄付を続けてくださって、ほんとうにありがとうございます。わたくし、ずっと何も知らなくて・・・」
そう言うと
「ああ、あそこには付属の孤児院や救貧宿舎、病院もあるからな」
と、さらりと彼は言った。
「恵まれない人々のために尽くす方には、きっと神のご加護があるわ。ご家族によろしくおっしゃってね。それじゃ、さようなら」
と、ベアトリックスが彼に背を向けた時
「ベアティの乗る船の出航まで、まだ時間があるんだろう?よければレディ・ベアトリックス号の内部を見ないか?」
とエドワード・アーヴィンが言った。
「ダメよ、そろそろ戻らないと、母とばあやが心配するもの。時間ギリギリで行動するのが嫌いな人たちよ」
「少しくらいいいだろう。ずっと歩いていたし、疲れてるんじゃないか?俺の船室で紅茶くらい出すよ」
「そうね。お茶を御馳走になろうかしら」
ベアトリックスは彼の後ろについていき、船内へと入った。
「ずいぶん広いのね。立派なテーブルにソファ、本棚や机、大きなベッドもあるわ」
ベアトリックスはそう言って、室内を見回した。
「ここは一等船室だよ。もっと広い特別室や、王侯貴族用の貴賓室もあるけど、装飾が華美すぎる部屋は苦手で」
と彼は言った。
(あなた方をお通ししていた、うちの客間よりずっとここのほうが広いわ)
と、ベアトリックスは思い
「今までごめんなさい」とつぶやいた。
テーブルを挟んで向かい合ってソファに座ると、初めて会った時のことが思い出された。
もう二人に言葉はいらなかった。
どちらともなく互いの手を取り、顔を近づけて、くちづけを交わす。
「お茶を・・・御馳走するっておっしゃったくせに」
顔を離したエドワードにベアトリックスがそう言うと
「もう会えないかと思ってた。神さま、って本当にいるんだな。願いを叶えてくれた」
そう言って立ち上がると、向かいの席から、ソファに座るベアトリックスの隣に来て、腰を下ろした。
「近いわよ」
「さんざんキスしたあとなのに、今さら近いってなんだよ」
くすっと彼が笑った。
「会いたいと願っていたのも、神頼みをしたのも、わたくしも同じよ。二人分のお願いを神さまは叶えてくださったの」
と言った。
「二人分のお願い、か」
と、エドワード・アーヴィンは言ったあと
「実は・・・パーティーの夜、伯爵にあなたを任せて、身を引いたことをとても後悔したんだ」
「あの夜、あなたは、わたくしを庇ってくださったわ。ワルツのあと、離れがたくなって、あなたにしがみついたのはわたくしよ。ご自分は何も悪くないのに、わたくしにキスを無理強いしたと嘘を言ってまで・・・あの時はごめんなさい。わたくしはほんとうのことを言わず、あなたに、女性を襲った卑劣漢という不名誉を被せたまま、伯爵とともにホールに戻ってしまったわ・・・あなたに会いたいなんて、願う資格もない卑怯者よ。それなのに・・・」
「謝るのは俺のほうだよ。あの時、あんな嘘を言うんじゃなくて、レディ・ベアトリックスを愛していると、伯爵に自分の気持ちを伝えるべきだったんだ。たとえ伯爵のほうが、あなたを幸福にできるとしても、俺はどんなことをしてでもあなたを奪うべきだった。あなたの幸せのため、を言い訳にして、闘うことなくあきらめて、人生で一番大事なものを手放してしまった。内心では世間体が大事だと思っていたのかもしれない。俺のほうが卑怯だったよ」
そう言いながら、彼は、ベアトリックスの髪にやさしく触れている。
「ベアティ、ありがとう」
「手紙を書くわ。新大陸の住所を教えてくださる?あなたは忙しいと思うけれど、時々でいいから、お返事をもらえたら、嬉しいわ。手紙の最初の行に、ディア・エディって書いてあげる。王様がいなくて、貴族も平民もない平等の土地・・・わたくしも、いつか新大陸に行けたらいいのに」
そう言うベアトリックスを、エドワードがそっと抱きしめた。
好きな人の腕の中は、なぜ、こんなにも温かいのだろうか。
ベアトリックスは涙がこみ上げるのを感じながら、その胸に身を預けていた。
「どうして泣くの?永遠の別れじゃないんだよ。半年ほどで戻ってくるのに」
「不思議ね。あなたが温かくて、すごく安心するのに、一方で、ドキドキしてるの。心臓が破裂しそう。涙が勝手にあふれてきて・・・」
ベアトリックスはそう言いつつ
(港でのお別れって切ないわ、長い人生のたった半年なのに、永遠のさよならみたいな気がしてくる・・・戻ってきても、あなたはわたくしに今と同じ笑顔を向けてくださるかしら)
やっと会えたのに、すぐまた離れ離れになる不安を彼女は感じていた。彼は大事な仕事のために出かけるのだ。引き止めるわけにはいかない。わかっていながらも、言葉に出来ない思いがあふれ、ベアトリックスはとうとう泣き声をあげ、小さな子供のようにしゃくりあげた。
「ベアティ・・・あなたが泣き虫だなんて知らなかった。可愛くて愛おしくて・・・何だか、夢の中にいるみたいだ」
そう言うと、ベアトリックスに何度もキスを繰り返す。首筋に彼の唇が触れたとき、ベアトリックスは、彼にぎゅっとしがみついた。
「もう戻らなくちゃ」
戸惑いの反動で、ベアトリックスはいきなり立ち上がった。そんな彼女を、押しとどめるように彼も立ち上がり、「行くな」と囁いて強く抱きしめた。
気がつくと、二人はもつれるようにしてベッドの上に倒れ込んでいた。
「ベアティ、愛している」
エドワードの長い綺麗な指が、ベアトリックスのイヤリングをはずし、サイトテーブルに置いた。
「思い出のサファイアよ・・・わたくし・・・これしかつけないの」
ベアトリックスはうわごとのように言った。
自分は何と幸せなのだろう。この人の重みはなんと心地よいのだろう。
このまま流されて、溶けるように、結ばれたなら、そのことこそを人は幸福と呼ぶのだろう。ベアトリックスがうっとりと目を閉じた時
ブオーン ブオーン
と大きな音がした。
「まさか」
と言って体を起こしたエドワードが窓のカーテンを開けた。
「嘘でしょ?」
ベアトリックスは叫んだ。
「今の、出航の汽笛?船、動いているわよね」
「そうみたいだ」
船は大海原に漕ぎ出し、港がどんどん遠くなっていく。
「どうしましょう。おかあさまとばあやが、きっとわたくしを探してるわ。二人がどんなに心配しているか」
「お二人の乗る船の名前はわかる?パーシー島に向かう船だったよね?無線で連絡を取るよ。まだ待合所におられるかもしれない。そちらにも聞いてみよう。しばらく会えなくなるって思ったら、ベアティを離したくなくて、時間のことなんか吹っ飛んでしまった。ごめん」
「いいえ、あなたが謝ることじゃなくってよ。わたくしも時間のことなんか忘れてしまっていたわ」
エドワードは一旦船室を離れ、しばらくすると、戻ってきた。開発途中の小さな島へ向かうプライベートクルーザーは、一隻しかなかったのですぐに連絡がついたそうだ。
「わたしは、この船が寄港したところで下りて、パーシー島へ向かうわ。あなたのお陰で宝の島になった、あの島よ」
ベアトリックスは母とばあやに連絡が取れたことに、ひとまずホッとした。
「何から何まで、ほんとうにありがとう。最後にまた一つお手数をかけるけれど、寄港したところから、パーシー島へ向かう船を手配してくださる?」
「わかった。ちゃんと向こうでご家族に会えるようにしてあげよう」
「ええ・・・わたくし、いつもあなたにご面倒ばかりかけて、ごめんなさい」
そう言ったベアトリックスを、エドワードはぎゅっと抱きしめた。
「船の手配はしない」
「そんな・・・先ほどおっしゃったことと違うわ、どうして?まさか、わたくしに、泳いで島へ行けっておっしゃるの?」
彼は、ベアトリックスを抱く手にさらに力をこめた。
「苦しいわ、エドワード。腕を少し緩めてくださる?」
「いやだ。この手を離したら、あなたが消えてしまいそうだから」
「どこへも行かせない。ベアティ、あなたを絶対に離さない」
エドワードはベアトリックスの耳もとで囁くと、自分に抗わない彼女を見て安心したのか、ようやくその手を緩めた。
「わたくし・・・王立学院に行きたいの。だからやっぱり船を下ります」
「試験は半年後だろ?ベアティ、それまでに受験勉強しないと、だな」
「そうよ。それで、焦っているの。船を下りないと」
「あなたは、自分の目の前に優秀な家庭教師がいるのを忘れているね。専属教師が半年間みっちり教えるから。試験までには王都に戻ろう」
彼はじっとベアトリックスを見つめると
「だから・・・このまま新大陸についてきてくれ。そして、一生、そばにいて欲しい」
と言った。
「エドワード・・・あなたは・・・いつも、わたくしの願いを叶えてくださるわ。心で願っていたことよりも何倍も大きな形にして・・・どうしてなの?」
「ベアティの願いなら、全て叶えてあげたくなるんだ。あなたのためなら、なんでもしてあげたい。この気持ちが、『愛する』ってことなんだな。今までの人生で一度も感じたことのない感情に、最初はとても戸惑ったよ・・・って、すごく照れくさいね」
そう言ったエドワードをベアトリックスは、涙で潤んだ目で、じっと見つめ返した。彼は、彼女の前にひざまずき
「レディ・ベアトリックス。わたしと結婚してください」と言って彼女を見上げた。
ベアトリックスの目に、また涙があふれてきた。あの夜のように彼に手をさしのべることも出来ず、彼女は顔を覆って泣きじゃくった。今までのいろんな思い出が脳裏に浮かび、思いをうまく言葉にできない。
そんな彼女を見て、エドワードは、待ちきれないとばかりに立ち上がると彼女を抱きしめた。そして唇を重ねてくる。息苦しささえ覚えるほど、深く長いキスを受けながら、涙が引いた彼女は思った。
(早く離れてよ・・・これじゃ、イエスと言えないわ)(了)
516
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(8件)
あなたにおすすめの小説
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
替え玉の私に、その愛を注がないで…。~義姉の代わりに嫁いだ辺境伯へ、身を引くはずが……持ちかけられたのは溺愛契約。
翠月 瑠々奈
恋愛
ベルン皇国の辺境伯ソラティスが求めたのは、麗しき皇都の子爵令嬢レイアだった。
しかし、彼の元へ届けられたのは、身代わりに仕立て上げられた妹のラシーヌ。
容姿も性格も全く違う姉妹。
拒絶を覚悟したラシーヌだったが、ソラティスは緋色の瞳を向けて一つの「契約」を持ち掛けた。
その契約とは──?
ソラティスの結婚の理由、街を守る加護の力。そして、芽生える一つの恋。それに怯える拙い拒み。
※一部加筆修正済みです。
私と義弟の安全は確保出来たので、ゆっくり恋人を探そうと思います
織り子
恋愛
18歳で処刑された大公家の令嬢、セレノア・グレイス。
目を覚ますと――あの日の6年前に戻っていた。
まだ無邪気な弟ルシアン、笑う両親。
再び訪れる“反逆の運命”を知るのは、彼女だけ。
――大公家に産まれた時点で、自由な恋愛は諦めていた。だが、本当は他の令嬢達の話を聞くたびにうらやましかった。人生1度きり。もう少し花のある人生を送りたかった。一度でいいから、恋愛をしてみたい。
限られた6年の中で、セレノアは動き出す。
愛する家族を守るため、未来を変えるために。
そして本当の願い(恋愛)を叶えるために。
公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました
歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と
罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが
やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、
エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」
辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。
商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。
元夫が「戻ってこい」と泣きつくが——
「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」
私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
【本編完結】王子の寝た子を起こしたら、夢見る少女では居られなくなりました!
こさか りね
恋愛
私、フェアリエル・クリーヴランドは、ひょんな事から前世を思い出した。
そして、気付いたのだ。婚約者が私の事を良く思っていないという事に・・・。
婚約者の態度は前世を思い出した私には、とても耐え難いものだった。
・・・だったら、婚約解消すれば良くない?
それに、前世の私の夢は『のんびりと田舎暮らしがしたい!』と常々思っていたのだ。
結婚しないで済むのなら、それに越したことはない。
「ウィルフォード様、覚悟する事ね!婚約やめます。って言わせてみせるわ!!」
これは、婚約解消をする為に奮闘する少女と、本当は好きなのに、好きと気付いていない王子との攻防戦だ。
そして、覚醒した王子によって、嫌でも成長しなくてはいけなくなるヒロインのコメディ要素強めな恋愛サクセスストーリーが始まる。
※序盤は恋愛要素が少なめです。王子が覚醒してからになりますので、気長にお読みいただければ嬉しいです。
※本編完結しました。
※後日談を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
おもしろかったです!
ベアトリックスがエドワードへの気持ちに気付きつつも、認めたくない、ダメ、、とブレーキをかけていたのに、気持ちがあふれてしまうワルツのシーンが印象的でした。ワルツのあと、お互いを求め合う姿にドキドキしました!
現実にはこうもうまくはいかないかなと思いますますが、笑 お話では2人が結ばれ、ハッピーエンドでよかったです!
感想ありがとうございます。
ハッピーエンドを喜んでいただけてよかったです。
そうですね、現実は厳しいです。そもそも一途に人の女性を愛する男性がどれだけいるのか、そこからして(苦笑)
今後も、楽しんでいただけるものを書きたいと思っております。遅筆で申し訳ないですが、気を長くしてお待ちくださいませ
読みはじめた時に
時間をつくって読む話だと感じ
なかなか読み進めずにいましたが
ようやく時間ができ(やっぱり)
イッキ読みしてしまいました
出来る事なら
ベアトリックスの感情など
もっと考察したいので
紙で読みたいと感じました
次の作品も
楽しみにしております
紙で読みたいとおっしゃっていただけたことに、感激しております。
自分としては、暇つぶしに読み捨てていただけるだけてもありがたいと思っていますので、このような感想をいただいて、涙が出そうになりました。
web小説全盛の今だからこそ、紙の本を出すことが大きな夢になるのかもしれません。
夢に向かって精進していきます。今後ともよろしくお願いいたします。
ベアトリックスの乙女心にうんうんと共感しながら気づいたら最終章が終わっていました…!
高貴ながらも少し毒のあるベアトリックスの言葉にヒヤっとする部分もありましたが、エドワードの広い心に包まれてこちらまで幸せです。
その後の2人が描かれるのをファンとして強く希望します、!
感想有難うございます。
広い心の男性、なかなかいないですよね。紙の上ではなんでも可能なので、女性が夢見る時間を作れたらと思っています。遅筆ですが、お見捨てなく次回作をお待ちいただければと願っております。
読了ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします