クラウチングスタート

クラウチングスタート

号砲の音が鳴った。

空気が一瞬、凍るように裂ける。
その瞬間、八つの身体が一斉に前へ押し出された。
だが、ひとつだけ、わずかに遅れた。

足裏の力が均等に抜けなかった。右足の指がスターティングブロックに残り、踵だけが先に外へ滑る。
身体はすでに前へ出ている。
腕が空を切る。掌が白線を掴もうとする。

バランスが崩れる。

ほんのわずかな誤差が、全体を倒す。
腹の下で重心が浮く。
左膝が前に出すぎる。
脛の筋が張り、皮膚がひと筋、緊張して光る。

背中の筋肉が一斉に収縮する。
肩が沈む。首が遅れてついていく。
息の音が、内側で擦れるように鳴る。

彼女の身体はまだ前へ進もうとしている。
だが、脚が絡まる。
右膝が左足首を蹴る。
靴底のゴムがトラックを掻き、細かい赤い粒が舞い上がる。
その粒が、光の下で宙に浮き、止まっているように見える。

腕が伸びる。

次の瞬間には、地面が迫ってくる。
目に入るのは赤い舗装と、そこに刺さる影の線。

時間が細かく分解されていく。

右手が最初に触れる。
指先から掌へ、掌から肘へ。
衝撃が、筋肉を伝いながら一気に肩まで駆け上がる。
皮膚の表面が引き裂かれ、細かい砂が食い込む。

顎が下がる。

唇が擦れ、かすかな音を立てる。
その音が、爆音のように響く。スタートの号砲よりも、ずっと近い音。

胸が地面に落ちる。

ユニフォームの布地が伸び、縫い目が軋む。
ピストルの残響がまだ空中にある。
他の選手たちの足音が遠くで連なっていく。

だが彼女の身体は、まだ落ちきっていない。
肩の裏で地面を押し、反動のように少し跳ねる。
肘が曲がり、腕が内側へ折れ込む。
それを追うように、膝が滑る。
右のスパイクがトラックを引っかき、黒い線を引く。

砂が舞う。

空気の層の中で、粒がひとつずつ光る。
赤、茶、白、灰――それらが混ざって、宙を泳ぐ。

足の筋がねじれる。

太ももの裏の腱が張りつめ、皮膚の下で動物のように暴れる。
その動きが止まると同時に、全ての音が収束する。

息を吸う音がない。
息を吐く音もない。

ただ、衝突のあとに残った低い響きだけが、トラック全体を満たしている。

彼女の身体が完全に地面に伏す。
肩の辺りで呼吸が震える。
その小さな動きが、砂粒をわずかに跳ねさせる。

風が通り過ぎる。

観客席のざわめきが、遠くの水面のように広がっていく。
審判の足音が鳴る。ゆっくりと、確実に。
笛の音が短く響き、音の余韻が消える。

顔の横に、血が落ちている。
それは汗に混じって、赤というよりも黒く見える。
顎の下に伸びた線が、砂を濡らす。
指先がわずかに動く。掌の下の粒が押しつぶされ、形を失う。

トラックの表面が陽を反射する。
その光が、彼女の頬にあたる。
影ができる。
汗がその影を滑り、顎の先で落ちる。

腕を支えに、少しだけ上体が持ち上がる。
指の間に砂が詰まっている。
その砂の中に、血が混じっている。
赤い粉のように見えた粒が、実際には皮膚から滲んだ血で、ほんのわずかに艶を帯びている。

呼吸が戻る。

だが、言葉はない。
視線は地面に落ちたまま。
息の音が、擦過音のように短く続く。

観客席のざわめきが、今ようやく現実に戻る。
笛の音、アナウンス、足音。
それらが再び流れはじめる。
だが彼女の中では、まだ時間が止まっている。

顎の下を伝う血が一滴、落ちた。
その跡がトラックに染みる。
赤い上に、さらに赤い点が広がる。

彼女は手を動かす。

顔の下に差し込み、顎をなぞる。
砂が混じり、皮膚を削る。
指の腹に生温い感触が残る。
指を離すと、血がついていた。
光を反射して、細く、鈍い赤。

その血を見つめ、彼女は小さく息を吐く。
顔を上げ、遠くのゴールを見やる。
まだ走っている影がある。
もう、自分には関係のない世界のように見える。

そして、顎をもう一度なぞりながら、低く言った。

「私の可愛い顔に傷が……」