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【外伝】それぞれのそのとき・それから
【外伝】ソレンの姪っ子溺愛記 -2-
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帝都、貴族院。
そこは、帝国全土から選び抜かれた貴族の子弟たちが集い、将来の社交界を担うための教養と人脈を培う「学びの園」である。
優雅な音楽、洗練されたマナー、そして腹の探り合いという名の高尚な遊戯。
だが、僕――ソレン・ヴィータヴェンにとって、ここは単なる「通過点」ですらなかった。
言うなれば、道路工事の際に邪魔になる小石。あるいは、書類上の手続きを行うだけの「役所」の窓口。
それ以上でも、それ以下でもない。
入学式から、およそ三ヶ月。
季節が春から夏へと変わろうとする頃。
僕は、貴族院の事務総長室の重厚なマホガニーのデスクに、分厚い書類の束を叩きつけていた。
「……そ、ソレン君? これは……?」
総長が、鼻眼鏡をずり落ちさせながら、引きつった声で尋ねる。
僕は、ヴィータヴェン家で培った「営業用スマイル(温度ゼロ)」を浮かべ、淡々と告げた。
「卒業に必要な全単位の取得証明書、実技試験の免除申請書、ならびに卒業論文です。テーマは『永久凍土における道路敷設と魔物除けの効率化について』。……すでに、担当教官の承認印は全て頂いております」
「は、早すぎる! 君はまだ入学したばかりだろう!? 確かに、君の成績は筆記・実技ともに開校以来の最高得点だが……もう少し、学園生活というものを楽しんでも……」
「楽しむ?」
僕は片眉を跳ね上げた。
総長は言葉に詰まる。無理もない。彼らのような温室育ちには理解できないのだ。
「失礼ですが総長。幼少期にヴィータヴェン領から帝都まで単独で走破し、大陸横断道路の現場でツルハシを振るってきた僕にとって、この学園の授業など『赤子の昼寝』と大差ありません」
剣術の実技? 先輩方の剣は止まって見えた。
魔法学の講義? 実戦データの裏付けがない机上の空論だ。
社交パーティー? 姉上――レヴィーネ・ヴィータヴェン皇帝陛下が開催する「筋肉とちゃんこ鍋の宴」に比べれば、あまりに貧弱で刺激が足りない。
僕は胸を張り、毅然と言い放った。
「我がヴィータヴェン家は、辺境の独立独歩の気風を重んじます。帝都での無意味な顔つなぎや、生温いダンスに興じる時間は、僕の人生設計には1秒たりとも組み込まれておりません。何より――」
僕は懐から、最新型の魔導通信端末を取り出した。
画面をタップし、愛おしげに表面を撫でる。
「連邦皇国では、我が愛すべき姪、エレノアが僕の帰りを待っているのです。一分一秒でも早く帰らねば、彼女の成長という『歴史的瞬間』を見逃してしまいます」
画面に映っているのは、先日ミリア宰相から送られてきた、エレノアの最新動画だ。
クッションを握りつぶしながら、キャッキャと笑う天使。
その握力は、すでにリンゴ程度なら粉砕する域に達しているという。
かつて赤子の僕が、海運王サカモト・リョウマの指をへし折った時と同じ、頼もしい成長ぶりだ。
「……あ、ああ……やっぱり、あのレヴィーネ様の弟君だ……」
総長は遠い目をして、震える手で書類に承認印を押した。
姉上の威光と、義兄上という皇族との太いパイプ。使えるものは全て使い、僕は最短記録で貴族院という名の鳥籠を粉砕した。
さらば、帝都。
さあ、帰ろう。僕の「守るべき光」が待つ場所へ!
◆◆◆
こうして「留学」という名目で連邦皇国へ舞い戻った僕は、旅装を解くのももどかしく、皇都アクシスの居城へと駆け込んだ。
ミリア宰相からの定期報告によれば、一歳を過ぎたエレノアは、ついに「ハイハイ」を始めたという。
よちよちと床を這う、愛らしい天使の姿。
想像するだけで、強張った表情筋が緩み、鼻の下が伸びるのを止められない。
「ただいま戻りました! ノア、叔父上ですよ!」
執務室やサロンを通り抜け、長い廊下へと足を踏み入れた瞬間だった。
ヒュンッ!
風切り音と共に、視界の端を何かが高速で横切った。
「……なっ!?」
敵襲か?
いや、この皇城のセキュリティは、姉上とイリスが構築した鉄壁の要塞だ。ネズミ一匹、アリ一匹たりとも許可なく入ることはできない。
だとすれば、今の影は――。
「……あー! あー!」
廊下の彼方から、歓喜の声が聞こえる。
僕は目を凝らした。
そこには、四肢で床を捉え、野生の猛獣も裸足で逃げ出すような、超低空・高速移動を行う赤ん坊――エレノアの姿があった。
「は、速い……! あれがハイハイだって言うのか!?」
それはもはや、移動ではない。
四輪駆動のスポーツカーだ。
最高級のふかふかの絨毯を、小さな指先がガッチリとグリップしている。
ムチムチとした手足が、バネのように伸縮して推進力を生んでいる。
一掻きごとに、身体が数メートル前方へ弾き飛ばされている。
姉上譲りの身体強化の才能が、無自覚に発動しているのだ。
しかも、重心移動が完璧だ。空力抵抗すら考慮に入れたフォームである。
「……素晴らしい。さすがは我が姪だ。将来は大陸横断道路を徒歩で制覇できるに違いない」
感心して頷きかけた、その時。
僕の脳内で、現場監督としての「安全管理アラート」が、けたたましく鳴り響いた。
「――いけない!」
大人の目線では安全に見える、この廊下。
だが、時速数十キロで移動する赤ん坊の視点ではどうだ?
テーブルの脚。
置物の台座。
床に落ちたわずかなゴミ。
その全てが、高速移動中には致命的な「凶器」になり得る。
「彼女と同じ目線に立たなければ、彼女が気づかない危険性を検知できない!」
結論が出た瞬間、僕は躊躇なく床に伏せた。
ラノリア製の最高級シルクのシャツが擦れるのも、スラックスの膝が汚れるのも構わず、四つん這いになる。
現場は、会議室ではない。
安全は、泥にまみれて守るものだ。
「待っていろノア! 今、叔父上が並走するぞ!」
身体強化、展開。
出力、安定。四輪駆動モードへ移行。
ダダダダダダダッ!
僕はかつて大陸を走破した脚力と、ヴィータヴェン直伝の身体能力をフル稼働させ、猛然と床を蹴った。
廊下を並んで爆走する、赤ん坊と青年。
客観的に見れば即通報案件だが、今の僕にとっては何よりも重要な「護衛任務」だ。
「あー! きゃぁー!」
横に並んだ僕を見て、ノアが嬉しそうに声を上げる。
競争だと思っているのか、さらに加速する。
「くっ……! 速い! なんて加速力だ!」
ヴィータヴェンの血を引くこの僕が、本気で身体強化を使ってようやく並走できるレベルだと!?
数えで一歳にしてこの身体能力。やはり姉上の娘、化け物だ!
廊下の直角コーナーに差し掛かった瞬間、エレノアは減速するどころか、さらに加速した。
遠心力を利用し、壁をタタタッと駆け上がる。
重力を無視して壁面を走り、天井スレスレを通過して、反対側の床へと着地する。
壁走り。
三角飛び。
三次元機動。
僕はドリフトしながら、目を見開いた。
「バカな……! 一歳児の機動じゃない! 足腰のグリップ性能が違いすぎる!」
床という二次元平面しか走れない僕に対し、彼女は壁と天井を含めた三次元空間を支配している。
速さやスタミナではない。この空間認識能力とセンス。
これが、次世代の覇王の資質か……!
だが、感心している場合ではない。
直線を抜けようとしたその時、エレノアの速度が急激に落ちた。
シュルルル……。
「……?」
急ブレーキではない。エンジンの停止だ。
僕が猛追して横に並ぶと、エレノアの瞳がとろんと濁っているのが見えた。
まぶたが重力に負けて落ちかけ、首がカックンカックンと揺れている。
電池切れだ。
全力の身体強化ハイハイによる急激なエネルギー消費が、強制的なシャットダウンを引き起こそうとしている。
だが、慣性の法則は無慈悲だ。
眠りながらも惰性で滑る彼女の進行方向。
そこには、ミリア宰相が先日購入し、青筋を立てて警告していた「モノ」が鎮座していた。
『いいですかソレン様。これ、旧時代の遺跡から出土した、修復不可能な一点物の白磁の壺ですからね? 国宝級です。もし割ったら……来期の道路予算、わかってますよね?』
あの、氷のような笑顔が脳裏をよぎる。
「……しまっ……!」
このままでは激突する。
頑丈なヴィータヴェンの肉体を持つノアなら無傷だろう。だが、壺は粉々だ。
そして壺が割れれば、ミリアの雷が落ちる。
予算が削られる。
何より、目覚めたノアが、壊れた壺を見て悲しむ(かもしれない)。
それだけは阻止せねばならない!
叔父として! 道路公団の長として!
「おおおおおおッ!」
僕は魔力炉を臨界まで回し、床の大理石を粉砕する勢いで加速した。
限界? そんなものはヴィータヴェンには存在しない!
エレノアを追い越し、壺の手前で急停止。
摩擦熱で靴から白煙を上げながら、身体を反転させる。
スライディング・キャッチ!
ドスンッ。
僕の胸の中に、小さな砲弾が飛び込んできた。
衝撃を受け流し、背中で壺をガードする。
広背筋が壺の硬質な感触を受け止め、上腕二頭筋が姪の柔らかい身体を包み込む。
完璧な防御だ。
「……ぐっ……ふぅ。……セーフ、だね」
背中の痛みなど、小石が当たった程度。
僕は腕の中を覗き込んだ。
「……すー……すー……むにゃ……」
そこには、僕のシャツを小さな手でギュッと握りしめ、幸せそうに寝息を立てる天使がいた。
さっきまでの暴走トラックのような勢いはどこへやら。
今はただ、柔らかくて、温かくて、ミルクの甘い匂いがする、守るべき小さな命の塊だ。
「……はは。なんてことだ」
乱れた呼吸を整えながら、僕はこみ上げてくる感情を抑えきれずに呟いた。
壁を走り、国宝級の壺を割りそうになり、帝国随一のエリートである僕を物理的に振り回しておきながら。
この無防備な寝顔一つで、全てを許させてしまう。
これが、ヴィータヴェンの女たちの強さか。
これが、姉上が命がけで守り抜いた未来の形か。
「……本当に、可愛い!」
僕は床に寝転がったまま、腕の中の宝物を抱きしめた。
頬ずりしたい衝動を、ギリギリの理性で抑え込む。叔父と姪とはいえ過度なスキンシップはよろしくない。
ああ、早くこの子に見せたい。
僕がこれから作る道を。
大陸を繋ぎ、世界を一つにする、果てしない道を。
叔父バカという名の加速装置に、二度目の点火がされた瞬間だった。
僕は誓った。この子のハイハイのために、世界中の床を平らに舗装してやろう、と。
そこは、帝国全土から選び抜かれた貴族の子弟たちが集い、将来の社交界を担うための教養と人脈を培う「学びの園」である。
優雅な音楽、洗練されたマナー、そして腹の探り合いという名の高尚な遊戯。
だが、僕――ソレン・ヴィータヴェンにとって、ここは単なる「通過点」ですらなかった。
言うなれば、道路工事の際に邪魔になる小石。あるいは、書類上の手続きを行うだけの「役所」の窓口。
それ以上でも、それ以下でもない。
入学式から、およそ三ヶ月。
季節が春から夏へと変わろうとする頃。
僕は、貴族院の事務総長室の重厚なマホガニーのデスクに、分厚い書類の束を叩きつけていた。
「……そ、ソレン君? これは……?」
総長が、鼻眼鏡をずり落ちさせながら、引きつった声で尋ねる。
僕は、ヴィータヴェン家で培った「営業用スマイル(温度ゼロ)」を浮かべ、淡々と告げた。
「卒業に必要な全単位の取得証明書、実技試験の免除申請書、ならびに卒業論文です。テーマは『永久凍土における道路敷設と魔物除けの効率化について』。……すでに、担当教官の承認印は全て頂いております」
「は、早すぎる! 君はまだ入学したばかりだろう!? 確かに、君の成績は筆記・実技ともに開校以来の最高得点だが……もう少し、学園生活というものを楽しんでも……」
「楽しむ?」
僕は片眉を跳ね上げた。
総長は言葉に詰まる。無理もない。彼らのような温室育ちには理解できないのだ。
「失礼ですが総長。幼少期にヴィータヴェン領から帝都まで単独で走破し、大陸横断道路の現場でツルハシを振るってきた僕にとって、この学園の授業など『赤子の昼寝』と大差ありません」
剣術の実技? 先輩方の剣は止まって見えた。
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社交パーティー? 姉上――レヴィーネ・ヴィータヴェン皇帝陛下が開催する「筋肉とちゃんこ鍋の宴」に比べれば、あまりに貧弱で刺激が足りない。
僕は胸を張り、毅然と言い放った。
「我がヴィータヴェン家は、辺境の独立独歩の気風を重んじます。帝都での無意味な顔つなぎや、生温いダンスに興じる時間は、僕の人生設計には1秒たりとも組み込まれておりません。何より――」
僕は懐から、最新型の魔導通信端末を取り出した。
画面をタップし、愛おしげに表面を撫でる。
「連邦皇国では、我が愛すべき姪、エレノアが僕の帰りを待っているのです。一分一秒でも早く帰らねば、彼女の成長という『歴史的瞬間』を見逃してしまいます」
画面に映っているのは、先日ミリア宰相から送られてきた、エレノアの最新動画だ。
クッションを握りつぶしながら、キャッキャと笑う天使。
その握力は、すでにリンゴ程度なら粉砕する域に達しているという。
かつて赤子の僕が、海運王サカモト・リョウマの指をへし折った時と同じ、頼もしい成長ぶりだ。
「……あ、ああ……やっぱり、あのレヴィーネ様の弟君だ……」
総長は遠い目をして、震える手で書類に承認印を押した。
姉上の威光と、義兄上という皇族との太いパイプ。使えるものは全て使い、僕は最短記録で貴族院という名の鳥籠を粉砕した。
さらば、帝都。
さあ、帰ろう。僕の「守るべき光」が待つ場所へ!
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よちよちと床を這う、愛らしい天使の姿。
想像するだけで、強張った表情筋が緩み、鼻の下が伸びるのを止められない。
「ただいま戻りました! ノア、叔父上ですよ!」
執務室やサロンを通り抜け、長い廊下へと足を踏み入れた瞬間だった。
ヒュンッ!
風切り音と共に、視界の端を何かが高速で横切った。
「……なっ!?」
敵襲か?
いや、この皇城のセキュリティは、姉上とイリスが構築した鉄壁の要塞だ。ネズミ一匹、アリ一匹たりとも許可なく入ることはできない。
だとすれば、今の影は――。
「……あー! あー!」
廊下の彼方から、歓喜の声が聞こえる。
僕は目を凝らした。
そこには、四肢で床を捉え、野生の猛獣も裸足で逃げ出すような、超低空・高速移動を行う赤ん坊――エレノアの姿があった。
「は、速い……! あれがハイハイだって言うのか!?」
それはもはや、移動ではない。
四輪駆動のスポーツカーだ。
最高級のふかふかの絨毯を、小さな指先がガッチリとグリップしている。
ムチムチとした手足が、バネのように伸縮して推進力を生んでいる。
一掻きごとに、身体が数メートル前方へ弾き飛ばされている。
姉上譲りの身体強化の才能が、無自覚に発動しているのだ。
しかも、重心移動が完璧だ。空力抵抗すら考慮に入れたフォームである。
「……素晴らしい。さすがは我が姪だ。将来は大陸横断道路を徒歩で制覇できるに違いない」
感心して頷きかけた、その時。
僕の脳内で、現場監督としての「安全管理アラート」が、けたたましく鳴り響いた。
「――いけない!」
大人の目線では安全に見える、この廊下。
だが、時速数十キロで移動する赤ん坊の視点ではどうだ?
テーブルの脚。
置物の台座。
床に落ちたわずかなゴミ。
その全てが、高速移動中には致命的な「凶器」になり得る。
「彼女と同じ目線に立たなければ、彼女が気づかない危険性を検知できない!」
結論が出た瞬間、僕は躊躇なく床に伏せた。
ラノリア製の最高級シルクのシャツが擦れるのも、スラックスの膝が汚れるのも構わず、四つん這いになる。
現場は、会議室ではない。
安全は、泥にまみれて守るものだ。
「待っていろノア! 今、叔父上が並走するぞ!」
身体強化、展開。
出力、安定。四輪駆動モードへ移行。
ダダダダダダダッ!
僕はかつて大陸を走破した脚力と、ヴィータヴェン直伝の身体能力をフル稼働させ、猛然と床を蹴った。
廊下を並んで爆走する、赤ん坊と青年。
客観的に見れば即通報案件だが、今の僕にとっては何よりも重要な「護衛任務」だ。
「あー! きゃぁー!」
横に並んだ僕を見て、ノアが嬉しそうに声を上げる。
競争だと思っているのか、さらに加速する。
「くっ……! 速い! なんて加速力だ!」
ヴィータヴェンの血を引くこの僕が、本気で身体強化を使ってようやく並走できるレベルだと!?
数えで一歳にしてこの身体能力。やはり姉上の娘、化け物だ!
廊下の直角コーナーに差し掛かった瞬間、エレノアは減速するどころか、さらに加速した。
遠心力を利用し、壁をタタタッと駆け上がる。
重力を無視して壁面を走り、天井スレスレを通過して、反対側の床へと着地する。
壁走り。
三角飛び。
三次元機動。
僕はドリフトしながら、目を見開いた。
「バカな……! 一歳児の機動じゃない! 足腰のグリップ性能が違いすぎる!」
床という二次元平面しか走れない僕に対し、彼女は壁と天井を含めた三次元空間を支配している。
速さやスタミナではない。この空間認識能力とセンス。
これが、次世代の覇王の資質か……!
だが、感心している場合ではない。
直線を抜けようとしたその時、エレノアの速度が急激に落ちた。
シュルルル……。
「……?」
急ブレーキではない。エンジンの停止だ。
僕が猛追して横に並ぶと、エレノアの瞳がとろんと濁っているのが見えた。
まぶたが重力に負けて落ちかけ、首がカックンカックンと揺れている。
電池切れだ。
全力の身体強化ハイハイによる急激なエネルギー消費が、強制的なシャットダウンを引き起こそうとしている。
だが、慣性の法則は無慈悲だ。
眠りながらも惰性で滑る彼女の進行方向。
そこには、ミリア宰相が先日購入し、青筋を立てて警告していた「モノ」が鎮座していた。
『いいですかソレン様。これ、旧時代の遺跡から出土した、修復不可能な一点物の白磁の壺ですからね? 国宝級です。もし割ったら……来期の道路予算、わかってますよね?』
あの、氷のような笑顔が脳裏をよぎる。
「……しまっ……!」
このままでは激突する。
頑丈なヴィータヴェンの肉体を持つノアなら無傷だろう。だが、壺は粉々だ。
そして壺が割れれば、ミリアの雷が落ちる。
予算が削られる。
何より、目覚めたノアが、壊れた壺を見て悲しむ(かもしれない)。
それだけは阻止せねばならない!
叔父として! 道路公団の長として!
「おおおおおおッ!」
僕は魔力炉を臨界まで回し、床の大理石を粉砕する勢いで加速した。
限界? そんなものはヴィータヴェンには存在しない!
エレノアを追い越し、壺の手前で急停止。
摩擦熱で靴から白煙を上げながら、身体を反転させる。
スライディング・キャッチ!
ドスンッ。
僕の胸の中に、小さな砲弾が飛び込んできた。
衝撃を受け流し、背中で壺をガードする。
広背筋が壺の硬質な感触を受け止め、上腕二頭筋が姪の柔らかい身体を包み込む。
完璧な防御だ。
「……ぐっ……ふぅ。……セーフ、だね」
背中の痛みなど、小石が当たった程度。
僕は腕の中を覗き込んだ。
「……すー……すー……むにゃ……」
そこには、僕のシャツを小さな手でギュッと握りしめ、幸せそうに寝息を立てる天使がいた。
さっきまでの暴走トラックのような勢いはどこへやら。
今はただ、柔らかくて、温かくて、ミルクの甘い匂いがする、守るべき小さな命の塊だ。
「……はは。なんてことだ」
乱れた呼吸を整えながら、僕はこみ上げてくる感情を抑えきれずに呟いた。
壁を走り、国宝級の壺を割りそうになり、帝国随一のエリートである僕を物理的に振り回しておきながら。
この無防備な寝顔一つで、全てを許させてしまう。
これが、ヴィータヴェンの女たちの強さか。
これが、姉上が命がけで守り抜いた未来の形か。
「……本当に、可愛い!」
僕は床に寝転がったまま、腕の中の宝物を抱きしめた。
頬ずりしたい衝動を、ギリギリの理性で抑え込む。叔父と姪とはいえ過度なスキンシップはよろしくない。
ああ、早くこの子に見せたい。
僕がこれから作る道を。
大陸を繋ぎ、世界を一つにする、果てしない道を。
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