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第二幕

第26話 揺らぐ自尊心

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 9対-11。点数的には低いが、とにかく勝った。
 織田は少しばかり得意な気分になった。顔をあげると、愛美が「負けちゃった」という表情で苦笑いをしている。

 点数表を書きこんでいた天野が、大げさにため息をついた。
「私は、『合計の点数が多くなるようにしてください』と言ったのです。相手より多くなるように、とは言っていませんよ」

 浮かれた気分が、一気にしぼむ。恥ずかしさで身が縮み、叱られた小学生のように、気まずくなってうつむく。

「ちなみに、これが夕貴と陶子さんの対戦結果です」
 天野が差し出した紙を見ると、二人とも白が五回だった。結果は、25対25。両者とも最高得点を出している。

「相手を信頼してずっと白を出し続ければ、二人とも最高点を出せたのです。はからいなどするから、こんなことになったのです」
 9対-11のスコアを指先でたたきながら、天野が静かに言う。

「今までずっと、こんな風に他人を信じず、相手をおとしいれる考え方で生きてきたのですか?」

 氷の塊で頭を殴られたような気分だ。傷口が妙に冷ややかで、哀しくなってくる。
 確かに今まで、騙されないようにと相手を警戒する言動の方が多かった。それが、昨日言われたように「計算高そう」と思われる原因なのかもしれない。
 織田は、自分の生き方に自信が持てなくなってきた。

「では、これから瞑想をします。じっくりと自分に向き合ってください」
 天野が足早に部屋を出ていく。襖が閉じられる音がぴしゃりと響き、拒絶された気分になる。愛美も同じように、途方に暮れた表情で襖を見ていた。

 気まずさを薄めるように、無言のまま、四人は壁に向かって瞑想を始めた。
 織田は心を空にしようとしたが、どうしても集中できなかった。
 勝負だとは言われなかったのに、自分は相手に勝つことしか考えていなかった。受験戦争、就職戦線と、常に競争の中にあった。争うのが当たり前で、勝たなければ負ける、と思い込んでいた。勝つために、どれだけの人を蹴落としてきたのだろう。

 織田は、情けなさで畳の上を転げ回りたい衝動に駆られた。
 今まで自分が無意識に考え選択してきたことは、きっとずるくて醜いものがほとんどだったに違いない。天野の言うところの「はからい」だ。

 愛美は自分よりも純粋だ。三回目まで白を出した。
 だから、司は愛美が好きなのだ。はからいの少なさ、心のきれいさゆえに。
 そして狡猾な自分は、一段低く見られる。はからいを捨てなければ。考えてもどうせ醜いだけなのなら、いっそ考えなければ。

 ──貴女を愛しています。

 津島の、少し癖のある学者っぽい文字が、脳裏に浮かんだ。
 こんな自分のことを「愛しています」と言ってくれる人がいる。一筋の光明を得た気分になり、織田は落ち着きを取り戻した。

 ──悩むのはあとだ。とにかく、今晩、愛美さんを連れて脱出することに専念しなければ。

 瞑想が終わり、昼食の準備に入る。夕貴から改めて「はからいを捨てるため、作務の動作に集中し、余計なことを考えないように」と注意があった。

 無表情なまま、緩急のない機械的な動作で、食事を作る。座敷に戻ってきた天野を交えて、そばをいただく。気分が沈んでいるせいで食欲がなく、義務感だけで食事を続けた。

 昼食後の休憩時間に、愛美と脱出の打ち合わせをしたかったが、なかなか二人きりになれない。仕方なく、夕方の作務の時間に回すことにした。

 瞑想の前にも、「はからいを捨てること」という指示が天野から出された。
 今晩の脱出シミュレーションをしたかったが、罪悪感を覚えてしまい考え事ができない。かといってじっと座っていても、過去にあった様々な口論や競争の場面が浮かび、自己嫌悪へと引きずられる。

 津島のことを思い出して感情を中和し、なんとか呼吸だけに集中しようとする。はからいはよくない。考えてはいけない。考えない。

 天野が午後の加持を終えたとのことで、瞑想を中断して体温測定が行われた。
 今までは三十六度台前半だった織田の体温は、今回の測定で三十七度を超えていた。といっても、特に体調を崩しているわけではない。

「やっと加持の効果が現れてきたわね」
 表を覗き込んで、夕貴が言う。普通に話しかけてもらえただけなのに、とても嬉しく感じる。

「加持を受けると基礎代謝が活発になるから、体温が上がるの。ほら、陶子さんなんて、妊娠してないのに高温期が二週間以上続いてるでしょ」
 夕貴が陶子の体温表を見せる。

 通常女性の体温は、生理終了後しばらくは低く、排卵日に急激に落ち込んだ後、二週間の高温期が続き、生理が来ると再び体温が下がる。しかし、陶子のグラフは、生理の一週間と排卵日のみがやや低く、他はずっと三十七度前後の高温だった。

「不思議でしょ。でも、これが加持の効果なの。天野先生が、私たちを守ってくださってるのよ」
 体温計は自分で買ってきたものだし、数字に間違いはない。言われてみれば体の調子もいい。

「本当ですね。すごい」
 織田は、素直にそう言った。

 天野は毎日加持を修しているし、女性たちの体温は明らかに高めで安定している。これは事実だ。疑うのは、はからいだ。

 熱中症になってはいけないからと、出された麦茶をみんなで飲む。
 薬草独特の苦みが、口の中に残る。おかわりをしたいのに言い出せないでいると、黄色い法衣姿の天野が現れた。

「みなさん、集まってください」

 結跏趺坐で座る彼の顔が見える位置に、四人が正座をする。静まり返ったところで、天野が口を開いた。

「先ほど、加持をしているときに、大変なことがわかりました」

 険しい表情をし、低い声でゆっくりと、一人ずつを見遣る。
「今日、坂の下にある神社で、おんはら祭があります。知っている人もいますが、私の見立てでは、あそこには魔が棲んでいます」
 夕貴と陶子がうなずく。愛美は驚いたように、周りの反応を確かめている。

「神社に魔がいることは、よくあるのです。禍々しいものを封じるために神社を建てたのに、何も知らない人がありがたがって手を合わせ、願い事をする。最近は神主ですら、御祭神が善神なのか禍神まがつかみ──つまり魔なのか、わかっていない」

 神主である司の顔が浮かぶ。彼は「あの神社に魔はいない」と言っていた。

「神社にいる魔は、参拝者の気を吸い取り、禍々しいものをまき散らします。今日は祭です。恐らく、このあたりの住民の大半が来るでしょう」

 広場にあったやぐらを思い出す。祭のポスターには、「小学生によるおんはら音頭」「地元青年団による和太鼓」などのプログラムが書いてあった。

「魔が、抑えきれないほど強大になっています。このままでは、町の人たちが魔の影響を受けて、病気になったり、犯罪を犯したりしてしまう。何としても阻止しなければなりません」

 天野が力説する。夕貴が、両手を畳について身を乗り出した。
「祭には、子どももたくさん来ます。そんなことになったら大変です。先生の力で、町の人たちを救いましょう!」
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