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第三幕

第38話 芝居のあと

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 やぐらの上に、提灯がともった。

 照明は櫓の後方のテントで操作しているようだ。
 そこから、誰かが法被の男性に会釈をして、こちらへ走ってくる。永井だ。さらに、植え込みの切れ目から谷崎が現れ、合流した。

「社長ー、えらいカッコよかったでっせ!」
 谷崎は、大きめのウエストポーチをし、手に小型スピーカーを持っている。植え込みから聞こえたネコの声は、彼がやったのか、と納得する。照明操作やスピーカーの切り替えは、永井だろう。
 ちゃんと手回ししたうえで仕掛けたのだと、坂口社長の用意周到さと人たらし術に舌を巻く。

「織田ちゃん、無事でよかった!」
 駆け寄って抱きついてくる永井に、織田もしがみつくように腕を回した。
「ありがとうございます! ……みなさん、今日は仕事は?」
 まだ火曜日の夕方だ。忙しく仕事をしている時間なのに。

「今日は昼から、『全員食中毒で臨時休業』だ。おんはら神社の宮司ぐうじや、祭の実行委員に根回しするの、大変だったんだぞ。……さてと、今から帰って仕事をやっつけようか」
 坂口が伸びをする。「今日はもう、勘弁してくださいや」と谷崎が情けない声をあげた。

「オダサクは帰って休め。……よくやった、グッジョブ!」
 坂口が、親指を立てるいつものポーズで恰好をつけ、ニヤリと笑う。織田も同じポーズを返し、笑ってみせた。

「それと」
 うつむいたまま立ち尽くしている陶子の前に、坂口が立つ。
「失礼かとは思ったが、貴女のお母さんに連絡を取らせてもらった。とても心配されて、こちらへ向かっておられる。……しばらく実家に帰りなさい。今は一人でいない方がいい」

 陶子が眉尻を下げ、哀しげな顔をする。坂口が一度うつむき、再び向き直った。

「あのとき、スピーカーから聞こえた旦那さんの声は、結婚式の動画から音源を拝借したものだ」

 陶子が目を見開く。その瞳孔がみるみる収縮していく。
 坂口が袴のまま地面に膝をついて座り、額をつけて土下座をした。

「結果的に、貴女の気持ちを利用した上に、傷つけた。本当に申し訳ない」
「……じゃあ、正泰さんがいるって言ってたのは」

 平伏したまま、坂口が答える。
「信じる信じないは自由だ。……彼は確かにいた。少なくとも、私はそう感じた。貴女を心配していた。一緒に行こうと言っていた映画すら観ていない憔悴ぶりに、心を痛めていた」

 陶子の目に力が戻る。えいが、とその唇が小さく動く。

 そういえば、陶子が語っていた。葬式のあと、一緒に観るはずだった映画の原作本がチェストに置いてあった。本棚にしまっていたはずなのに、と。
 この話は、社長に渡したメモに書いただろうか。思い出せない。

「信じます……ありがとう」

 背筋を伸ばして土下座をし続ける坂口の耳元に、陶子が腰を折って小さく告げる。涙を指でぬぐったその頬に、少し赤みが戻っている。

 頭をあげてください、と言われて坂口が起き直る。ゆっくりと立ち上がったところで何かに気づき、坂口の視線が陶子の後ろに移る。

 織田も視線をやると、離れたところに亜矢がいた。会社を早退してきたのだろう。

「亜矢さん。……いつから」
 さりげなく陶子を隠すように前に進み出て、織田は訊ねた。

「先生が、櫓に上がったあたりかな。植え込みの陰から見てたの」
 口元に作り笑いを浮かべて、亜矢がため息をつく。

「さくらさん、陶子さん、愛美さん。あとで、荷物を取りに庵へ寄ってくれる? 金庫の暗証番号も知ってるから、財布や携帯も返すね」
 返事をしない三人をかわるがわる見て、亜矢が焦った笑い声とともに、両手をせわしなく振った。

「やだ、何もたくらんでないって。……元々、最近の先生のやり方には、同意できない部分もあったの。夕貴があやしげなことしてるのも、薄々気づいてた。でも、先生に言っても、『お前ごときが俺に意見するのか』って叩かれるだけだし」

「じゃあ、亜矢さんも、今の内に自然庵を出ましょう」
 織田の言葉に、亜矢は首を横に振った。
 どうして、と目で問うと、彼女は空を仰いだ。

「どうしてかな。教えを理解できないままなのが気持ち悪いのかもしれないし、今まで出したお金が惜しいのかもしれないし、夕貴に負けたくないのかもしれない。それを確かめるためにも、天野先生が帰ってくるまで、待つ」
 そんな、と織田が言うのと同時に、愛美が声をあげた。

「ダメですよ! 亜矢さんが薄々感じていることが、本当なんです。先生のことを信じたいから、見えないふりをしているだけなんです。ダメな男に引きずられてるときって、自分でわかっていても、ずるずる行っちゃうから。でも、それは断ち切るべきなんです! 絶対!」

 愛美が熱っぽく訴える。亜矢は、それにうなずきながらも、寂しそうに笑った。
「そうよね、ダメ男よね。……わかってるんだけどね、ホント、どうしてかな」

 これ以上の議論を避けるかのように、亜矢が背を向ける。歩き出そうとする亜矢に、織田は呼びかけた。

「待って、亜矢さん。……私、亜矢さんに堂々と生きていて欲しいんです。変なことに巻き込まれて、つらい目に遭って欲しくない。考え直して」

 立ち止まった亜矢が、後ろを向いたまま言う。
「さくらさん。……庵の鍵、開けておくから、あとで来てね。たぶん警察も来るだろうから、早めに」
 そのまま、足早に去っていこうとする。

咲耶さくやです」
 織田が言うと、亜矢が振り向いた。
「名前。本当は、さくらじゃなくて、咲耶なんです」

 亜矢に対して、偽りの名前のままでいたくなかった。しばらくして、彼女がくすりと笑った。
「……こんな形で出会わなければ、仲良くなれたかもしれないのにね。咲耶さん」

 呼び止める言葉を思いつかないまま、亜矢が凛とした姿勢を保ちながら会場を出ていくのを見送る。

 スピーカーから流れてきた祭囃子が、沈黙を破った。

 いつの間にやってきたのか、櫓を囲むように子どもたちの輪が、その外側に大人たちの輪が出来あがっていく。浴衣の者、法被の者、制服姿の子ども、普段着の人たち、みんなが水色地に白で「祓」と書かれたうちわを持って、演奏に合わせておんはら音頭を踊り出す。

「厄祓いだ。全員踊るぞ!」

 坂口が、ファルスの面々を踊りの輪へと追いやる。愛美と司が「気持ちのものですから」と、陶子を促す。

「オダサク、お前がいちばん踊らなきゃいかん。ほら、とっとと行った!」

 社長に背中を押され、織田は人々の流れに混ざり、見よう見まねで踊った。
 何度目かのループのあと、音楽が終わった。会場のいたるところで、拍手やざわめきがうねる。
 周りの高揚感につられて、織田は少しだけ笑顔になった。昨日からのもやもやしたものが、汗と一緒に少しだけ流れていった気がする。

「やはり言っておかねばと思うのですが」

 耳元の声に振り向くと、いつの間にか津島がいた。周囲のざわめきでよく聞きとれない。織田は、「はい?」と言って耳を近づけた。

「手紙、読みましたね」

 なぜわかったのだろう。態度に出てしまっていたかも。誤魔化そうと思うのに、耳まで熱くなるのがわかる。これでは丸わかりだ。

「あの中身ですが」

 津島が、やや声を張り上げる。
「貴方を愛しています」という癖のある青インクの文字を思い出す。とたんに心臓が高鳴り、ただでさえ聞こえにくいというのに、聴覚を邪魔する。
 織田は神経を集中させて、次の言葉を待った。

「あれは、ストックホルム症候群を防ぐための方便です。が……」

 織田の中で、すべての音が消えた。

 考えるより先に、手が出てしまった。
 横面を平手打ちされた津島の長い髪が、ふわりと浮いて顔を隠す。

 パァン、という威勢のいい音が、エコーでもかけたように響き渡った。
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