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終幕

第39話 そして現実は続く

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「谷崎さん、今、原稿データを共有フォルダへ入れました。よろしくお願いします」
 織田は席を立ち、机の裏の通路向こう、制作部の島へ行って、声をかけた。
 作業をしていた谷崎が、イヤホンを取って振り返る。デザイン部のみ、作業中に音楽を聴いてもいいことになっているのだ。

「明日でええのに、早いな。あっちの仕事も並行してやってるんやろ?」
 あっちの仕事とは、自然庵じねんあん潜入ルポのことだ。

 あの対決劇のあと、織田は自然庵や天野の実態を暴く記事を書き、坂口社長が週刊誌に売り込んだ。

 SNSで女性の悩み相談に乗り、信頼されたところで自然庵に来させ、魔が憑いていると脅して軟禁。幻覚成分の入ったお茶などで恐怖心をあおるエセ僧侶。
 町内では、病人に無理やり加持を勧め、「薬を飲むな、病院にも行くな」と強要する鼻つまみ者。
 庵で共同生活をしていたのは、若い女性たちばかり。中には、生活資金を喜捨したり、妄信して詐欺の肩棒を担いだりする女性も。

 天野が監禁罪・脅迫罪などで逮捕されたことも相まって、記事は反響を呼んだ。
 週刊誌だけでなく、ネット上も天野の話題でもちきりとなり、掲示板に「ハーレム坊主」のスレが立ったり、「インチキエロ坊主演説中w」と題された祭の夜の写真がリツイートで広まったりした。

 女性たちとの共同生活を始めた経緯について、天野が「敬愛法きょうあいほうを修したら、女性たちから次々と好意を持たれ、一緒に暮らしたいと言われた」と取り調べで話したため、密教修法がちょっとしたブームになったりもした。

「お手伝い」と称した房中術のことは、亜矢や夕貴の今後のため、表には出さず織田の胸にしまっておいた。

 天野が用いたであろう超常現象のトリックを暴く記事も、ファルスの面々に検証してもらいながら書いた。

 加持を受ければ体温が上昇するというのは、暗示を与えれば不可能ではない。基礎体温は朝一番が最も低く、食後であり活動時間である二時前後に体温が高くなるのは当たり前のことだ。

 愛美が見たという人魂状のものは、綿百パーセントの布を糸で縛り、ライターのオイルを滲みこませて火をつければ、再現できる。
 そして、加持中の炎の龍や、魔とされる黒い靄は、お茶や煙に仕込んであった乾燥サボテンやキノコによって引き出された幻覚と推測される。

「トリックは単純なほど、嘘は大きいほど、引っかかりやすいのですよ」

 津島に言われた台詞を、織田はそのまま記事に流用し、似たような手口に引っかからないよう警鐘を鳴らした。

 潜入から二週間が経ち、警察から事情を訊かれて穏やかでない日々を送っていた織田も、ようやく落ち着きつつある。縛られた時の手首の痣も、ようやく消えた。
 すっかり立ち直った愛美は、司と一緒にお礼のあいさつにやってきて、仲の良さを見せつけてくれた。例のダメ彼氏とは別れたようだ。

「もちろん、自然庵の記事の方もバッチリですよ」
 織田は谷崎に、親指を立ててウインクしてみせた。
「織田ちゃん、最近、仕事に燃えてるじゃん」
 永井がイヤホンを取り、声をかけてくる。

「はい。あの潜入ルポで、ペンの力ってのを感じることができましたし。……次は、子ども向けのお釈迦様の話を手掛けたいんで、企画書を作ってるんです。今の日本人は、宗教を胡散臭いものと敬遠しすぎて、基本的な知識がないから、簡単にインチキに引っかかっちゃうんだと思います。せめて基礎だけでも知っていれば、ああいう被害者を出さずにすむかな、と。……さて、もう一仕事してきます!」

 天野のことをインチキだと看破できなかったのは、自分も同じだ。

 司や社長がいるから、神社とお寺の違いくらいはわかるが、実家が何宗の檀家なのか、その宗派の教義は何か、まったく知らなかったし興味も持たなかった。
 せめて仏教の基本的な教義だけでも知っていれば、天野の理論のおかしさに気づけていたのに。
 その反省を、織田は自分以外の人にも伝え、活かして欲しいと思う。

 机の隅に置いてある携帯電話を確認する。誰からも連絡はない。
 ──陶子さん、どうしてるだろう。亜矢さんも。

 織田は携帯電話を手に取った。あれから、陶子には毎日のようにメールを送っている。最初は、他人行儀なお礼の返信があったが、最近はそれすら送られてこない。SNSのアカウントは削除されていた。

 亜矢からも、やはり連絡はない。
 祭の夜、荷物を取りに行った際にもう一度彼女を説得し、こちらの連絡先を教えた。力になれることがあったら、と。
 しかし、天野の逮捕や自然庵の記事のせいで、恐らく亜矢は会社に居づらくなってしまっただろう。力になるどころか、彼女を追いつめることになってしまった。

 テレビのニュースには、亜矢は出なかったが、夕貴は何度か登場していた。彼女も逮捕され、拘置所に入っているという。

 夕貴は元いじめられっ子で、家族仲も悪く居場所がなかった、という話を思い出す。だから、天野のそばに存在意義を見出してしまったのだろうか。
 亜矢も、父親との確執と歪んだ愛情の代償行為として天野が必要だった、と受け取れる。

 女性たちの抱える愛情への渇望が利用されてしまったのが、今回の事件の背景ではないだろうか。

「なーにシリアスな顔してんだ」
 廊下から坂口がやってくる。
「あ、社長、お疲れさまです」

「知り合いの記者から聞いたんだが、亜矢って子、急遽シドニー支店に転勤したらしいぞ」
 え、と声を漏らして、織田は机の横に立つ坂口を見上げた。たぶん、スキャンダルを恐れた会社が、彼女を国外へ隠したのだろう。

「彼女のためにはよかったのかもしれん。自然庵の件を知らない人たちの中で、一からやり直せる。天野は起訴されるが、たぶん執行猶予がつく。手の届かない外国へ行ってしまえば、また搾取されずに済む。向こうにいれば、洗脳も解けるだろう」

 プライドの高そうな亜矢が、世間の好奇の目にさらされながら日本で仕事をするのは忍びない。それに、もう自然庵には戻って欲しくない。
 転勤を受け入れたということは、彼女自身にも思うところがあったのだろう。

「そうですか。亜矢さん、向こうで幸せになって欲しい」
 何をもって幸せというのかはわからないが、心穏やかに過ごして欲しい。仕事に手ごたえを感じ、周りの人たちとよい関係を築き、できれば天野につけこまれてしまった心の穴も改善できれば、と思う。
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