鬼神百鬼

咲 カヲル

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7話

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それから、時雨は、同時通信を保留にして、紅華に、ずっと通信をしていたが繋がらなかった。
何回も何回も、繰り返し通信を入れるが、聞こえるのは、無機質な機械音だけだった。
焦る時雨の耳に、ガラスを叩く音が聞こえ、一騎が微笑んでいて、急いで車から降りた。

「紅華さんは!?」

一騎は首を振った。
時雨が、倉庫に向かおうとすると、一騎が、その腕を掴んだ。

「何処に行く」

「彼女を…紅華さんを探します」

「何も分からないのに、何処を探すんだ」

「声が反響していました。それを頼りに探します」

「それじゃ時間がかかる」

「それでも…」

「少し落ち着け!!」

怒鳴られても、時雨が、一騎を睨んでいた時、S部隊とA部隊が、同時に、到着したようで、笹谷だけが、車にもたれ掛かり、それ以外は、二人に近付きながら、猪狩野が声を掛けた。

「どうしたの?」

時雨は、一騎の腕を振り払って、視線を落とし、一騎は、全員に振り返り、詳細を説明した。

「これからどうする?」

「一旦、本部に戻るか」

「黒ちゃんは探さないの?」

「今は、任務を優先した方がいいだろ」

「大丈夫なのか?」

「局長なら、何とかするだろ」

「確かに、いつも何とかしてるからな」

「仕方ないねぇ」

「では、僕たちは、本部に戻り、両部隊は、任務のぞ…」

「なんで…」

それまで、会話に加わろうとしなかった時雨が、声を発すると、全員が顔を向けた。

「なんで…そうやって、彼女は何でも出来るみたいに、言うんですか」

全員が顔を見合わせた。

「だって、アイツはそうだろ?」

「黒ちゃんは、いつも、そうやって一人で…」

「違う!!」

時雨が怒鳴ると、そこにいた全員が、固まったように、動きを止めた。

「淋しがり屋で、子供っぽくて、他人の事ばかりで…でも、彼女は、皆が、そう言ってるのを知ってたから、必死に、強がって、一人でやろうとしてただけだ。彼女が、何でも出来るんじゃない。彼女に、何でもやらせようとしてるだけじゃないか」

時雨が顔を上げ、冷たい視線を向けると、一騎は、うつ向き、目を閉じてから、顔を上げながら、その場の全員に視線を向けた。

「両部隊は、この場で待機」

「いっちゃんたちは?」

「僕らは、紅華の捜索をします」

時雨が目を開き、軋音たちは、微笑んで、砲井と月影は、互いに顔を見て頷き合い、全員が、車に戻って行った。
振り返り、ニッコリ笑った一騎に、時雨が微笑み、二人は、紅華の捜索を始めた。
コンクリートの床と壁。
起きようと、体を動かすと、全身に痛みが走る。
さっき落ちた時の痛みに、顔を歪めながら、起き上がり、頭に手を当てる。
倉庫の裏口から出ると、急に、床が抜け落ちたように、足場が無くなり、紅華は、そのまま、真っ暗闇の穴に落ちた。
紅華が、居場所を確かめようと、目を凝らし、周りを見ようとすると、後ろから声が聞こえた。

「お目覚めかい?お嬢ちゃん」

その声に振り返ると、そこには、國達が、逆光の中に立っていた。
紅華は、喋ろうとしたが、上手く喋れない。
どうやら、口の中を切ったようで、唾液と血液が混ざり、舌が上手く動かない。

「ここが、何処だか、知りたいかい?」

靴音を鳴らしながら近付く國達は、紅華の目の前に屈んで、ねっとりとした笑いを浮かべた。

「俺の秘密基地だよ」

國達を睨んでいる紅華の顔を見た。

「驚いたな。まさか、安部に、女がいたなんて、思ってなかったよ。しかし、お前、可愛いな。俺のペットにならねぇか?」

奥歯を噛み締め、顔面を目掛けて、手を振り上げたが、避けられ変わりに、國達に、頬を殴られ、紅華は、コンクリートの床に頭をぶつけた。

「お前さ。自分の立場が、分かってんのかぁ?」

睨み付ける紅華の瞳を見て、國達は、ニヤリと笑った。

〈ガシャンガシャン〉

鎖のような、鉄同士がぶつかり合う音が聞こえ、國達は、立ち上がり、紅華に背を向け、また光が見える方へと歩き出した。

「後で、返事を聞かせてもらうよ」

紅華は、一気に走り、國達を捕まえようと、手を伸ばすが、目の前で、鉄製のドアが閉まった。
ドアに付いている小窓の鉄格子を持ち、外を睨むと、國達が、壁のボタンを押した。
紅華が全身を使って、ドアを揺らしたが、空しく、音が響くだけで、ビクともしない。
口の中の血と唾液を吐き捨て、ドアを蹴り飛ばそうと、後ろに下がると、紅華は、急いで袖で鼻と口を覆った。
全身から力が抜け、立っているが辛く、ドアに手を着いて、小窓の外を見ると、國達がニヤリと笑った。

「いい子にしてんだな」

國達は、靴音を鳴らして、去って行き、紅華は、腕に巻いてある通信機に触れたが、反応しない。
壊れてしまったようで、画面は、真っ暗になっている。
何か無いかと、周囲を探そうと、フラフラする紅華の足に、柔らかい物がぶつかり、目の部分に、包帯が巻かれた女性がいた。
右足の膝から下、左足は、股の付け根から、更には、左手、右腕がない。
目が慣れ、紅華は、既に死んでいる女性に近付き、目元の包帯をずらし確認すると、それは時島だった。
片目が失われ、もう片目だけで見つめ、今にも、悲鳴をあげそうな顔に、紅華は、口元を覆うのを忘れてしまい、部屋に充満する匂いを嗅いでしまった。
頭が、クラクラし始めた紅華は、部屋中を見渡し、高い位置にある換気口に近付いた。
それを見上げ、壁をよじ登ろうともしたが、力が入らず、紅華は、その場に座り込んでしまい、そのまま、壁を引っ掻きながら倒れ、意識を手放した。
頬を強く叩かれ、目を開けると、目の前に、國達の顔があった。

「やっと、目ぇ覚ましたか」

膝立ちのような格好で、両手を鎖で、壁に繋がれた状態で、紅華は目を開けた。

「さて。返事を聞こうか?」

「…ざけ…ん…な…ゲス…」

紅華が睨みながら、悪態を吐くと、國達に、頬を叩かれる。
それでも、睨む紅華の目を見て、國達は、またニヤリと笑い、顎を掴んだ。

「アンタの目、好きだわ」

「さ…わるな…」

國達の拳が、腹部にめり込み、噎せながら、咳き込んだ紅華の両頬を平手打ちした。
立ち上がり、少し離れた所に置かれたソファに座ると、向かい合うような形になった。
國達が、肘掛に置かれていたボタンを押すと、紅華の体に電流が走った。
苦しみながらも、睨んでいると、今度は、違うボタンが押され、電流が止まり、顔を歪めて、紅華は、下を向いた。
それを見て、舌舐めずりをする國達。
下品な國達を見て、鳥肌が立つと、紅華の腕に繋がれた鎖が、小さな音をさせた。
空しい音を発てる鎖を引きちぎろうと、腕に力を入れようとしたが、音が大きくなるだけで、ビクともしなかった。

「無駄だ」

國達に視線を向けると、指差した方に、火は消えてるようだが、お香のような物があった。

「薬と同じように、全身の力を奪う効果があるんだ。アンタは、これを長時間嗅いだ事で、完全に、力が失われてる状態なんだよ」

國達は、また紅華に近付いて、顎を掴んで、自分の方に向かせた。

「俺のペットになれよ」

「…やだ…ね…」

紅華は、顎を抜き取り、蹴り上げようと、足を上げたが、空振りしてしまった。
鎖の音をさせながら、コロンと転がった紅華を見て、國達は、お香が乗っている引き出しから、注射器に、何か薬のような物を入れ、紅華の元に戻った。
体を必死に動かし、抵抗したが、掴まれた紅華の腕に針が刺され、中身が、血管の中に流し込まれた。
國達は、中身を入れきると注射器を抜き取り、ゴミ箱に放り投げ、またソファに座って、紅華を見つめた。

「な…に…した…」

ニヤリと笑い、國達が答えた。

「すぐに分かる」

睨む紅華の心臓が、ドクンと変な音をさせ、体が熱くなり始めた。
目を開き、下を向いて、耐えようとしたが、どんどん高くなっていく体温に、呼吸が荒くなる。
熱を逃がそうと、口で、息をしてみるが、視界が歪む。
苦しむ紅華に、ニヤニヤと笑いながら、近付いて、國達が顔を覗き込む。

「俺のペットになれよ」 

紅華は、口を閉じてから、歯を剥き出しにして、下から國達を睨んだ。

「だ…れが…おま…えなん…かに…」

國達は、まだニヤニヤと笑いながら、紅華の肩を強く掴むと、その痛みは、さっきまでの痛みが比じゃない程、強く感じる。
声を上げそうになり、一瞬、目を閉じて耐え、顔を歪ませながらも、紅華は、國達を睨み付けた。
國達は、肩から手を離し、腕を振り下ろし、平手打ちをされると、頭の中にまで痛みが響く。

「っぐ!!」

短い呻き声を漏らし、歯を食い縛ったまま、痛みを耐え、紅華が睨むと、國達から、薄気味悪い笑いが消えた。
無表情のまま、背を向け、ソファに近付き、その後ろから、ナイフを取り出した。

「もういいや。でも、お前の目は貰うよ」

ナイフを逆手に持ち、振り下ろした瞬間、國達の手から、ナイフが弾き飛んだ。
國達の手から血が流れ、傷口を押さえ、聞き慣れた声が聞こえた。

「彼女を返してもらいます」

サイレンサーを付けた拳銃を構えたまま、部屋に入って来るのを見て、國達が、両手を上げ、後ろに後退りすると、時雨は、一気に、紅華に駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

顔を上げ、目の前に、時雨の顔があり、紅華が微笑むと、時雨も、安心したように微笑んだ。
その後ろに、國達が、ナイフを逆手に持ち、振り上げているのが、見えた紅華は、目を開き、叫ぼうとしたが、國達は、更に、後ろに吹き飛ばされた。

「お待たせ」

國達の前で、一騎が、二丁の拳銃を構え、二人が入って来たドアの方から、足音が響き、軋音たちが、紅華の姿を見てから、國達に視線を向けた。

「…ずして」

小さく震える肩を抱き寄せた時雨の耳元で掠れ掠れに、紅華は、途切れ途切れに呟いた。

「鎖…外し…て」

時雨が、腰に着けている鞘から、刀を抜いて、鎖を断ち切ると、紅華は、両手を床に着いて、座り込むような姿勢になり、また口で息をした。

「本当に、大丈夫ですか?」

時雨に、優しく、支えられながら、紅華は、その肩に、そっと、手を置くと、國達を睨んだ。

「現状…報告」

弱々しくも、ハッキリと紅華の声が聞こえ、砲井が答えた。

「A部隊。時島の遺体確認済みです」

次に軋音が告げた。

「S部隊。湖之枝と思われる遺体を発見。現在、確認中です」

紅華は、顔を上げ、前を見る。

「SS部隊。國達を確認。現在、牽制中です」

一騎と視線を交わして、紅華は、ニッコリ笑って、時雨の肩を借りながらも、立ち上がった。

「國達…知波留の…刑務執行を…行う」

息が絶え絶えでも、紅華は、一歩ずつ國達に近付いた。

「その前に…手に持ってる…私の相棒を…返してもらおうか」

國達が、出入口に向かい発砲すると、入口付近にいた軋音たちは、二手に分かれるようにして、外に出た。
壁に張り付き、一騎は、お香が置かれていた引き出しの陰に隠れ、時雨は、ふらつく紅華を抱え、入口付近まで走り、開け放たれていたドアの陰に隠れ、國達を見ていた。

「私のもう一つの相棒は?」

紅華に聞かれ、時雨は、國達を見たまま答えた。

「確か、一騎さんの指示で、S部隊の誰かが持って来ていたと思います」

紅華が、自分の横の壁を殴ると、部屋の中に、大鎌が投げ込まれた。
紅華は、顔を歪めながらも、走り出した。
銃口を向ける國達に、時雨と一騎が発砲する。
國達が、二人の発砲に怯んで、ソファの後ろに隠れようと走ったが、紅華は、大鎌を拾って、國達に向かった。
振り返りながら、國達が、銃口を向けたのと同時に、大鎌が振り抜かれ、拳銃は、二つに分かれ、國達の首が、床に転がった。
しばらくの静寂が流れ、一騎と時雨が、陰から出てくると、猪狩野が入口で顔を出した。

「終わった?」

近くにいた時雨が、それに答えた。

「はい。全て終わりました」

隠れていた全員と一緒に、時雨が、紅華の元に向かってる間に、一騎は、國達の遺体を確認していた。

「任務完了」

一騎が、立ち上がりならが、安心したように微笑むと、紅華は、膝から崩れ落ちそうになり、駆け寄った時雨に、支えられながら、その場に座り込んだ。

「紅華さん」

時雨が、寄り添うように、顔を近づけて、声を掛けると、紅華は、下を向いたまま、ポツリと呟いた。

「ごめん…ね」

紅華は、時雨に向かい、ニッコリ笑って見せようとした。

「もう、大丈夫」

虚ろな瞳を細め、微笑んでいるようにも見えるが、その体は、微かに震えていた。
目を細めて、苦しそうな顔をした時雨が、紅華を抱き寄せると、誰もが、驚いていたが、一番、驚いていたのは、紅華だった。

「し…ぐれ?」

腕の中で、紅華は、もがこうとした。

「我慢しないで下さい」

紅華は、目を開き、動きを止めた。

「怖いなら怖いと言って下さい。辛いなら辛いと言って下さい。泣きたいなら泣いて下さい。僕たちが、ちゃんと受け止めますから」

紅華の瞳が揺れると、目元に、一気に涙が溢れ、その頬を零れ落ちた。
溢れ出る涙に、今になって、恐怖で、声が出そうになるが、紅華は、歯を食いしばり、時雨の肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。
泣き止むまで、時雨は、ゆっくり、優しく、髪を撫でながら、時折、頭に頬擦りをした。
小さな子供をあやすような姿を一騎や軋音たちは、暖かく見守っていた。
紅華が泣き止んでから、車に戻り、二人を後部座席に座らせ、運転席に座った一騎が、三神に通信を入れ、報告をした。

『戻り次第、統括室に来なさい』

通信が切られ、一騎は、大きなため息をつき、いつもとは違い、静かに運転した。
本部に着いて、すぐに総括室に行くと、三人は、三神に、こっぴどく叱られた。
紅華に関しては、拳銃の破壊、通信機及び、制服の破損、マスクの紛失も、追加で怒られた。
立っているのも辛い状態の紅華には、とても厳しく、キツかったようで、三神の声が止まると、座り込んでしまった。
そんな紅華を見て、時雨は、急いで抱えると、診療室に向かって走り去った。
取り残された一騎と三神は、視線を合わせて苦笑いをした。

「何やってんだか。しばらく寝てろ」

点滴が始まり、ベットの横の椅子に座る時雨の後ろに、カーテンが引かれていた。
だが、その会話は、丸聞こえで、さっきから、育成所の生徒たちは、渓矢に、紅華の事を聞いているだけで、本当に、具合が悪くて来るような人がいなかった。
しばらくして、生徒たちが少なくなり始めた頃、点滴が終わり、渓矢は、また診療室に戻って行った。
カーテンを捲って、入って来たのは、一騎と碧井、それと軋音たちS部隊だった。

「どう?」

「さっき、点滴が終わりました。あとは、目が覚めるまで安静だそうです」

一騎を見上げ、時雨が答えると、時雨の肩に、碧井が、手を置いて、見下ろすように微笑んだ。

「大丈夫。紅華は、こんな事じゃくたばらないよ」

碧井の後ろで、軋音たちが、慌てていると、時雨は、紅華に視線を戻した。

「はい」

その様子に驚いた軋音が、一騎に近付いて小声で聞いた。

「なんで怒らねぇの?」

一騎も小声で答えた。

「状況が違うから。それに、時雨は、拓都の言う事は、素直に聞くんだ」

「それは、拓都さんが、ちゃんと、紅華さんを見ていたからです」

小声で話していた一騎たちに、時雨が答えると猪狩野が聞いた。

「どうゆう事?」

時雨は、紅華の顔を見つめたまま答えた。

「前に、彼女からマサムネに来いと言われた時、拓都さんと一緒に行ったんです」

その道中で、碧井は、自分が見てきた紅華の姿を話した。

「僕も、肉親を犯罪者に因って、殺されたので、同じように考えた事があります」

相手を忘れられれば、どんなに楽だろうか。
相手に嫌われてしまえば、楽になるのに。

「でも、僕には、それを否定してくれた人がいました」

相手を忘れる事は、その人を殺す事と同じだ。忘れるくらいなら、その人を胸の中で、ずっと生かしてやれ。

「そう言われてから、僕は、忘れる事を辞めました」

亡くなった妹をずっと、自分の中で生かしてあげよう。
そう決めた時雨は、妹の好きだった音楽や物を身近に置いた。

「それを拓都さんに話したら、彼女にも、同じようにしてくれる人がいれば、よかったのに。自分は、年下だから、そんな事は、言ってやれないけど、やれる事は、やってやりたい。それって、凄い事じゃないですか?年上であっても、否定出来ない人であっても、彼女をちゃんと見てるのは、この人だと分かったからです」

一騎や軋音たちは、哀しそうな顔をして、視線を反らした。

「黒田が、素直になれないんじゃなくて、俺らが、それを拒んでたんだな」

時雨は、首を振った。

「今までよりも、これからを変えればいいんです」

その会話をカーテンの向こう側で、渓矢、三神、伊野が、黙って聞いていたが、三神と伊野は、黙ったまま診療室を出て行った。
目を覚ますと、時雨の心配そうな顔が見え、手を伸ばし、その頬に触れようとしたが、腕が上がらなかった。

「時雨?」

「はい」

「…渓矢先生は?」

「呼んで来ます」

時雨が、カーテンを捲って呼ぶと、すぐに渓矢が来た。

「大丈夫か?」

コクンと頷くと、体温計を紅華の脇に挟み、渓矢は脈を計った。

「あまり無理はするなよ」

「はぁい」

〈ピーピー〉

渓矢に体温計を返して、起き上がって、ベットの上に座った。

「もう大丈夫でしょうか?」

「黒田の回復力を侮っちゃイカンよ?もう大丈夫だ」

時雨は、その場に膝を抱えて、座り込んだ。

「時雨!?」

ベットの上に、四つ這いになって、見下ろすと、時雨が呟いた。

「よかった」

紅華は、そのままの体制で、時雨に微笑んだ。

「ごめんね?でも、嬉しかったよ」

時雨が見上げると、電気の光を背に浴びながら、紅華は、うつ伏せになり、ベットに頬杖を着いて、微笑んでいた。

「有り難う」

ニッコリ笑う紅華に、時雨も、小さな微笑みを返した。

「んっんー!!あ~。君たち。そうゆう事は、部屋に帰ってからにしなさい」

すっかり、渓矢の存在を忘れ、二人は、頬を赤くして診療室を出た。
ドアが閉まり、姿が消えても、渓矢は、ずっと、ドアを見つめていた。

「忘れる事は殺す事…か」

渓矢は、息を吐き出して、椅子に座ると仕事を始めた。
それから、二人が揃って、情報課に行くと、一騎と碧井が、二人に気付いて声を掛けた。

「もう大丈夫なのか?」

「うぃっす。心配した?」

いつものように、ふざけた紅華に、二人は、少し怒ったような顔付きになった。

「当たり前だ」

「それしか出来ないんだから、そんな言い方すんなよ」

驚いて、二人の表情を見つめた紅華は、下を向いて、申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんなさい」

二人は、満足したように微笑み、自分の仕事に戻ると、ドアの前に、唖然として立っていた紅華の背中に、時雨が触れ、振り返ると、そこには、優しい微笑みがあった。

「早く終わらせないと、帰れねぇぞぉ」

紅華は、残りの仕事に、時雨は、報告書の作成に取り掛かった。
一騎が、ほとんどの仕事を終わらせていた為、紅華は、判を捺すだけの仕事しかなく、早く終わらせる事が出来た。
一旦、全員が部屋に戻り、支度をしてから、揃って、時雨の車に乗り込んで、昨日と同じ、一騎の両親の店に向かった。
店に着くと、一騎の父親が、カウンターの中で笑った。

「いらっしゃい」

紅華の後ろで、時雨と並んで入った碧井を見て、一騎の母親が、微笑んだ。

「今日は、拓君も一緒なのね」

碧井も、微笑みを返して答えた。

「ご無沙汰してます」

次に、一騎の母親は、時雨を見た。

「おかえり」

首を傾げる時雨の耳元で、一騎が囁いた。

「そこは、ただいまって、言ってやって」

微笑んでいる一騎を見上げてから、両親に向き直り、時雨は、頬を少し赤らめた。

「た…ただいま…です」

紅華が笑っていると、頬を薄ピンク色に染めた時雨の横をすり抜けるようにして、一騎と碧井が、微笑んで、少し先を歩き、その後に続くように、紅華と時雨も、昨日と同じ部屋に向かった。
少し先を歩いてた一騎が、カーテンを捲ると、中から声が聞こえた。

「よっ」

「お疲れ~」

そこには、軋音が片手を上げ、猪狩野は、小さく手を振り、革伊がテーブルの上で腕組みするS部隊の三人が、こちらを見て座っていた。

「アンタら…なんでいんの?」

「シグちゃんに聞いたら、いいって言われたから、来たんだよ?」

テーブルに、頬杖を着いた猪狩野が答えると、紅華は、時雨を睨むが、何食わぬ顔をして、紅華の横をすり抜け、座敷に上がった。
端に座る革伊の隣に、時雨が座り、一騎と碧井は、苦笑いしながら、軋音と猪狩野を挟んで、両脇に座った。

「座らないんですか?」

「芯哉!!そこ私の席!!」

「え?エ?何?なに?なんで、そんな怒ってんの??」

「いいからどけて!!」

「僕の隣は嫌ですか?」

時雨が、顔を赤くして、大声を出してた紅華を見上げる。
その頬が更に赤くなり、紅華は、ムッとしたまま、時雨の隣に座った。
紅華の隣で、微笑んでいる時雨に、メニューが差し出された。

「何頼むんだ?」

その向かいで、軋音に、体を寄せた猪狩野が、一騎に向かって聞いた。

「オススメとかないの?」

「好きなの選べばいい」

「え~。いっちゃんの意地悪。君は?」

そう言って、軋音から体を離した猪狩野が、隣に座る碧井に聞くと、メニューを開いて指差した。

「俺は、トマトサラダですかね」

「そっか。有り難う。え~っと~」

名前を知らない猪狩野に、碧井は自己紹介した。

「碧井拓都です」

「じゃぁ、拓ちゃんの一口もらっていい?」

初対面なのに、ちゃん付けで呼ばれ、苦笑いしながら、碧井は答えた。

「いいですよ」

「革伊は、どれにする?」

メニューを開いて、軋音が聞くと、革伊は、考えてから答えた。

「茶漬けにでもしようかな。藤堂は決まったか?」

「はい」

メニューを持ったまま、答えた時雨に、軋音が聞いた。

「なに?」

「鮭の塩焼き、筑前煮、ホウレン草の胡麻和え、生海苔の味噌汁、発芽玄米のおにぎり、緑茶です」

驚いた猪狩野が、メニューを開いたまま、向かいの時雨に聞いた。

「シグちゃんって、痩せの大食い?」

「いえ」

否定した時雨の変わりに、碧井が答えた。

「時雨君は、未成年だから、まだ飲めないんですよ。だから、これが夕食変わりなんです。ね?」

「はい」

碧井が同意を求めると、時雨は、素直に頷いた。

「いつも、こんな感じなのか?」

「一昨日は、そんなんでもなかったですかね」

首を傾げる軋音に、碧井が答えると、一騎と紅華の肩が、微かにビクッと動いた。

「なんで?」

「一昨日は、色々あったんです」

猪狩野が聞くと、濁すように答えた時雨に、二人が、ホッとしたように、胸を撫で下ろしたのに、軋音が気付いた。

「色々ねぇ。昨日は、どうした?」

「昨日は、紅華さんと一緒にちゃんと食べました」

時雨が横を見ると、ぶっ垂れながら、一騎の母親に注文していた。

「お二人は?」

一騎の母親が、軋音と猪狩野に向かって聞くと、顔を見合わせてから、一騎の母親を見ながら、猪狩野が聞いた。

「全員分じゃないの?」

紅華が答えた。

「アンタらのは知らん」

一瞬の沈黙が流れ、軋音と猪狩野が、声を揃えて大声を出した。

「はぁ~~~!?」

一騎と碧井が苦笑いし、時雨は、キョトンとして二人を見た。

「なんで、お前らだけ頼んでんだよ!!」

「そうだよ!!まだ決まってないから!!」

紅華に向かって、二人が文句を言う。

「二人が遅いんだろう」

そんな革伊に、軋音が、また文句を返した。

「てめぇ!何ちゃっかり頼んでんだよ!!」

「黒田が勝手に頼んだだけだ」

「梅ワサビにしたから」

紅華に、革伊は、頷いて、手を肩まで上げた。

「マジかよぉ。お前何頼んだ?」

軋音が隣に座る一騎に聞いた。

「いつもの」

一騎の変わりに、紅華が答え、猪狩野も同じように、碧井に聞いた。

「拓ちゃんは!?」

「いつもの」

それにも、すぐに紅華が答え、猪狩野は、泣きそうな顔をした。

「黒ちゃん酷いよぉ~」

「早く頼んだら?」

紅華は、話を全く聞かず、二人は、ずっと待っている一騎の母親を見て、急いで選ぼうとしたが、決められず、結局は、軋音は一騎と、猪狩野は碧井と同じのを頼んだ。

「てか、いつものって何?」

「炒飯、ワンタンスープ、餃子」

軋音が一騎に聞くと、変わりに、紅華が答え、また同じように、猪狩野が碧井に聞いた。

「拓ちゃんのは?」

「ナポリタン、トマトサラダ、キャベツとベーコンのトマトスープ」

変わりに答える紅華の言葉に、一騎が付け加えた。

「飲み物は、紅華が梅酒。拓都が焼酎。俺がライムサワー」

軋音と猪狩野が、驚きながらも、納得したように頷いていた。

「黒田は、なんで、藤堂だけ誘ったりするんだ?」

革伊の急な問いかけに、隣に座る時雨を見上げて、紅華は、首を左右に傾げて答えた。

「わっかんない」

曖昧に笑う紅華に、猪狩野がお返しを仕掛けた。

「そりゃ~、ラヴだからでしょ~」

時雨と紅華の頬が、ほんのり、薄ピンク色に染まると、軋音も、ニヤリと笑った。

「だろうな~。あん時の時雨は、凄かったもんな~」

頬を薄ピンク色に染め、時雨が反論した。

「あれは、つい言ってしまっただけで、別に、そんな事はないです」

反論した時雨を見て、軋音たちが、笑っていると、紅華が聞いた。

「あん時って?」

「それがねぇ。黒ちゃんがいなくなった時に…」

「猪狩野さん!!」

猪狩野に向かって、言葉の続きを大声で遮る時雨の隣で、革伊が呟いた。

「激怒されたんだ」

革伊に振り向いて、時雨が、顔を真っ赤にしていると、一騎の両親が入って来た。

「お待たせ。飲み物ね。はい。緑茶」

頼んだ料理をテーブルいっぱいに置くと、顔が赤くなった時雨を見て、一騎の父親が首を傾げた。

「どうした?」

「いえ。何でもありません」

うつ向いて、大人しくなった時雨を見て、皆が微笑むと、その日は、軋音と猪狩野のせいで、ドンチャン騒ぎになっていて、気付けば、日付が変わっていた。
その後、時雨は、二回に分けて、車を走らせ、部屋に戻ると、ベットに倒れ込んで、そのまま深い眠りに落ちた。
時雨が目を覚ましたのは、十時頃だった。
急いで、制服に着替えようとしたが、この日は、非番なのを思い出した。
その手を止め、ベットに寝転んで、また、寝ようとしたが、突然、サイドチェストの上で、携帯が鳴り響いた。
気だるそうに起き上がり、携帯を持って、液晶を確認せず、ボタンを押した。

「もしもし」

『おはよ。まだ寝てた?』

「いえ。大丈夫です」

『何が大丈夫か分かんないよ?』

紅華の笑い声を聞いて、時雨の頬が、薄くピンク色になった。

『ねぇ。今日って、何か予定ある?』

「いえ。別に何もありません」

紅華は、嬉しそうに、声を弾ませた。

『なら、ちょっと付き合って。十一時に門の前集合。じゃ』

「あ…また」

強制的に切られ、時雨は、大きなため息をつきつつ、頬を緩ませて着替え始めた。
電話を切ってから、紅華は、鼻歌混じりに、シャワーを浴び、いつもの朝と同じように、バスタオルを体に巻き付けたまま、タンスの中から、次々に、洋服を出した。
鏡の前で、合わせては、ベットに投げてを繰り返す。
いつもとは、雰囲気の違う服を選び、濡れた髪を乾かした。
着替えると、いつもと、ちょっと違うメイクをした。
準備を終え、紅華が、時間を確認すると、約束の十分前だった。
紅華は、ポーチや財布などをバックに押し込み、門に向い、プライベート用の出入口から出た。
時雨の後ろ姿が見え、黙って近付き、その真後ろに立った。

「おはよ」

勢い良く、振り向いた時雨は、普段、着ている茶色のジャケットではなく、深緑色のカーディガン、黒のハイネック、茶色のジーンズを着ているが、髪型と眼鏡の色は、変わらない。
ニコニコ笑っている紅華は、普段のジーンズにパーカー姿ではなく、桜色のボレロ、白のハイネック、深緑の膝丈パンツを着ていた。
次第に、不思議そうな顔になり、紅華が、小首を傾げているのに、時雨の視線が、釘付けになった。

「時雨?どうしたの?」

時雨は、頬を赤く染めて、眼鏡の位置を直した。

「いえ。何でもありません」

「変なの」

クスクス笑う紅華を横目で、見てから、また眼鏡の位置を直した。

「それで?今日は、どうしたんですか?」

「あ。時間。ヤバっ。早く行こう」

「え?は?ちょっと、紅華さん!?」

紅華は、時間を確認すると、驚く時雨の腕を引っ張るように歩き出した。
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